祖父たちの零戦 Zero Fighters of Our Grandfathers ー神立尚紀
<第一章 黎明>
左ひねり込み
零戦はプロペラトルクの関係もあり、右旋回よりも左旋回の性能のほうが格段にいい。
操縦桿を左に倒し、機体をほぼ九十度に傾けた左垂直旋回から、左斜め宙返りに持ち込む。
フットバーをやや左に踏み込みながら操縦桿をいっぱいに引き、相手を左斜め宙返りに引き込む。
宙返りの頂点、背面になる直前に、左足のフットバーを緩め、逆に一瞬、右フットバーを蹴る。
同時に、腹に引きつけていた操縦桿を右に倒すと、右翼が地上から見て上がり、機体はコマのように捻りながら、左に小さく回転する。
これでたいてい相手の後ろにつくことができた。
日本の編隊スタント飛行チームの草分けである、源田サーカス、岡村サーカスの両方で腕を磨いた望月勇一空曹が発案したとされる。
海軍士官の俸給は他の国家公務員と変わりないが、飛行機搭乗員には航空手当、危険手当などの加算がついて、一般兵科の軍人よりもはるかに実入がいい。
現代の大卒初任給約20万円として比較すると、月額40万円弱に相当する。
それに本俸と同じくらいの加俸がついた。母艦や戦地勤務になると、航空手当や戦地手当がつく。
明日の命をも知れない日常のせいもあってか、飛行機乗りには、金に執着しない者が多かった。
昭和十六年九月十二日
聯合艦隊司令長官・山本五十六
「それは、ぜひ私にやれと言われれば、一年や一年半はぞんぶんに暴れて見せます。しかし、その先のことは、まったく保証できません」
<第二章 奮迅>
「もし戦争になったら、なるべく敵に痛い目を見させて、講和条件が有利になるよう全力で戦う。そのためには、個々の戦闘能力を、極限まで高める努力を惜しまない」
真珠湾攻撃はだまし討ちではなく、奇襲だった。
最後通牒が間に合わなかったのは事実だが、アメリカも1898年の米西戦争では宣戦布告なしに戦争をしている。
ハル・ノートを日本に突きつけた時点で開戦を覚悟し、戦争準備をしていたはず。
真珠湾の対空砲火を見れば一目瞭然。ふつう、炸裂弾を弾薬庫から出して信管を取り付け、発射するまでには、ある程度の時間を要する。それが第一次攻撃隊からも損害が出るほどの早さで反撃できたのは、臨戦準備していたとしか考えられない。
だまし討ちだというのは、日本の実力を過小評価していたため予想以上の被害を出してしまったことに対する責任逃れにすぎない。
戦争にだまし討ちはない。
真珠湾に第一弾が投下された十時間後、昭和十六年十二月八日の午後一時半(日本時間)すぎ、フィリピン・ルソン島の米軍航空基地、イバ、クラーク両飛行場上空に、日本海軍の双発陸上攻撃機106機と零戦85機が殺到した。
たった一度の空襲で、フィリピンの米航空兵力は、基地機能を含め、その過半を失った。
米軍は、日本に戦闘機は航空母艦から発艦したと信じていたが、実際は台湾の高雄日本海軍航空基地からだった。
どの機体、どの搭乗員でも、燃料消費を毎時90リットル以下に抑えて、片道五百浬(926キロ)の長距離進攻が可能。
零戦には、機体のタンクに520リットル、増槽に330リットルの燃料が積めるから、巡航で飛ぶだけなら約9時間半、約千九百浬(3500キロ)は飛べる。
空母を使用しないことで、空母を別の方面で有効に使える。
<第三章 逆風>
南太平洋海戦 十月二十六日
日本側は米空母ホーネットを撃沈、エンタープライズに損傷を与え、飛行機74機を喪失させる戦果を挙げたが、空母翔鶴と瑞鳳が被弾、飛行機92機と搭乗員145名を失った。
日本海軍の機動部隊が米海軍の機動部隊に対して互角以上のわたり合った最後の戦い。
ここで多くの練達の搭乗員を失ったことは、以後の作戦に重大な影響を与えた。
機体を滑らせる
左右どちらかのフットバーを踏んで方向舵を操作して、機体が機首の方向から見て横に滑るように飛行すること。
機首の向いた方向からでは進行方向を読むことができず、敵機の射撃の照準を狂わせることができる。
フットバーを踏む方向と逆に操縦桿を倒すと、より急激に機体は横滑りする。
ケ号作戦
ガダルカナル島からの撤退。
昭和十八年二月一日、四日、七日の三次にわたり、夜間駆逐艦を大動員して行われた。
米軍側は増援作戦と誤判断していた。
ダンピールの悲劇(ビスマルク海海戦)
陸軍輸送艦7隻、海軍輸送艦1隻、護衛の駆逐艦4隻が撃沈され、3600名以上の戦死者を出した。
ラバウルの零戦の大部分をもって護衛しながら敵に一方的な攻撃を許したことで、航空兵力が敵と比べて弱体であることが疑いようのない事実となった。
反跳爆撃(スキップ・ボミング): 米陸軍第五航空軍がポートモレスビーで訓練を重ね、このときはじめて実戦に使われた。
ダグラスA-20などで、爆弾を魚雷のように超低空で投下し、海面に反跳させて艦船の側部に命中させる。
山本五十六が戦死したことで責任を負わされた者は、一人もおらず、護衛を果たせなかった六人の零戦搭乗員たちは出撃を続けていた。
サッチ・ウィーブ
米海軍のジョン・S・サッチ少佐が、グラマンF4Fで零戦に対抗するために発案。一、三番機、二、四番機が最低一組になって、二機、二機で相互に支援することで、敵の編隊空戦に対抗し、損失を減らす。
ガダルカナルの大空戦
昭和十八年六月十六日 セ作戦
米側資料によると、米軍戦闘機104機のうち、失われたのは6機。輸送船1隻、戦車揚陸艦1隻が大損害を受けたが、沈没は免れている。
日本側の損害は、零戦15機未帰還(戦死15名)、一機不時着水、4機被弾(負傷2名)、艦爆13機未帰還、4機被弾(戦死28名、負傷1名)。
艦爆の損失は未帰還機だけで過半数を超える致命的な数字だった。
<第四章 完勝>
スーパーマリン・スピットファイア Mk・V
バトル・オブ・ブリテンでメッサーシュミットBf109などのドイツ機を相手に、ホーカー・ハリケーンとともに母国を守り切った救国の名機。
零戦二一型: 時速288ノット(535キロ)
スピットファイアMk・V: 時速318ノット(589キロ)
カタログスペック上の上昇力はスピットファイアのほうが上。航続距離は、増槽をつけた零戦の1/4程度、430浬(800キロ)しか飛べない。
武装は二十ミリ機銃2挺あるいは七.七ミリ機銃8挺が装備されていて、威力は零戦と大差ない。
向こうのホームグラウンドで邀撃されると、相当な苦戦が予想された。
公娼制度があった戦前、海軍では隊員の性病感染を防止するために下士官兵の上陸時には必ず鉄兜(陸軍では突撃一番)と称するサック(コンドーム)とともに性病予防薬の軟膏を各自に持たせた。
サイド、アール(淋病)、プラム(梅毒)はポピュラーだった。
第二十三航空戦隊司令官・石川信吾少々
戦前より対米強硬派。ナチスを信奉し、日本の軍備拡大を主張。海軍内でも右翼的な政治活動が目立つ。
昭和十五年十一月、海軍省軍務局第二課長となり、海軍国防政策第一委員会の中心的人物として、日独伊三国同盟の堅、南部仏印進駐などを唱え、日本を太平洋戦争に導いた張本人の一人。
鈴木は分隊長、分隊士クラスの搭乗員を集め、
「この戦争が正しいかどうか、そんなのは後世の歴史家が判断することだ。ここは学校じゃないから、国のため、天皇陛下のため、家族を守るため、そんな観念的なことは論じなくていい。われわれは敵に勝つためだけに訓練を行う。空戦になれば、向かってくる敵機を叩き落とす、それだけを考えろ。目の前の敵機との戦いに全力を尽くせ。戦争は、始まった以上は勝つしかないからな」
セレベス島南部には戦前からココ椰子農園やコーヒー園、自動車輸入販売業、写真館、理髪店など約40社の日本企業が進出していて、数百人の在留邦人が暮らしていた。
日本軍が占領してからは、マカッサルの目抜通りはトキワ通りと名づけられ、カユアサムの美しい並木道にはかつてオランダ人が経営していたホテルを改名した富士ホテルのほか、大和ホテル、日本語新聞を発行するセレベス新聞社、映画館などがたち並んでいた。
日本政府はマカッサルに司政官を置き、治安維持のため憲兵隊を常駐させていた。
森光子「人生はロングラン」
昭和十八年十月から十二月にかけて、海軍省恤兵部(じゅっぺいぶ)が派遣した慰問団が、ボルネオ、セレベス、チモール、ジャワ、バリを巡業している。
総勢24名で、歌手・森光子、松平晃、林伊佐緒、松竹少女歌劇団の田村淑子、天草みどり、三田照子、浪曲の天中軒月子、太神楽の鏡味小鉄、コミックバンドのハットボンボンズ。
ボルネオ島バリクパパンから船でセレベス島マカッサルに渡り、ここの富士ホテルをベースに海軍基地を回った。
<第五章 落日>
グラマンF6Fヘルキャット
F4Fワイルドキャットの後継機。
F4Fのエンジンが1200馬力だったのに対し、離昇出力2100馬力という強力なエンジンを持ち、弾丸の加速が早く威力の大きい十二.七ミリ機銃6挺を主翼に装備、パイロットを保護するため背面に防護板と自動防漏タンクを備えている。
最高速度は時速327ノット(606キロ)と、日本側で第一線配備が始まったばかりの新型・零戦五二型の308ノット(570キロ)よりも優速。
零戦五二型
三二型、二二型と同じく二速過給器つきの栄二一型エンジンを装備、三二型の角型の翼端を丸く整形し、さらに集合排気管を推力式単排気管にすることで、三二型の横転性能のよさを活かすとともに、さらなる高速化を狙った。
三号爆弾
重量三十キロ、敵機上空で投下すると、一定秒時ののちに時計式時限信管発火装置が働いて、空中で炸裂、約百度の散布角度で傘状に放出された二百発の弾子が、上空から網をかぶせたように敵編隊を包んで撃墜する。
弾子には黄燐が内蔵され、敵機の燃料タンクに命中すれば火がつく。
B-24が来襲すると零戦隊は敵機の約1000メートル上空まで上昇、敵の真向かいから接近する。目測で敵機との距離が1000メートルまできたところで左右いずれかのフットバーを蹴り、操縦桿を同じ側の手前いっぱいに引き、背面の姿勢になって敵機めがけて降下する。高度差600メートルで前上方から三号爆弾を投下すると、ちょうど敵機の直上で爆発する計算になる。
受刑者作業隊
トラックの春島では、基地設営の人手不足を補うため、内地の刑務所で服役中の囚人から、残りの刑期が一年半以上で身体の頑健な者を選んで送り込まれた。
職員150名、囚人1300名が働いていた。
小町定上飛曹: 何が何でも先制攻撃をかけて、敵の爆弾を命中させないことを第一に考える。
岩本徹三飛曹長: 小町たちが苦心惨憺して空戦をしている間は姿をくらまし、被弾してフラフラと帰途につく敵機を攻撃し、自分が撃墜したと報告する。
米軍の双発飛行艇が飛んできて、日本軍の砲撃をものともせずに目の前で着水、漂流している搭乗員を救助して飛び去る。
どんな危険を冒しても人命を助けようとする米軍と、飛行機もろとも死んでこいという日本軍の姿勢の差を目の当たりにした特攻隊員の胸中は複雑であった。
尋問した捕虜は連合軍の勝利を信じ、どんなに重要なことを話しても大局に影響を与えないことを知っている。
そして命さえあれば母国に帰れることを疑っていない。
沖縄作戦で失われた特攻機は海軍983機、陸軍932機で、特攻による戦果は、米側記録によると米海軍だけで艦艇24隻撃沈、174隻撃破、戦死者4079名、負傷者4824名。
ガダルカナル戦以降の日本軍によるどの航空攻撃よりも大きな戦果だった。
B-29
マリアナの失陥以来、日本のほぼzwんどがB-29の行動圏内に入り、全国の主要都市や軍事施設が激しい空襲を受けた。
B-17、B-24などと比べてもはるかに大型で強力な防御砲火を持ち、高速でしかも重装甲な銃爆撃機である。
零戦や紫電改では攻撃することさえ難しかった。
玉音放送は国民に終戦を告げるものではあっても、停戦命令ではなく、八月十五日正午をもってただちに戦争状態が終わったわけではない。
大本営が陸海軍に、自衛をのぞく戦闘行動を停止する命令を出したのは八月十六日午後。
八月十九日、海軍軍令部は、支那方面艦隊をのぞく全部隊にいっさいの戦闘行動を停止することを命じるが、その刻限は八月二十二日午前〇時であった。
特攻の生みの親とされる大西瀧治郎中将は、最後まで無条件降伏に反対し続け、八月十六日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻隊を出撃させた寺岡中将、福留中将、海軍の作戦を統括する軍令部第一部長として特攻作戦の開始に踏み切った中澤佑中将らは、大西にいっさいの責任をかぶせたまま天寿を全うした。
八月十七日、偵察飛行に飛来した米陸軍の四発新型爆撃機コンソリデーテッドB-32ドミネーター4機を三〇二空の零戦12機が邀撃した。
横空では、終戦が告げられてもなお、機銃弾全弾装備の戦闘機が列線に並べられ、搭乗員たちは指揮所に待機していた。
B-32は墜落は免れたものの、機銃の射手が1人機上戦死した。
これが零戦による最後の空戦になった。
翌朝、零戦は飛べないようにプロペラとスピンナーが取り外されていた。
<第六章 焼跡>
NHK 真相はかうだ
十二月九日から毎週日曜夜八時に放送された。
「われわれ日本国民を裏切った人々は、いまや白日のもとにさらされております。戦争犯罪容疑者たる軍閥の顔ぶれはもうわかっております」ナレーションで始まる。
朝日新聞「米鬼撃滅」などと戦意をあおる記事を書くだけでなく、「父よあなたは強かった」「兵隊さんよありがとう」など広く一般に戦意高揚のための歌謡を公募したり、募金を集めて陸海軍に飛行機を献納してきた。
社説「自らを罪するの弁」(八月二十三日)、「国民と共に立たん」(十一月七日)という記事を掲載、新聞としての本分を全うできなかったのは、軍部による制約のためであるとした。
戦没者のことを犬死によばわりすることさえ、進歩的と称するインテリ層の間では流行していた。
進藤はしだいに戦争のことは自分の胸のなかに秘め、他人に話すことはなくなった。誰にもわかってもらえなくていい。ただ、零戦搭乗員たちの奮戦の記憶を、自分だけは命あるかぎり忘れまいと誓った。彼らのことを想いながらこの世の一隅に存在していることが、生き残った指揮官として課せられた使命である。
魁作戦
終戦の二日前、昭和二十年八月十三日、台湾の高雄警備府の命令で、翌十四日をもって、台湾各地と石垣島、宮古島の日本海軍航空基地に残存する全兵力で、沖縄沖の敵艦船に体当たり攻撃をかける作戦が発動された。
一億総特攻の魁となって全機特攻出撃せよ。
台湾の台中と宜蘭、石垣島と宮古島の各基地にある飛行可能な零戦60数機のうち、50数機を爆装機、残りを戦果確認をする直掩機として出撃させる。直掩機が無事生還したら、こんどはその零戦に爆弾を積み、爆装機として再度出撃させる。
十四日は沖縄方面の天候不良のため、作戦が延期された。
十五日に搭乗員が機上で出撃命令を待っているところに、台湾・新竹の第二十九航空戦隊司令部から、「出撃待テ」
の指令が届く。
玉音放送は、日本側の士気を失わせるための米軍の謀略、ぐらいにしか考えなかった。
十六日に司令部より終戦の通達が届いた。
二十九航戦司令部では、十一日には日本のポツダム宣言受諾のことは知っていた。
昭和二十一年一月、GHQの指示により公職追放令が出て、旧陸海軍の正規将校らが公職につくことを禁じられると、民間会社でも後難を怖れて、正規将校であろうとなかろうと、なかなか旧軍人を雇おうとしなくなった。
<第七章 変容>
朝鮮戦争
昭和二十五年六月二十五日、ソ連の支援を受けた北朝鮮軍が突如、38度線を越えて韓国を攻撃、朝鮮戦争が勃発する。
日本に駐留する米軍の大半は朝鮮半島に派遣され、日本を共産圏の脅威から防衛するための戦力が手薄になった。
そこで米軍の要請で国内の治安維持を名目に警察予備隊(のち保安隊、陸上自衛隊)が創設され、実質的な日本の再軍備が始まる。
サンフランシスコ講和条約発効の直前には、海上警備隊(のちの海上自衛隊)が発足した。
航空機の運行も認められ、昭和二十六年八月、日本航空株式会社が設立され、同年秋には羽田ー伊丹ー板付(福岡)、次いで羽田ー千歳間に旅客機の定期便が就航する。
昭和二十八年七月二十七日の停戦まで三年間続いた朝鮮戦争による米軍の物資の消耗は、日本に朝鮮特需と呼ばれる経済成長をもたらした。
昭和二十八年二月一日、NHKが日本ではじめてテレビの本放送を開始する。開始当初の受信契約数は866件にすぎなかったが、同年八月二十八日には初の民法、日本テレビも開局、街のあちこちに街頭テレビが置かれた。
人々を熱狂させたのはプロレス中継。この年、力道山が日本プロレス協会を設立し、翌昭和二十九年二月十九日、東京・蔵前国技館で行われた初の国際試合「力道山・木村政彦対シャープ兄弟 ノンタイトル六十一分三本勝負」はNHK、日本テレビがともに生中継した。新橋駅西口広場の街頭テレビには2万人が集まった。
敗戦による外人コンプレックスのなか、アメリカ人の巨漢レスラーをなぎ倒す力道山の空手チョップに人々は夢を託した。
零戦の名は戦時中、国民にほとんど知られていなかった。
零式戦闘機の名がはじめて国民に公表されたのは、昭和十九年十一月二十三日付の新聞が最初。昭和十五年の制式採用から4年以上が経っていた。
朝日新聞一面で、「『零戦』『雷電』肉薄攻撃 海鷲戦闘機隊に凱歌」との見出しで、十一月二十一日、九州西部に来襲したB-29を海軍戦闘機隊が大量に撃墜したとの記事がある。
坂井三郎空戦記録
昭和二十八年十月五日、日本出版協同株式会社から出版されベストセラーとなった。
富岡定俊 少将
終戦時、海軍軍令部作戦部長。
海軍の正しい戦記を作るべく第二復員省(旧海軍省)に史実調査部をつくり、それがほどなく占領軍の意向で解散させられると、旧海軍の機密費で財団法人 史料調査会を設立した。
旧海軍の書類の多くは終戦時、焼却されたが、焼却を免れた資料の多くは富岡の手によって東京・目黒の旧海軍大学校の建物に秘匿されている。
マーチン・ケイディンはフレッド・サイトウの翻訳をもとに、独自の調査による加筆、修正を加えて一冊の本を作り上げ、1957年、アメリカのダットン社から「SAMURAI!」のタイトルで出版した。
英語、フランス語、イタリア語など世界十数ヶ国語に翻訳され、世界中で売れた。
「鬼だと思っていた日本兵が、悩みも、苦しみも葛藤もある、自分たちと同じ人間なのだと再認識した」
坂井は、自分が何機の敵機を撃墜したかということについては、福林にもサイトウにも話したことはない。
戦争で、まして負け戦で自らの戦功を誇るなどというのは唾棄すべきこと。
雑誌「丸」
日本語に訳した「SAMURAI!」から中身を捨ててタイトルを頂戴し、「大空のサムライ」として連載を始める。
昭和四十二年光人社より単行本として刊行され、「続・大空のサムライ」「戦話・大空のサムライ」「撃墜王との対話」「写真 大空のサムライ」とシリーズ化され、
ロングセラーとなった。
零戦ブーム
昭和三十四年三月、講談社から少年マガジン、小学館から少年サンデーが創刊され、各誌がこぞって零戦を主役にした記事や漫画を掲載するようになった。
当時の少年誌は、零戦、戦艦大和、戦車、自衛隊、馬賊、忍者、プロレス、プロ野球、相撲。
零戦をテーマにした漫画の初期の代表的な作品は「ゼロ戦レッド」「0戦太郎」。
貝塚ひろし、辻なおきは空戦漫画の二大作家。
貝塚は「ゼロ戦行進曲」「烈風」「ああ零戦トンボ」、辻は「0戦はやと」「0戦仮面」「0戦あらし」など。
「0戦はやと」は、昭和三十九年、テレビアニメがフジテレビから三十八話にわたって放映された。
少年マガジンでは、くちばてつやが、「紫電改のタカ」、高城肇が「空の王者ゼロ戦」を連載している。
昭和四十年代、男の子の多くは、日本陸海軍機や戦艦の名前、大戦中の主要作戦がすらすら言えた。
少年誌の創刊と時を同じくして発売され始めた飛行機や軍艦のプラモデルも、ブームに拍車をかけた。
編集者や作家が書き起こした元搭乗員の手記も立て続けに出版された。
映画では昭和二十八年「太平洋の鷲」、「雲ながるる果てに」から零戦が登場するが、実機は国内に一機もなかったため、ハリボテのセットに戦時中の実写映像を挿入して作られた。
昭和四十五年「トラ・トラ・トラ」では、米軍練習機T-6を改造して日本機に見せた。
「ゴジラ」のポスターにも、ジェット戦闘機にまじって、ゴジラに立ち向かう零戦が描かれていたり、続編「ゴジラの逆襲」では、ゴジラ攻撃に向かうパイロットたちが旧軍の同期生同士という設定で、ジェット戦闘機「F86Fセイバー」に乗るのに旧海軍の飛行帽と飛行眼鏡を着用していたりと、零戦の俤を見つけられる。
特撮ドラマ「ウルトラQ」(昭和四十一年)では、東京氷河期と題した回で、「とうちゃんはな、昔はゼロ戦のパイロットだったんだぞ!」と胸を張るシーンがある。とうちゃんはセスナに乗りペギラを撃退する特効薬ぺギンHとともに体当たり、自爆して果てる。
杉田庄一上飛曹 三四三空戦闘三〇一飛行隊
ガダルカナル戦初日で重傷を負い、内地にさがった坂井三郎と、その後の実践経験が豊富な若い搭乗員の間には確執があり噛み合わなかった。
なかでも杉田には、強くなってからの米軍戦闘機を相手に勝ち続けてきたという誇りがある。
ゼロ戦のイメージは、当事者である元零戦搭乗員たちの思いから、どんどん乖離していく。
エースという称号で呼ばれ、エース列伝という撃墜数によるランキングも作られる。
昭和四十六年、坂井はアメリカのエース・パイロット協会(American Fighter Aces Association)より、8月12日から15日にかけ、カリフォルニア州サンディエゴで行われる年次大会に招待を受けた。
横山保・元中佐、森岡寛、松場秋夫、磯崎千利、乙訓菊江、戸口勇三郎、佐々木原正夫、柳谷謙治、柴山積善、木名瀬信也などが呼びかけに応じた。
列機を死なせなかったのは立派だが、優秀な列機のおかげで生き残ったという感謝の念はないのか。それがあれば坂井はもっと尊敬されたのに。
第一相互経済研究所(天下一家の会)
昭和四十二年、内村健一が熊本県で設立したネズミ講。
内村は昭和十九年九月以降に飛行練習生を卒えた甲種予科練十二期出身の元零戦搭乗員。
坂井も勧誘され広告塔となった。
内村は映画企画会社、大観プロダクションを設立、昭和五十一年「大空のサムライ」「岸壁の母」を企画、東宝が制作し、全国公開された。
元海軍主計少佐・鳩山威一郎
鳩山由紀夫・邦夫の父。昭和五十五年、参議院議員選挙で三位当選。
坂井三郎は、晩年ホンダCR-Xデルソルを乗り回したり、晩年まで溌剌とした老人だった。
お別れの会には、「大空のサムライ」で坂井三郎役を演じた藤岡弘も出席した。
しかし昔の搭乗員仲間で集まった者は少なかった。
<第八章 蒼空>
御巣鷹山 日航機墜落事故
JAL機が墜落した群馬県上野村の事故に対する水際だった対応は世間に話題になった。
村長は黒澤丈夫。第七十二航空戦隊参謀の少佐として終戦を迎えていた。
戦後処理の後、百姓をしながら地域おこしをしていた。
機長は高浜雅己・49歳。元海上自衛隊パイロットで、大原亮治・元飛曹長が、鹿屋基地で教官を務めていたときの教え子だった。
三四三空飛行長だった志賀淑雄は、海軍の密命を帯びて、戦後占領軍によって万が一、天皇の身に何かが起きた場合に備えて皇族を匿い、皇統を護持するための極秘任務についていた。
この任務には、源田實を中心に、志賀、山田良市ら三四三空の元隊員20数名があたっていた。
戦死した仲間に対して、「生き残ってしまった」という負い目と贖罪の気持ち。
「もし、戦死したやつらが生き残っていたら、戦後、どれほどのことをやり遂げただろう」
小町定は家族全員がクリスチャンだが、靖国神社に参拝する。
「だって約束したんだ、あいつらと、靖国神社で逢おうって」