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コロナに見る「いじめ」の仕組み④

リーディングマスター・まさみちです。見えない心を探究していくと「そもそも事の始まりは何だったの?」という問いを思いつくようになる。ふと気づくと「ずっとある居場所のなさ感」など覚えがないだろうか? 幼少期に何かあったのか? それともそれ以前から? よくわからない感覚を残したまま過ごしてきた。

どこから見たら罪になるのか?

リーディングという方法を身につけると「散々な目に遭った過去世の体験」を思い出し、「冤罪によって信頼を奪われ迫害されたこと」があったとわかる。
その「そもそもなんで迫害されるほど信頼を失うの?」と問うと「良いことをしたとしても、末端まで行き届いておらず、5万人を喜ばせても150人ほどが恩恵から洩れていたから罪に問われた」とある。
100%の全力で挑んだことでも、救われない人からすれば「見捨てられた」と感じるものだ。
その150人の中に賢く強い者が現れ、「見捨てただろ!」と問いただしても「全力を出している為認められない」から、怒りを買う。
150人には真実かも知れない妄想も、滅びのタイミング(栄枯盛衰)であれば真実として流布されて信頼は失墜する。
全貌が見えなければ、妄想話の方が真実のままとなる。
しかも150人は、弱者ではなく自らの意志で耳を塞いで「良いことを拒んだ」とある。けれども150人にその自覚はない。
「声をかけた」事実があっても「聞いてない」問題だ。
「言った」と「言ってない」という類いが、自分の過去世の迫害の理由とするなら、あまりにも悲しいものだ。
そして魂の学びとして阿摩羅識(あまらしき)にアクセスすれば、「そもそも、何の学びだ?」と問えば「一人も洩らさず救済する決意を持たせる為」と出てくる。
そのような枷(かせ)を自らに背負わせて、「どこに行っても居場所のない感覚」を抱きながら終わりの見えぬ転生を歩いていたのかと思うと、天を仰ぎ見るしかなくなる。
「おお神よ」ってね。
もうすぐ、旅も終わりそうだ。

コロナにかかる人たちの33の観念

膨大なリストを読み取った。

大枠①「777〜002,悪い奴を悪いと言って何が悪い!」13個。
中枠②「466〜001,人のことなど構っていられる余裕はない」8個。
小枠③「488〜003,人は分別を持って生きなければならない」4個。
小枠④「496〜004,自分の事しか考えない人は自業自得で身を滅ぼす」8個。

これら同時に意識を各領域に繋ぎ、33観念を一度に読み解いてみる。

全てにおいて「陰」の部分がネガティヴであり、「陽」の部分がポジティヴである。根っこは腐っていても、地上の部分は元気はつらつだと見せかけているものでもある。これが何故成立するかというと、「陰」と「陽」は全く別もので繋がり合うことがないという理屈が隠れているからだ。

単純に言い換えれば、「女は女」、「男は男」であり、繋がり合って等いない「個人」であり、「二人で一つ」などという表裏一体の関係などある筈がないという理屈があるからだ。

「陰」を除外して「陽」だけを見ていれば「厳しいが、そうするしかない」部分も感じるところもある。だからといって「良い表現ばかり」とも言えない。

また「子どもは子ども」、「大人は大人」という分断意識もあり、繋がっていない。

ここには子ども差別と性差別がある。

女、子どもを守るつもりが、女、子どもを排除する世界を創り上げている。

「男たちに任せておけ」と夫や父、兄など男社会は男社会の正義で生きてきたつもりが、やっていることは排斥するような仕組みの中で懸命になっているだけである。

枠組みを壊さなければならぬ男の知恵が、枠組みに従って隷属したまま操り人形のごとく伝統を重んじ、形骸化を増長し、腐敗や利権の獲得を「お前たちの為だ」と汗水流していると言っているのだ。

おかしいと感じている男であっても、自分が立っている土台を崩すことが出来ないでいる。自我は自我を止滅させることが出来ない。

心を開くことさえ出来ない男が、自我の策略を乗り越えられる筈もない。

「女、子どものために」という大義名分が、全くの嘘であり、戦争に明け暮れた歴史が物語るように「血に飢えた修羅」でしかないのだ。
いつからだ? と問えば「生まれた時から」という解が得られるほど、私たちは「原罪」というものに苦しめられている。

「原罪」という自分という「わたし」を認識する為には「わたし」と「あなた」は別ものだという価値観が形成されてしまうことを指す。

わたしという「男」を認識するには、あなたである「女」を知る必要がある。
しかし、全く性質の異なる存在を100%信頼出来て「わたしを知る」ことが出来るのだが、「汝自身を知れ」という言葉は「わたし」にかかっている言葉だと信じてしまうのだ。

「わたし男=あなた女」とした認識を「汝自身を知れ」という一言にまとめられていることなど、わかるはずもなければ、分かりたいとも思わないものだ。自分を知る為に異性を信じることが道であるなら、それは途方もない難題でしかないからだ。

女、子どもを信じることの困難さは父親になった者ならわかるものであるし、自分自身でも自分の事を信じることが困難であることもわかる為、異性を無条件に信じることから取り組まなければならないなんて知識で理解出来ても、実践出来るとは思えないからだ。

どれだけ知識や経験を積み重ねても「女、子どもは守る」という戦う構図の意識を改めることが出来ないでいるのだ。そもそも自他の区別をしている時点で、調和や平和など訪れる筈もないのだが、「地球は一つ」「地球家族」などそれっぽい知識を持ち合わせていても、体現出来ていない自分が「心を開けていない臆病者」だとは認められないのだ。

例え公言し、臆病者だと認めていたとしても「心を開く」に繋がっていなければ意味も価値もない。結局は否定理論で尊敬しつつも認めない姿勢を繰り返し、調和しないのは「相手が譲歩しない」からだと、「自分の心が開いていない」状態で「相手に心を開け」と要望するおかしさに気づかなければならない。

自我で自我を改めることが出来ないように、男同士でも修正出来なければ、女子どもがどれだけ力をつけようにも、その力を借り受けて男の力は増幅する為、不毛な争いしか生まれない仕組みだからだ。

男たちからすれば、自分の中にある異性や子ども心と戦っているようなものだ。

女たちからすれば、ギャン泣きして戦っている男を白けた目でさげすみ、自業自得だと放置しているようなもので、子どもを味方につけた気でいるが、子どもからしても母を尊敬しているとは限らない。

子どもたちからすれば、夫婦仲の悪い両親に辟易しており、どちらかの味方につくこともあれば、どちらの味方にもつかないこともあり、自分は自分の戦いをしていくと世界を変える為に否定理論を持ち出してくるジレンマがある。

否定からは何も生み出さない。

と知りながら、「我思う故に我あり」という発想がネガティヴの色合いを帯びていることにどれだけの人が気づけるだろうか?

ネガティヴなものは虚像や嘘であり、時間と共に消え去っていく儚いものである。
栄枯盛衰というように、何事も流行廃りがあると割り切れば「上手く行かないこと」さえも受容して生きられるものである。

ネガティヴなものも上手に付き合っていけば金になるし豊かに見せかけてくれると好意的に解釈しようとする。無くそうにも消せないし、大の大人が知恵を出し合っても心を完全に開くことなど出来ないからだ。いわゆる覚醒(覚者)というものだ。

そんな途方もない宗教みたいなものに取り憑かれたくないし、過去世で散々取り組んでも戦争しか起こしていないような結果しかなければ、特に日本は宗教離れしていなければ正常の人とは認知されない。

政教分離としている以上、人生に宗教は「お飾り」としているのだ。

見えないものを見る仕組みが消え去り、見えるものだけに特化している現代において、「目を光らせる者がいない無法地帯」とも言える社会システムがここにある。

陰陽寮があった太古では、「目を光らせる者」がいた為、どれだけ見せかけを整えても、一歩踏み込んだ確認作業が不審な者には執り行われる為、迂闊なことは出来なかった。しかし、そんな「見えない部分にも目を光らせる者」も、形骸化してしまうと怒りを買うばかりのことをしてしまい潰されてしまうことになる。

真実というものは見えていない人の心にも光を照らすものでなければならないのだ。それが多数ではダメであり、全員であることが好ましい。その全員の意見が一致するのも妥協や諦めなど、後ろ向きの人がいないことであるし、居たとしても全員がそのリスクを共有してその上での決定であることが大事である。

そんなもの「神」でしか解らぬことだ。

と思いつくなら、それこそ「神道」の国であった日本古来の生きる道に戻ることがここにある。

神道であれ、何であれ形骸化し、「お飾り」に至るのは「力が無い」からである。
力があり、実力を示し、物事が動くならば人の心は動いていく。

男であれ、女、子どもであれ、「戦いを避ける道」を示してくれるならば、この戦いの歴史を終わらすことにみんなが協力してくれると信じて良いのだ。

「全員が力を合わせている発想」から始めることなのだ。


人は先入観によって心が征服されているものである。

自我の発生は、「笑ってばかりいられない」と気づくことからだ。

楽しい楽しいと子どものようにはしゃいでいると、「遊んでばかりいられない」と親や先生が勉強を強要して身につけさせようとしてしまう。

いつしか勉強が楽しくないものという先入観が広がってしまっていて、「やりたくないもの」リストに加えられてしまう。

何故なら、賢い人は問題を引き起こすからだ。

どの社会であれ、「あれ、変じゃない?」と現行のルールに違和感を覚え、声を出す人はどれも「賢い人」である。

それは同時に「仕事を増やす迷惑なこと」になるし、「頭を捻り新しい閃きでも持ってこないと解けない困難なこと」でもある。

目上の人に意見をしたりすると親は子のその態度に「心配して嫌われてしまうのではないか」と危惧してやめさせたいし、仲間たちからしたら「偉ぶってる」と感じたまま口走られてしまい、「そんなつもりはなく、ただみんながより豊かに幸せであるように行動した」だけのことが四面楚歌のような出来事として還ってくる。

大人の賢さを上回る子どもの賢さを「賢い」と認識出来ないとは知らないのだ。

みんな「客観視」出来るものだと信じて疑わない。
主観の方が客観より劣っていると信じているが、客観を見ている主観の眼差しがあることに気づかなければ、どこまでも「自分の思い込みの世界」でしかない。
とわかるものだが、これが分かりたくないものでもある。

そして互いの認識の世界を踏みにじらないように境界線を引き、不介入でいることで互いを認め合って問題にならないように調和しているのが現状だ。

それでも家庭内では、価値観の全く違う者同士が同居することにもなり、力がある親のマウントが「躾け」と称されて行われる。

親が賢く、子がそれを尊敬出来ていれば問題は起きにくい。
夫婦や男女間も同じ事で、相手を尊敬し、尊敬に値するやりとりが誠実に行われていれば問題にならない。

問題が発生する場合は、劣っている者が他者の力を借りるなどして優れた姿に変化成長する時だ。

子が親を越えること、弟が兄を越えることなど、親や兄の立場からすれば「どうしてそんなに偉そうで不愉快な事ばかり言うようになったのか」という因果関係が見えない為、起きている出来事を受け入れられず先入観に従って行動してしまう為、大衝突にしかならない。

第三者も認識の根底から覆る価値観の転換(先入観を改める方法論)を熟知して身につけているならともかく、それが出来る人なら「心を開いている」ことになる為、悟りでも開いていなければそんな真似は出来ないと多くの人は知らないのだ。

多数に寄りかかる価値観を形成している日本人は、少数やましてや劣っている先入観で見ていた相手が優れている姿に変化している事実などあっても「受け入れられる」ものではない。

そして争いが生じる。

変化するきっかけは「出会い」である為、争いの焦点は「こいつが現れたからおかしくなった」と変化点を責めるようになる。

村に余所者が来て変化し始めたなら、「余所者こそ悪者!」になる。
娘の性格が変わったなら、付き合った「彼氏こそ悪者!」になる。

日本人はとかく変化を嫌う。
それは先入観で支えている自我が消えるなどしては「自分の人生を否定された感」が来てしまい、精神的苦痛が生じてしまうからだ。

精神的苦痛は避けるべきだから、「変化しない」ことの「何が悪い!」という開き直りの精神に埋没している価値観がここには隠れているのだが、当人だけがそれに気づけないし、周りに居るわかっている人たちでさえ「わからせる」ことが出来ない関係にあるのだ。

全員で「変化しよう」と呼びかけながら全員で「変化したくない」と言っている部分があるのだ。だから日本は時間が止まったままのような感覚があるのだ。

このような33個も同時に観念に意識を繋げながら紐解いて見せなければ、集合無意識の発想そのものから抜け出せないとはわからないものなのだ。我々の意識は繋がっている為、繋がっている全員が承諾できる関わりで話しかけてくれなければ、理解することも起きないのだ。

個人でありながら全員の問題として取り組む必要がある。

何事においても本質はそういうものである。個と全は一体である。男女が一体であるように、子どもも大人も境目などないのだ。

だからといって温泉や大衆浴場を「混浴にしろ」とか言っているものではないと理解して欲しい。

法律やルールなど秩序を保つためには、厳しい処置や制裁さえも必要なことがある。罰則の徹底がなければ人は法を守らないようになる。
生きる上ではポジティヴさで関わることが絶対的な条件であるが、ネガティヴを否定してポジティヴを肯定する生き方では、ネガティヴに陥った人の救済がないとは気づかない。

何よりネガティヴを否定している本人の心が投影され、女、子どもに伝わる因果関係が見えなければ父がどれだけポジティヴに励ましても、母がネガティヴから抜け出せないジレンマがあることを伝えたいのだ。

上を向かせようとする兄に、下しか向けない弟の構図などがあるのだ。

それが師弟であり、先輩後輩であり、友だち関係でも起きる。

ポジティヴでいる人はネガティヴさを変えて笑顔にしてあげたいと思うのだが、自身の否定意識でネガティヴの人たちをよりネガティヴに追いやっている因果関係は知らないのだ。

知らなければ何をしてもいい。

優しい嘘ならついてもいい。

悪気が本当にないのだから「気づけ」と後から責められても「その時」言ってもらえなければわからないと弁解するが、「その時は恐くて言えなかった」と後から言う方が常にマウントが取れる世界になっている。

自分の身は自分で守るしかない。
「いざとなったら誰も守ってくれないからね」
と、これを権威や財力がある人が使うと、「自分の身を守る為なら、全力で敵を討つべし」と、あらゆる手段を講じて女や子ども相手に容赦ない仕打ちを仕掛けることがある。

弱者である女や子どもの立場の者が、権威に立ち向かうのは困難であってもやり遂げられる時がある。潰される時もあるが、陰陽のバランスが反転すれば女や子どもも陽の世界に飛び出す事が出来、男を陰の世界に追いやることが出来る。

勝てば官軍、負ければ賊軍。
そう言われてしまうように、何においても大衆の目から見て「共感すること」が大事である。それは政治や権力や会社の決定に従う大衆の多さが大事なのだ。
うまい汁を吸っている者が、自身の体制を変えることなど出来ない。
辛酸を舐めている者が、外側からどれだけ変化を要求しても鉄壁の防壁に阻まれて正義や道徳が通用しない。

秩序が崩壊してしまって、犯罪や増加し、流通が麻痺してしまうと小難だったものが大難になってしまい、今以上に大きな災難がやってくることを賢い人は想像するため、「女、子どもの意見はわかるけれど黙殺する」ものなのだ。

「堪えてくれ」と。

男たちは、孤高にも一人で犠牲になることを承知で「女、子どもたちの幸せを願う」ものであるのだ。それを忘れてはならない。


人生の決め事は「最後には自分一人で決めるもの」という絶対ルールが崩れた。

最後の最後の決断は一人でするしかない。

そんな哀しみを起源に生まれた自我や、「あなたにはわたしの気持ちはわからない」と信じている自我が、人生の舵取りを一人で決めているなら「自殺」さえも一人で決めて良いことになる。

最後は自分一人で決めるしかない。
このルールで自殺者は発生する。

最後の決断は天のわたしに従うことで決めたとするならば、自殺は絶対に発生しない。

真我に従う自我であるなら、ネガティヴに生きることなど出来なくなる。

最後の決断を「あなたに委ねる」とされるならば、「大いなるわたし」に繋がっているあなたが、委ねてくれた人をネガティヴに扱う筈などないのだ。

「わたし=あなた」という真の姿がわかるのであれば、いざという時に丸ごと背負い上げてくれるあなたが居る関係を築ける人生を贈りたいものである。

自殺をする者は、「相談すること」そのものが出来る環境でないし、打ち明ける器が相手にないと見切っている思い込みがあり、苦労をかけたくない先入観の虜になっている場合がある。

7,陰「傲慢になるな」陽「人に頼ってばかりいるな」
6,陰「絶望するな」 陽「自分を信じて行け」
5,陰「謙遜しろ」  陽「一度言葉を呑み込み考えてから物を言え」
4,陰「逃げるな」  陽「我慢しろ」
3,陰「嘘をつくな」 陽「迷惑をかけるな」
2,陰「悪く考えるな」陽「自惚れるな」
1,陰「恥をさらすな」陽「愚かになるな」

7つのチャクラに応じた戒めを陰陽で解説した。
これに全部閉じ込められると、いずれ人は狂う。
自殺の可能性もある。

脳科学では脳は肯定文でしか認識出来ないが、上記は否定文である。
脳が判断し辛い表現なのだ。
大変苦痛を伴う文面である。
しかし、哀しみに執着する自我は解り易いのだ。

7,陰「生きている」  陽「笑っている」
6,陰「ありがとう」  陽「大好き」
5,陰「幸せ」     陽「一緒に居る」
4,陰「生命力」    陽「元気」
3,陰「遊んでいる」  陽「創造している」
2,陰「解り合っている」陽「自由でいる」
1,陰「ここにいる」  陽「今」

いつでもこのような心持ちでいられれば哀しみに囚われることもない。

陰陽が男女の思いであるなら、見ているものが違うことに気づく必要がある。
全く違って見える真実を信じられるかどうかにかかっている。

それも「まず信じることから始める」ことが出来るかどうかにある。

始まりが「無条件に信じる」というところでなければ、何も変えていけないからだ。

友だちを持つなら「無条件に信じてくれる友」で在りたいものだ。

誰も信じないことを信じてしまう人は「誰からも信じる関わりを示して貰えないため、証拠にも基づく信頼関係さえ築けない」現実を生み出すことになる。

裏切りとねつ造や虚偽に引っかかり「気をつけていながら間違える体験」をすることになる。

それも望んだ通り、信じたとおりなのだから仕方のないことである。

みんな自由意志がある。
どんな信じ方でも世界は受容してくれて、その通りの世界を与えてくれる。

自分の中にある「わたしっていい奴」だと信じてそれを理由もなく公に示せるかが大事である。

それは「失敗談」かも知れない。
誰かの呼びかけに応えているならそれでいいと感じられるかだ。

33個の観念に意識を合わせてみる。
陰・「生きたくないが、死にたくもない世界がある」
陽・「努力しても報われず、やりたいこともなく、仕方なくやり続け、早く人生を終わらせたい」
陰陽・「終わりだ」

全体では「終わりだ」と諦めの境地がここにあった。
途方もない分離感の行き着く先が男性の自己犠牲で孤高に支え続ける世界の崩壊である。

女子どもを陰の「虚偽世界」に詰め込んで息の根を止めてしまっている。
それは「終わりだ」よ。

見せかけで支えている世界が終わり、真実が具現化する。
その時、何が見えてくるかだ。

陰陽がひっくり返り、やったことが我が身に戻り、その後に恒常性が働いて元のバランスが取れた状態になるまで「終わりだ」と感じ続ける世界が続くかも知れない。

このリーディングが何をもたらすかは、これからを見ていくしかない。

「終わらないように」

と、沈まない太陽の世界を作り続けてきた男たちの夢が終わった。

陽陽「持続可能な社会の実現」との言葉の相対に、
陰陰「次世代クリーンエネルギーへの転換」があり、その本質の姿は、
陰陽「終わりだ」なのだ。

虚像に躍らされている心が晴れていけば、誰からともなく進むべき道を改めるに違いない。何年かかるかわからないが、「夢の世界」は終わったのだ。

否定しなければならない現実などないのだ。

そもそも始まりから「誰も哀しいことを起こしたい人などいない」と気づけばいいだけだ。

ルールを支えにしてしまう人は、「ネガティヴに直結する行為を思いつく人は心が傷つき、心を閉ざしている人」だと解り合えば、治して行く道を用意すればいいだけだとわかる。

死を恐れる基準の世界から、愛を信じる基準の世界に移行すればいい。

それは家族を信じることから始められる。
家族の心を一つにして、イメージした上で思考してみればきっと真心に繋がり、思いがけない気づきがもたらされる筈だ。

愛への触れ方を知らないなら、教えてあげればいい。

みんな傷ついている。
みんな心を閉ざしている。

あなたが見えなくなっている。
わたしも自分を見失っている。

だから全員で心を一つに合わせたイメージを持ち「わたしを信じている」と祈れば良い。

祈ればエゴが騒ぎ立てる。

「今更だよ」
「遅い」
「嘘つき」
「信じていないくせに」
「また見捨てるだけでしょう」
「どんなに哀しかったかわかっているの」
「みんな死んじゃった」
「哀しくてたまらない」
「嫌い嫌い嫌い」
「ここにいたくない」
「わたしを還して」
「わたしはここにいた」

人によって祈りで思い浮かぶことは変わる。
それぞれでやってみて欲しい。

「わたし」を「あなた」に変えてみて欲しい。
「みんな」に変えてみて欲しい。
「誰をも」に変えてみて欲しい。
「あまねく人たち」に変えてみて欲しい。

祈ってみて欲しい。
思いが伝わり、答えてくれるから。
何度も「信じている」と唱えて欲しい。
自分の中にある「わたし」の声が聞こえるから。
対話を始めて欲しい。

真実の愛が伝わり始めるから。

云えなかった思いの全て聞き入れてください。
鬼に乗っ取られていた人生から、魂への人生に戻すには「云うにはばかられる言葉たち」を云わないで来たからだ。

今なら誤解されない。

最後まで聞き終えてあげてください。

体に隠した思いの数々を聞き入れることが出来た時、心の異性や子ども心が笑い出します。

仲良くなれます。

自分を信じ直すことが出来ます。

素直じゃなかったことがわかります。

自分の事、本当に知らなかったのだと知れます。

あなたに委ね、心を入れ替えて(移し替えて)、云いたい放題云わせてあげられると笑ってしまうやり取りばかり聞くことが出来、泣いてしまえます。

自分との対話から、わたしへの対話へと改め、あなたやみんなと対話してみてください。

魂が目覚めます。
愛に触れられます。
今日が始まりだと伝わります。

生きていてくれてありがとう。

世界に愛が伝わるようになりました。


心は「歓喜して生きる」ものです。
元々「嬉しさ」の集まりみたいなものです。
嬉しいから、嬉しいに繋がり、終わり始まるのです。

言葉は「祝福の息吹である」と知ることです。
言葉の文脈や行間にどれだけの中身が込められるかが「幸福」をもたらす愛のパワーとなると気づいてください。体験しなければ愛の力は宿りません。

体は「生命の力そのものである」とわかることです。
肉体は真理の識別が可能です。ポジティヴなら力が入り、ネガティヴなら弱い力として抜けていくものです。
阿吽でも示されているもので、宇宙の神秘を解き明かすことが出来るのはこの肉体があるからです。
肉体に生命力を宿せるかは愛されていると信じることが大切です。

愛は「真理を礎にした叡智をもたらす」もので、空気のような息のようなどこにでもあり、呼吸として出たり入ったりしているものです。
いつでもどこでも愛はそこかしこに満ち満ちていて、それを吸って吐いて生きている生き物が私たちです。
大きく吸い込めば神のような叡智をもたらせますし、人でいることも出来れば、息を止めて鬼に身を堕とすことも出来ます。
自在なんです。
愛のある世界も愛のない世界も堪能出来れば、どこに住みたいかは自分の魂に従えばよいものです。

こうして、みんな幸せになりました。

めでたし、めでたし。


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