日本史の内幕 - 戦国女性の素顔から幕末・近代の謎まで ー磯田道史
現場の古文書・史料など一次史料から細部をおさえる。
<第1章 古文書発掘、遺跡も発掘>
高尾山古墳
静岡県沼津市。
卑弥呼時代の東国最大の古墳。全長62m。
230年頃に築造され、250年頃に埋葬された。
卑弥呼のライバルともいうべき東国の王の墳丘。
初期古墳 卑弥呼時代の重要遺跡
楯築遺跡(岡山)、箸墓古墳、纏向の五つの古墳、高尾山古墳。
朝倉屋
東京で最古の書店。貞享年間(1684-88)から続いている。
「殿、利息でござる!」
羽生結弦主演。
桑野鋭
大正・昭和天皇の二代の天皇を養育した傅育官。
花柳・風俗物の雑誌を作っていた男で、公序良俗に反する記事で監獄に入った。
昭和天皇は実父の大正天皇とはほとんど暮らしていない。
父親代わりとなり絶大な影響を与えたのは、乃木希典、鈴木貫太郎、桑野鋭だった。
昭和二十年、伊勢神宮外宮神域や皇居に焼夷弾が落ちた。
皇室の男子は全滅の危険を避けるため、分散させられていた。
皇太子殿下は日光田母沢御用邸、義宮様は日光山内御用邸に疎開した。
<第2章 家康の出世街道>
2015年の家康公没後400年を前に、浜松市で若々しい家康像を浜松城に設置することになった。
東京のJIROの工房で、特殊メイクの達人が、老いた家康の肖像画から若き日の家康像を制作した。
浜松東照宮
浜松城の前身・曳馬城の城主飯尾豊前守の娘のキサは、80歳近く豊臣滅亡まで生き延び、秀吉の真実を語り、孫が「太閤素生記」に残した。
16歳の猿は浜松に来て、キサの配下の松下のよって宴会の見せ物として飯尾家に連れてこられた。
ところが機転が効いてよく仕事ができるせいで同僚にいじめられ、主人の計らいで尾張に帰された。
引間城
1500年頃に飯尾氏という豪族が来て約70年間根拠とした。
秀吉少年が来たのは1550年頃。
1570年には家康がやってきた。
発掘調査では大量の土器が見つかった。
県庁所在地や政令市の中心にある城は、大概、江戸時代のもの。戦国の戦いをしのばせる本物は少ない。
岡崎城は、現存遺構のほとんどは後世の殿様が改修した姿。
今の大阪城はメイドイン徳川で、豊臣秀吉が築き、秀頼が敗死した豊臣大阪城は地下に埋まっている。
浜松城は、1570年から86年まで家康の居城だが、家康の浜松城は次に来城した秀吉の武将堀尾吉晴が築いた石垣の下に埋まり、誰も見たことがなかった。
三方ヶ原の戦いの真相
通説では武田信玄軍二万〜三万、徳川家康軍八〇〇〇、織田信長軍三〇〇〇の援軍とされている。
ところが徳川重臣酒井家の秘蔵文書「前橋酒井家旧蔵聞書」では、織田軍の援軍二万としている。援軍は岡崎城、吉田城、白須賀に分けて分散配備されていた。
それにより武田軍は浜松城を包囲せず帰った。
徳川の世では、充分な援軍を受けながら信玄に負けた事実が隠蔽されたのかもしれない。
家康の時代の鰹のたたきは、鰹の塩辛を意味した。
1787年成立の「譬喩尽」にも塩辛だと書いてある。
水戸藩には、かつて織田信長や徳川家康に敵対した武将の子孫が山ほど召し抱えられている。
静岡は天下人となった大御所家康への畏敬、浜松は同級生的親愛。
浜松にいた頃の家康は弱小大名。
奈良の唐古・鍵、清水風の遺跡から出た絵画土器には、シャーマンが鳥の着ぐるみを着ている姿が描かれている。
<第3章 戦国女性の素顔>
秀吉は十六歳から十八歳まで浜松の頭陀寺松下氏という山伏の豪族に仕えていた。
松下氏は直虎の親戚にあたる。武田軍に居城を奪われた直虎は松下館に一時身を寄せていた可能性が高い。
秀吉は松下から公とって木下を名乗ったともいう。
秀吉時代には、日本中の大名と重臣・兵卒までが一か所に集結して対外戦争をやったため、天下・統一国家日本の現物を日本中の人間が見た。
日本は一つとの国民国家思想の形成の前処理がここで済んだ。
肥前名護屋城の御殿で秀吉が淀殿を抱いていなければ、豊臣秀頼は秀吉の子ではない。
淀殿が名護屋下向したというのは疑わしい。
<第4章 この国を支える文化の話>
戦国期の名医・曲直瀬道三「医学天正記」
名香
八重垣・花散里・初音
江戸時代には生花が、植物の生理に基づいて花を長持ちさせる科学性を獲得していく。
水生植物に水鉄砲で水を注入したり、石灰でアルカリ性にしたり、生け花の科学が日本にはあった。
宝くじの先祖は寺社の富くじ。
元祖は大阪府の箕面山瀧安寺の箕面富。大福御守の当選者を決める宗教行事だった。
はじめは御守の抽選だったが、寺社の復興費捻出に使われるようになった。
江戸期の史料では、婚礼は①夜間に②自宅で③神主の関与なしで行っていた。
神前結婚は明治以後に作られた。
江戸中期の「婚礼図書」
夫婦の営みの部屋には犬張子という犬型の箱が置かれ、子作りができたかどうか、出血やそれを象徴する紅を白紙につけて嫁の実家に送る習慣があった。
江戸社会というのは、ヨーロッパ人の感覚からすれば、殿様と庶民の差は小さかった。
食事はどちら質素で、御殿も衣服も格差は小さい。
暴力の所有は著しく偏在していた。
学問文化については、身分を超えて交流することがあたりまえに行われた。殿様は庶民でも呼び寄せて意見を聞いたし、武士学者と町人学者・農民学者の区別も、知的格差もなかった。
吉原細見
風俗情報誌。吉原の妓楼や遊女が細かく紹介され、廓内の案内図付きで、遊女の格付けや料金まで書いてある。
17世紀以降、各時代のものが残されている。
佐藤一斎
美濃岩村藩出身で昌平黌の儒官、今でいう東大総長。
弟子には佐久間象山、安積艮斎、横井小楠がおり、象山の弟子だった松陰、勝海舟、坂本龍馬は孫弟子。
西郷隆盛は「言志四録」を座右の書として持ち歩いた。
日本が植民地にならず独立を守れたのは、単に遠い島国だったからではない。
自らの出版文化を持ち独自の思想と情報の交流が行われたからである。
内田孝蔵
丸ビル眼科を経営する医学博士。
高遠藩の藩校絵画教師の家計に生まれ、ドイツに留学し、世界最高の外科学にふれた。
関東大震災で顔面火傷した患者の皮膚の引きつりをメスで治療するうちに手技が向上し、目頭をWやZ字状に切開して、目を大きくする美容整形法を確立した。
昭和6年には一重を二重まぶたにするアイテープはなかったが、二重まぶたの人が目を一層大きく見せるためのアイテープは存在していた。
昭和初年には、目の整形手術も現代とさして変わらない値段でできた。
<第5章 幕末維新の裏側>
<第6章 ルーツをたどる>
230年卑弥呼時代の世界人口は2億人。当時は中国に0.6億人、インドに0.75億人、全欧州に0.35億人が分布していた。日本人口の世界シェアは0.3%。
日本人口の世界シェアが最高になったのは、徳川綱吉や赤穂浪士の元禄時代で、5%が日本人だった。
1820年、アメリカのGDPを1とすると、日本のGDPは1.75倍、オランダは0.3倍、イギリスは2.8倍。
1850年になると、アメリカのGDPは日本の2倍近くに達する。
幕末日本は経済的にアメリカに対抗する力が十分にあり、武器はいくらでも買えた。
1940年のGDP比較では、日米で1対4.5。工業力ではもっと差があった。
世界銀行は、2050年、中国・米国のGDPは日本の約8倍、インド・EUは約5倍になると予想している。
江戸時代の日本人口は3000万人。
米作地域で高度な農業社会だから前近代としては、かなり高い人口密度となった。
徳川将軍や大名は天下泰平のため自分の膝下に家臣を集住させ、あちこちに超過密都市ができた。
当時は屋敷面積が身分格式の証で、町人は武家より狭い空間に住むの社会の基本となっていた。
頻発する火事が暗黙に前提になっており、武家や土地持ちの豪商ら金持ちが、火災のたびに屋敷を建て直し、結果的に、火災は大工など庶民に富を分配する機能をもっていた。
だから放火も多かった。
住民は穴蔵をほり、火事の時はそこに家財を投げ込み身一つで逃げた。
江戸に比べ、京・大阪では火事の頻度が少なかった。
江戸では店の焼失は織り込み済みで、大店はしばしば郊外にプレハブのような店の建築部材をあらかじめ用意していた。
それで火事場の灰が温かいうちに営業を再開する店もあった。
鈴木桃野「反古のうらがき」
江戸の隕石は東京都新宿区の早稲田と牛込榎町の「とどめき」という所に落ちた。
宗参寺の傍に轟橋という橋がある。
神社仏閣が津波後に比較的素早く再建されるのは、津波で枯死した松や杉が大量にあるからだ。
再建を進めれば、被災者は食と職にありつける。
大正期には温泉卵ならぬ富士山卵が頂上で作られていた。
1611年に慶長三陸地震によって東北に大津波がきた。
8年後に肥後八代地震、14年後に肥後熊本地震がきた。
今回は2011年の東日本大震災の5年後に熊本地震が起こっている。
熊本城は、加藤清正・細川忠利時代の姿に完全復元すると、天守・小天守のほかに国宝松江城天守に近い規模の五階建ての櫓が六つもあった。
天守級の塔がいくつも聳える日本一の城だった。