日本史を暴く-戦国の怪物から幕末の闇まで ー磯田道史



古文書を解読し、アナログな手法で探したコピペではない現場の一次情報。


<第1章 戦国の怪物たち>

松永久秀が三、四倍の敵を破る強い軍勢を組織していたのは、強引な集金の産物で奈良のお寺や金持ちに深く恨まれていた。


織田信長はヨーロッパ人宣教師から地球儀をもらい、この知識を家臣や子どもに教え、ひろめようとした。

信長は来世はなく、見える物以外には何ものも存在しないことを知っていた。見えない神と霊魂は信じなかったが、天文地理の話は信じた。

戦国時代の日本人は好奇心が強く宇宙論が好きだった。

イエズス会は日本人の性質に気づき、布教の戦略として意図的に、日本人に宇宙論を提供していた。日本人の質問に答えるために、学識のある神父が必要とされた。


戦国時代の日本人の宇宙観は2つ。

①仏教系はインドの「須弥山思想」で高い山が真ん中にある砂時計のような形の世界を想定してた。太陽が須弥山の周りをぐるぐる回る。

②儒教系は中国の「天円地方説」。天は円形で地は方形。

明智光秀登場の黒幕

細川藤孝は十三代将軍足利義輝の側近で、当時最高の知識人だった。戦国争乱で敵対する三好三人衆の急襲を受け、主君義輝が殺され、京屋敷と長岡京市付近の三千貫(一万五千石)の領地を奪われ、流浪の身となった。

そこで義輝の弟・義昭を救出し、織田信長に出兵してもらい京都を奪還し、義昭を十五代将軍にすえて幕府を再興し、領地を回復しようと考えた。

明智光秀を見出し、信長にエージェントとして送った。

本能寺の変の直前、光秀と信長は密室で言い争った。

二人だけの出来事であったと宣教師フロイス「日本史」は記す。光秀が口答えしたので、信長が怒りを込め、一度か二度明智を足蹴にした。

近年見つかった証拠では、四国の長宗我部氏への外交方針が原因か。「石谷家文書」

細川家では、本能寺の変後、明智家家老の息子斎藤佐渡殿から証言を得ている。「武田が滅亡し一族の穴山梅雪が信長に降参した。光秀の武田への内通が露見するのを恐れ、取り急ぎ謀反心を起こした」「綿考輯録」

信長の遺体

宣教師フロイス・「日本史」: 「毛髪一本も残すことなく灰燼に帰した」

「林鐘談」: 明智が瓜の紋の付いた小袖の焼け残った屍を見つけ「これぞ信長の遺骸なり」と全軍に披露して衆兵を勇ませた。

「雍州府志」: 本能寺が焼け終わった後、清玉がその場に赴き、骨灰を集め、阿弥陀寺に葬った。灰の中に信長公の衣服の焼け残りがあり、これをもって徴とした。

「信長公阿弥陀寺由緒之記録」: 1731年成立。塔頭の老輩、檀家の古老どもが覚えていた記録をもとに書き記した。明治時代に「史籍集覧」として公刊された。清玉は本能寺に僧20人で駆けつけ、裏より垣を破りて地内へ入ると、墓の後ろの藪に武士が十人余り打ち寄り、卒塔婆のようなものをくべて、火で何やら焼いている。信長を火葬にして灰となして敵に隠し、我々は切腹してお供するとのこと。清玉は骨をとり集め衣に包み、本能寺の僧が退去するふりをして、信長の骨を持ち帰った。

本能寺の敷地は一町四方と判明しているので広くない。(120m四方)


日本三大美少年

名古屋山三郎・不破万作・浅香庄次郎

淀殿と密通し、秀頼の父になったのではないかという説があるが、「武辺雑談」によれば、山三郎に恋慕したのは別の側室・松の丸殿こと京極竜子。


「河原ノ者・非人・秀吉」服部秀雄

秀吉の奥向きのただれた実態を探っている。


家康は単純に「堅固な城を作ればよい」とは言わず、「城は敵に取られるもの」と考えていた。

二条城は3〜5日間逗留するための要害でよい。敵に奪い取られたら、取り返すのが難しい大きな城を築くのは思慮が足りない、と本多忠勝に対して怒った。

北海道の松前氏と五島列島の五島氏は、居所が館のままで、異国戦の脅威が深刻になる幕末期まで、本格的な築城が許可されなかった。外国人に攻め取られた時は、侵略の足がかりになる。


17世紀半ば、幕府は西国大名を抑止する前線を岡山・兵庫県境に引こうとしていた。

1645年、幕府は浅野長矩の祖父に築城してよいと赤穂の地を与えた。1672年、脇坂安政を赤穂の隣に封じ、龍野城を再築城させた。

巨大な姫路城に徳川の譜代一門を入れ、その西隣に赤穂城と龍野城を築かせ、防衛ラインとした。

この線が関西弁アクセントの境界である。

浅野家は藩風が臨戦的になり、吉良邸討ち入りにつながった。



<第2章 江戸の殿様・庶民・猫>

12歳の家光には「重・硬・軟」の三人の補導役をつけた。

重厚感のある無口な酒井忠世、厳しく直言する青山忠俊、優しく導く土井利勝。


尾張藩主と跡継ぎが次々と死んだ後、紀伊徳川家の吉宗が将軍になった。

その後紀伊藩では尾張出身者の解雇令が出された。尾張徳川家から忍びが侵入するのを防ぐため。


「間林精要」

幻の忍術書。甲賀市甲南町葛木の神社の蔵で、中巻が見つかる。

日本で一番有名な「万川集海」は、これは江戸時代が下ってからの新しい本で、種本は「間林精要」。

忍者が失敗し、負ける時のことまで書いてある。


丹後地方は丹後ちりめんの産地で、国内の和服地の三分の二くらいを生産している。


戦国までの日本社会は村人が必ずしも定住せず流動的であった。

農民は気に入らない土地や領主を見捨てて移住した。


日本中で古文字が捨てられ始めている。

少子高齢化で独居老人が増え、さらに、家意識が希薄になってきたから、家に伝わる古文字が、家が絶えて処分されたり、ネットオークションでバラ売りされている。バラ売りされると、情報価値が著しく下がってしまう。

持ち主は古文書の価値に気づいておらず、何が書いてあるのかさえわかっていない場合も多い。


猫を家族同然の姿で飼うのは、明和6(1769)年の稲葉風(インフルエンザ)流行の時分からかもしれない。


トンボ・チョウ・ガは「日本書紀」にも登場する。

カブトムシは江戸期から。「合類節用集」

中国から伝わってであろうカブトムシ有毒説のせいで、江戸後期の虫売りは蛍を第1とし、コオロギ・松虫・鈴虫・クツワムシ・玉虫・ヒグラシは売ったが、カブトムシは売らなかった。


江戸後期は庶民までが旅日記を記した。

世界的に、前近代の庶民旅行記が残る国は珍しい。


1750年頃から江戸庶民の物見遊山の旅行が盛んになり、食欲と性欲を満たす俗っぽい旅を始めた。

各地に名物ができた。


「関東一見道中記」1811年、大和高田の薬種商・喜右衛門

奈良・三重県境の高見峠の茶屋で、熊野イワシを酢味噌で和えたものを食べた。

三重県四日市の日永村で奈良漬・香の物を一切れ一文で買い食い。

四日市の町を出て富田村で焼き蛤。

愛知県津島市の牛頭天王社で名物うどんを食べたが味悪い。

名古屋の本町に海老屋という大きな菓子と餅の茶屋があり、この家で休んだ。

舞坂宿の蛤汁。

丸子宿の自然薯とろろ汁。

由比宿ではアワビ貝、サザエ貝焼き。当時も高価だった。

富士市浮島ヶ原付近の柏原村のうなぎ蒲焼。

箱根宿の小豆飯。

平塚宿のあわ餅。

利根川の鯉の吸い物は不味い。

関ヶ原のヨモギ餅。

伊吹山麓の鮎の煮付け。


鼠小僧・治郎吉(次郎吉)

大名屋敷119家に侵入。

狙った場所は、長局65、奥向58、土蔵1、茶間1、座敷1、不明2の128ヶ所。96%は女性の居住空間。

盗金はことごとく悪所場・盛場にて使い捨て、また酒食遊興または博打に消え、庶民にばら撒かれたわけではない。


後桜町天皇

最後の女性天皇。前々回譲位した天皇。

幼い甥に皇位を継がせるために中継ぎとして在位していた。


江戸期の天皇は火災避難以外では御所から出られず、徳川幕府による幽閉に近い。


江戸期の天皇の継承には無言のルールがあった。

①10代後半の跡継ぎが得られると譲位する。

②跡継ぎが十代後半に達しないと譲位しにくい。歌会始めなど歌会を催す際に、立派に和歌が詠める年齢が求められた。


江戸期の宮廷は皇子の死亡率は高く、三歳までに世を去る方が多かった。

仁孝天皇(在位1817〜46)も孝明天皇(1846〜67)も譲位できず、その後明治・大正・昭和と終身在位制をとったため、200年以上も退位する天皇がなかった。



<第3章 幕末維新の光と闇>

西郷隆盛

自他の区別がなく弱い者の気持ちになれる。ユーモアと明るさが持ち味。

一度謀略をはじめると、暗殺、口封じ、欺瞞なんでもやった。


「六ヶ所村史資料編」

1746年頃、六ヶ所村付近の十六村の家数は1781軒、人口約1万1千人。

通常米で一万石の村高があるところ、米はあまりとれず、馬が8849疋、牛が281疋いた。

狼を仕留めれば、殿様から銭七百目、鷹を捕獲すると二〜三両もらえた。

鮭・鱈・鰹などの漁獲の二割以下を年貢の代わりにおさめていた。

貝や昆布・ふのり・てん草も貢ぎ物だった。


日本はどこでも稲作をしていたというのは幻想。


武士が月代を剃る頻度は、概ね六日に一回。


明治五年秋の段階では、まだチョンマゲの人も多かった。


江戸期の伊勢には外宮と内宮の中間に大きな歓楽街があった。

男たちは参拝もしたが、風俗的な遊びも目的にしていた。

明治になって、伊勢はそれまでの歓楽街から真面目な空間に変わり始めた。

農業館本館が建ち、農産動植物の標本を見せていた。

本館西隣にはパノラマ館でき、女性のコンパニオンが説明者になってアメリカ南北戦争の絵画を解説していた。


日本では修学旅行は明治十年代から師範学校などで始まった。

最初は長途遠足などと言っていたが、明治に十年に「大日本教育会雑誌」に修学旅行の文字が登場。



<第4章 疫病と災害の歴史に学ぶ>

明治四年(1871)の維新直後の醍醐忠順家の日記

シベリア海岸にリントルペスト(牛疫)が流行り蔓延。上海駐在の米国領事から日本政府へ忠告があった。

当時の日本は、牛馬で生産を支えていたため、運送も耕うんも糞畜としても牛馬が主力だった。

牛の病気の流行は一大事。

空気感染の概念や病原が衣類や物品に付着して感染が拡がるなどの新知識が明治の日本人に伝わった。

明治の新政府は開港場で厳に入船を改め、検疫を開始した。

手洗いうがいを奨励し、身体を清潔にし、衣服を洗濯し、天気よき日には窓戸を開き換気をすることを国家が推奨した。

またセックスの回数を節約せよとした。


現代は感染を拡げないために自粛するが、江戸時代は殿様にうつさないためだった。

1680年から、疱瘡・麻疹・水痘の三つにかかると、幕臣は江戸城への登城を35日間遠慮した。


江戸の都市住民は、まず天然痘に罹患した。

徳川将軍は歴代15人中14人が罹患した。かからなかったのは8歳で死んだ七代・家継のみ。

江戸時代の天皇も15名中7名が罹患した。


岩国藩では君主を守るため自粛を強要し、退飯米といって、病人・看病人・同居人等の隔離費用を生活費も含め領主が負担した。

費用は流行一回につき米二百石。


津山藩の安藤丹後という家老

疱瘡で死者が多いと聞くと、町奉行に死亡統計の報告を指示した。

感染症の状況把握に官僚が統計を駆使していた。


津山藩主・松平康乂(やすはる)は十五、六歳だったが、外出のたびに、藩主が通る道筋に疱瘡患者がいないか問い合わせ、報告がなされている。

藩は藩主を守るのに必死であったが、町民を感染から守る努力は見えない。


スペイン風邪のパンデミック時、原敬首相も感染した。

のちの昭和天皇、当時皇太子であった裕仁親王殿下も感染された。さらにその弟宮である秩父宮さまも感染された。


日本最古のマスクは1855年頃、石見銀山の鉱山労働者の健康対策に宮太柱が開発した福面といわれる。

鉄の針金枠に薄い絹布を縫いつけ、柿渋をぬって、紐で両耳につけ、中に梅肉を仕込んだ。殺菌と唾液分泌のためである。


京都が最後に震災に遭ったのは1830年で、文政京都地震。

怪我人1300人、即死280人。

二条城の被害が約六万両。御所内が約三万両。一両は約30万円。

公家は薄禄で多くは高数百石ほどの領地しかない。自力で復興するのは難しく、領知高が何十万石の大名に妻縁などを頼って金を無心するしかない。

さもなくば、娘の縁談を進め、大名から支度金をもらう。

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