自然の摂理と性 金剛業菩薩⑯
リーディングマスター・まさみちです。言うに云えない心の声を読み解き、心理カウンセリングをしているカウンセラーをしています。潜在意識、深層心理といった顕在意識では認知が難しいものや、思い当たることがない苦痛や問題を解決することをしています。(33/88)
リーディングは、無意識を意識することで、微細な心の動きを捉え、言葉にしていなかった感性を言語化し、雰囲気と言葉を一致させる作業の果てに確立していく心理学です。
「時」という概念は本質的には「今」しかなく、「過去・現在・未来」という認識は錯覚要素という解釈があります。「時間」を生み出すには「過去に何かが起きたままにして、それを現在も否定し、未来においては二度とその出来事が起きぬように回避に努める」ことでもたらされるものと、リーディングで閃き降ろされるものです。
簡単に言えば、「過去の自分に責められ、未来の自分に問い詰められる現在の自分は穏やかではいられない」という感覚が、「時間」を認識出来るというものです。
過去の認識でいうなら「嘘」があげられ、現在もまだその「嘘」を必要としており、未来においても「嘘」を継続しなければならないという決意の中に「時間」があります。
これは事実と関係なく心の中で生み出すことが出来るので、証拠を提示され、誰が見ても本人だと認識出来るものを、本人だけが「嘘」をつけば、それは本人の世界では真実に成らないことを示しています。
ただ、この「嘘」を維持するには一人では不可能であり、複数の人により「嘘」が支えられている為、複数の人が「嘘」をやめることで、「嘘」を言い張ることが出来なくなります。その為、一人では自分の付いた「嘘」に気づけない為、対話する存在が不可欠となり、それが「仏」であるとすると、角が立たずに説得できる可能性が高まるという理屈です。
業(ごう)とは、「カルマ(行為)」であり、意思の示し方、持ち方が、継続的に行われている状態で、過去の自分が現在の自分を認めないことや、未来の自分が現在の自分を許さないことで引き起こされる苦悩のことを指します。現在の自分は過去に対して未来である為、未来の自分が過去の自分を許さないこととなり、現在の自分が未来の自分を見るとき、過去から現在を見ていると同じ構造である為、現在から未来の自分を認めないことが成立し、三者の全てが自分同士で苦しめ合う状態のことをいいます。
つまり、良い行いをしたら良い結果が返ってくる善因善果や、悪い行いをしたら悪い結果が返ってくる悪因悪果は、身に対する業、言葉(口)に対する業、意(識)に対する業が制御出来る(育てる力がある)かどうにあります。関わる自分や相手との相互関係の「過去・現在・未来」を見通した認め合いや許し合いが無ければ、貪欲(とんよく)“貪り”・瞋恚(しんに)“怒り”・愚痴(ぐち)“愚かさ”等で現れ、諍(いさか)いの種になり、繰り返しトラブルを続けることになります。
現代において差別問題が根強くあります。
過去の時代において、身分差別や貧富の差は今以上に酷く、法治国家となった今、表立って差別してはいけない規律が出来ています。それでも心理的な負担は多く、差別されている気持ちが拭えないものです(※女性蔑視など)。
現在の認識から、社会は女性蔑視は禁止されています。ルールやモラルを盾に現在の男性であれ、女性であれ、公に女性蔑視する人がいるなら止めさせるものです。それは現在から過去に女性蔑視する人(転生した人)を非難していることになります。未来に対して女性蔑視をしないと決めた人でもある為、過去において女性蔑視をしていた男性が寝返って女性蔑視を止めたとなると、過去の自分から現在の自分に対して「裏切り者扱いの非難が来る」ものです。
過去は風習や文化として女性が軽視される傾向があるのは歴史から見て事実です。
止めるべき悪習でありながら、その根絶が出来ないものです。
良くないと解っていながら止められない類いを「業」と解釈していただけると良いです。
金剛業菩薩⑯
人の心は理性的になれば制御出来るという前提で教育が為されるものの、その前提に何も教育しなければ“欲を貪り”、“怒りで奪い”、“愚かさで滅びる”ものだとされています。幼い状態は否定するべき愛するに値しないものだから、愛すべきに値するように育てなければならないとした解釈があります。それとは別に、幼い状態は愛するに値する為、愛するまま育てたらいいとした解釈があります。この違いは、悪く見れば悪くなり、良く見れば良くなるという性質であり、傾向です。心は深く根付く「識(意識するなど)」という領域があり、学びは全ての事象を受け取って覚えて知覚する「受(どう受け取り解釈するかの認知など)」という領域があり、様々な人との関わり、自然との触れ合いから気持ちが動き出す「想(感情的な気持ちの表れなど)」という領域があり、今の状況下で何を為すべきか総合的に判断して行動に移す「行(実動するなど)」という領域があり、それぞれの作用(陰)・反作用(陽)の心の働きがあって、相対的に引き合う共振現象があります。
人(理性のない夜叉のこと)・プレゼント(物)を欲しがり、奪ってでも、滅びてもいいからその欲に従うエゴこそ、自分の心だと信じて疑わず、指摘されたり、促されたり、代替え案を出されても拒絶する心の働きがあります。
天(学習中の人)・楽したい(物やサービス)を欲しがり、命令して力づくでも、嫌われてもいいからその欲に従うエゴこそ、自分の心かもと迷いつつ従い、注意されたり、罰せられたり、夢中になるもの(ゲームや携帯など)取り上げられても拒否する心の働きがあります。
明王(勉強中の人)・役立ちたい(物やサービスや感謝)を欲しがり、交渉して承諾させてでも、後々のことは考えなくていいから欲に従うエゴこそ、自分の心じゃない気がしてても従い、反感をされたり、責められたり、継続出来ないようにされても、意地を突き通して抵抗する心の働きがあります。
菩薩(躍進中の人)・達成したい(物やサービスや感謝やより優れたもの)を求め、自戒に努め、計画性を失わないよう確認を繰り返して行くことで不利益を被らないとするエゴを、自分の心に決まっているとして、否定されたり、拒絶されたり、意地を突き通されると、ムキになってやり返すことで貧しさや、怒りや、愚かさを最も大切にする一部の者だけ(自分だけ)に見せ、それ以外の多数では見せないで済ませられるのでエゴを自覚出来ない心の働きがあります。
如来(自然の人)・調和(物やサービスや感謝やより優れたものや誰もが微笑むこと)を信じ、欲を消し去り、怒りの根源を紐解き許し、愚かな者にも道を開き導けるよう関わり続け、相対性に表れるエゴを見せてくる人を愛していくことで、自身の真心を示し、否定されても受容し、拒絶されても抱擁し、意地を突き通されるなら支えとなるエゴを祓い清めて無に還し、無視し通すエゴさえも見つけて愛を注ぎ込み、共に笑い合えるように促し、殺意や憎悪や破壊や嘘はさせまいと禁じる心の働きがあります。
過去・現在・未来の自分の心同士で矛盾し合う言い争いが起きたとき、マイクの音をスピーカーが拾い上げると、ハウリング現象を起こすように、自分の過去・現在・未来の心の声が、自分の過去・現在・未来に聞こえると、ハウリング現象のように強烈な音が出て、頭痛や吐き気やしんどさや気力そのものが萎えてしまい、精気が消え去ることがあります。このハウリング現象が“欲を貪り”、“怒りで奪い”、“愚かさで滅びる”ものという三業とされ、過去・現在・未来を同時に癒やすことが出来たとき治るものです。
人(夜叉)の段階では、ハウリング現象のまま従い、制御不能となって悪さをしてしまうものです。
天の段階では、ハウリング現象は距離を取れば収まると解るので、逃げるなど環境を変えれば落ち着くと学ぶものです。
明王の段階では、ハウリング現象は押さえ込むことが大切(筋トレなど感情制御のスペシャリスト化)だとするので、追い詰めて制御出来る精神力や感情のコントロール方法を教えて乱されないように勉強していくものです。
菩薩の段階では、ハウリング現象は回避できる余裕があるので、話を聞き、改善策を与え、力を貸すとして協力体制を崩さぬ事で躍進していくものです。
如来の段階では、ハウリング現象は直に身体ダメージとして来る為、現象を消し去ることに努め、慈悲を慈愛に変えて行き、どこまでも精進するものです。
人と人とが心地よく過ごすには、自然の摂理に従い、結果に執着しないことで時間を消し去ることが可能となります。目標や目的はあったとしても、その結果がどのような着地点であっても構わないと執着を手放そうとすると様々な“欲を貪り”、“怒りで奪い”、“愚かさで滅びる”ものが浮かび上がり、ハウリング現象のような“集中出来ない”、“他ごとを考えている”、“執着を手放そうとする意思を忘れてしまう”感覚に囚われ、いつも通りの執着にまみれる煩悩の自分で落ち着くものです。それを『性(さが)』と呼びます。その「性」に「個人の問題とする」をくっつけると、「個性」となります。「個性であり個人の問題」ですから、他人にとっては関わり合いの無いこととなります。故に、他者からの干渉を拒み、欲に溺れ、怒りに困り、愚かな道のままであっても、誰にも助けられなくなるのです。「個人の問題」だからと自分が自分を見捨てている事実が見えないからです。「性」に「誰にでも起きる私個人であり、あなた個人(友人や家族の人)であり、みんなという全人の問題」をくっつけると「仏性」になります。この「仏性」という「個人の個性の世界」に「友人の仏性の世界」が交われば、ハウリング現象のように繰り返してしまう問題に待ったがかけられ、止められる機会を生み出すことが出来、逃れられないと諦めていた輪廻のサイクルから抜け出せる道が開けるよと導く存在です。
業というカルマ(行為)のカラクリがわかると、全てが自分と自分が引き起こしている問題でしかないとわかります。それが一人の時に起きる問題か、特定のグループの中で起きる問題か、決まったシチュエーションで起こる問題かによって違うだけで、気にして考えてみると「繰り返していること」は見つけられるものです。
繋がり方
金剛業菩薩を過去・現在・未来に配置し、それと鏡合わせに自分が金剛業菩薩を見つめているイメージをします。実体のない鏡の中に自分がいるイメージで,実体は金剛業菩薩です。気にしている「繰り返していること」を金剛業菩薩に重ねると、過去・現在・未来を一つにした上で、質疑応答をすると紐解けます。
参考事例を紹介します。
鏡の自分「出かけると何か忘れるの。何があったの?」
金剛業菩薩「高価なものを持っていてはいけないと教わったから」
鏡の自分「出かけると何か忘れるの。何があったの?」
金剛業菩薩「身分に合わないものを持っていてはいけないと思い込んだから」
鏡の自分「出かけると何か忘れるの。何があったの?」
金剛業菩薩「お金持ちのような物を粗末に扱う人に成りたくないと誓ったから」
鏡の自分「出かけると何か忘れるの。何があったの?」
金剛業菩薩「身分差別はいけないと教わったから、物事を否定する度合いが大きいほど貧しくなり、肯定するほど豊かになることは教わらなかったから、物を忘れて“欲しくて買ったものを失い貧しくなる”体験をし、“大切なものを「忘れ物」という奪われることで怒り悲しむ”経験をし、“金持ち(心豊かで優しき人たちのこと)を否定してしまう愚かさにより、私はあんな風にはならないという見間違いを信じることで滅びの道を歩むこと”に至っている事実に気づき、やめなさい」
鏡の自分「出かけると何か忘れるの。何があったの?」
金剛業菩薩「かつて(過去世)、出かけたとき親が金持ち(心豊かで優しき人たちのこと)を見かけ、あんな風にはならないようにと非難し、真実と違う嘘を子に教えてしまい、「いい人などいない」と心を閉ざすように育てられ、親を裏切ることを許さない自身の無知により、「忘却こそ幸せ」だと信じ込まされたから」
鏡の自分「出かけると何か忘れるの。何があったの?」
金剛業菩薩「許し方を学ばせてもらえなかったから」
鏡の自分「出かけると何か忘れるの。何があったの?」
金剛業菩薩「自然の摂理から人は離れられないと知らなかったから」
鏡の自分「自然の摂理を教えて欲しいです」
金剛業菩薩「仏性について話しましょう(微笑んでいる)」
といったやり取りが浮かび上がるかも知れません。
最後は、仏との対話について語り始めるというイメージで終わりました。
もっとも、仏との対話といっても、自分との対話です。どれだけ優れた仏が側にいても、教えてくれることなどありません。ただ見守り、うなずくか、うなずかないか、それだけです。
全部言い当てていく必要があるもので、どこまでも研究開発の連続性の中だと思ってください。
幼い自分を、優れた自分に育てるには、迷いながら試しながら、実践しながら磨いていくことです。
個人で貫かなければ成りませんが、友人や家族、師の存在をどこまで信頼出来るかにも仏性の質は変わります。どれもが自分です。自分が裏切るタイプなら、裏切られることを恐れなければなりません。自分が隠し事するタイプなら、隠し事される恐怖から逃れることは出来ません。仮に隠し事なく正直に真実を打ち明けてくれても、それを聞き入れることが出来ない業というものがあります。
業は自分で乗り越えなければならないものです。
いかがでしたでしょうか?
業というしがらみを抜け出せないと、「読むこともままならない」真実があります。
目で追っても頭に入らない、他ごとを考えている、眠っているなど、大事なことだと知識で知っていても集中出来ないことがあります。授業であれ、仕事中であれ、意識を保てないことがあります。
とても危険なことです。
これを重大だと認識出来るなら、声を掛け合い、自身の業(カルマ(行為))からの脱却に努めていただきたいものです。
様々な物事が読み解けるというのは、まさみちの知識ではないという事実があります。
この金剛業菩薩の記事にしても、閃き降ろされたまま書き記すもので、書いていて「そういうことか」と気づく自動書記のようなものです。
※記事には、「ハウリング現象」という単語を知らなければ、よく解らない側面もあるので、知らない単語は「調べて読む」ということをお願いしたいところです。m(_ _)m 情報量が多くてフォローに回れないところがあるのをご容赦ください。
解らなければ、解らない部分をコメント欄に書いていただけると答えられるかも知れません。
では、また。
リーディングマスター・まさみち。