mRNAワクチンの衝撃: コロナ制圧と医療の未来 ージョー・ミラー他

科学は、私たちが思うよりもずっと、偶然のめぐりあわせに左右される。

政治家やベンチャー投資家は、最も論文発表数が多くて、最も表彰されている研究者を探す。
しかしビオンテックの成功例は医学界の主流から外れた部分に目を向けることの重要性を示した。
それまで感染症医薬品を治験にかけたこともなかった一企業、専門知識を承認医薬品として活用するという点で常にアメリカに後れをとってきた、ヨーロッパという舞台。経済アナリストもこの成功は予測できなかった。

イノベーションは一度には起こらない。
いくつもの個々の発見が、ときに何のつながりもない分野で同時に起こり、積み重なっていく。
やがて、それらのアイデアや研究者が出会い、融合したとき、人類は総体として、とてつもなく大きな飛躍を成し遂げることができる。
このプロセスを分解しても、仕組みは解明できない。

ビオンテックの場合は、ウールとエズレムの出会いと人柄が、磁石のような力となって、世界中の人やアイデアを驚異的な形で彼らの周りに引き寄せた。
こういった形にならない価値を見つけ出して支援することが大事。
真に大きな変革をもたらすのは、資料や論文ではなく、人なのだ。

<第一章 アウトブレイク>
ウールの専門能力の本質は、パターンを特定し点と点をつなぐ才能にある。
パターンは嘘をつかない。

ウールはケルンのギムナジウム(現在のエーリヒ・ケストナー・ギムナジウム)をクラストップの成績で卒業した。
同校の18年の歴史の中で、いわゆる外国人労働者(ガストアルバイター)の子でアビトゥーア(イギリスのAレベルやアメリカのSATのようなドイツの大学入試資格試験)に合格したのは彼が初。

ガン
腫瘍学者のシッダールタ・ムカジーは「病の皇帝」と名付けた。
別の場所で生まれて体内に侵入してくるウイルスや細菌とは違って、がん細胞は時とともにランダムに突然変異した体内の健康な細胞によって猛烈なスピードで生産されていく。
そしてある時点を越えると、制御不能な形で増殖しはじめる。宿主の体に最大限のダメージを与えるようプログラムされて。
がん細胞はいわば組織内の裏切り者、味方の軍服を身につけた敵軍。免疫係はこれを敵だと認識できない。

免疫療法
免疫系は体内の敵に対しても認識・攻撃するよう鍛えることができるというもの。
抗原という特殊な分子を実験室で再現し、それを患者に投入することで、体内で指名手配ポスターのように機能させる。これに似た敵を見つけたら捕らえて攻撃せよという指示を出す。うまくいけば、広範な免疫反応を引き起こすことができる。
この抗原に似たものが腫瘍内に存在することに気づき、それらの細胞も敵とみなして攻撃する。

メッセンジャーRNA  mRNA
RNAはDNAと同じく、遺伝情報を保持できる。また他の分子の力を借りることなく、自身のコピーを作り出せる触媒という能力が備わっていた。
DNAから細胞内の工場のような場所に一連の指示を運ぶ分子があった。そこでは運ばれてきた情報をもとに、体の臓器や組織を形づくりコントロールするための必須タンパク質がつくられる。そうして指示を運ぶ役目を終えると、この一本鎖のリボン状構造物は、たいていは一分もかからず破壊される。

mRNAの課題
①mRNAは実験室における安定性がきわめて低い。
空気中や物の表面のいたるところに存在する酵素によって、数秒とかからず分解されてしまう。
②なんとか細胞内部までmRNAを送り込めても、細胞内の工場でつくられるタンパク質の量があまりにも少なすぎる。

mRNAを人体の適切な免疫細胞に送り届け、十分な期間にわたって安定した活動状態にキープする方法が見つかったら、可能性は無限大。
mRNAの鎖が保持する指令を、彼らがカスタマイズしたコマンドに置き換えれば、自然発生するメカニズムを乗っ取ることができる。
そして必要な薬を患者の体が自力でつくり出せるよう促す暗号を送り届けることができる。
ウールとエズレムの目指すところは、がん細胞特有の分子を生み出している暗号を抽出し、それを免疫系の兵舎に送ってやること。

新たなウイルスに対して、発見からわずか数日で製造し投入できるような、よりシンプルで、安全で、迅速な医薬。その実現の鍵となるのが、mRNA。

免疫系もソフトウェアと同じくハッキングできる。

コロナウイルスという名称は、ウイルス表面から無数の突起(スパイク)が突き出た形状が、どことなく王冠(ラテン語でcorona)に似ていることからついた。
突起はタンパク質から成り、長さは20ナノメートル。
今回のウイルスの脅威を高めた元凶であり、弱点でもあった。
この突起を無効化または変形させるように免疫系に教え込めば、健康な細胞との結合プロセスは阻害され、ウイルスを無害化できる。

スパイクタンパク質を自然の環境下以外で再現するのであれば、完璧な構成で、ミス一つないコピーを生成しなくてはならない。
ワクチン接種によって免疫反応を引き起こしても、現実の感染によって入ってきた本物のウイルス認識をできないからだ。
指名手配ポスターは、犯人を完璧に描いたものでなければ意味がない。
もしも髪の毛一本のほんの何分の一でもズレが生じたら、ワクチンの効果は得られないどころか、接種した人々を危険にさらす可能性さえ出てくる。

<第二章 プロジェクト・ライトスピード>
カール・ポパー
批判的合理主義を提唱した哲学者。
人が真実と呼べるものに到達する道は、突飛で独創的な仮説を「経験の裁き」にかけるプロセスだという。
ある助言やアイデアは、それに反駁しようというさまざまな試みに打ち勝って生き残ったとき、ようやく裏付けある真実となる。
こうすればいいと教えられても、頑固に自分のやり方を続けて、完全に手詰まりになってから他人の言葉に耳を貸す。

世界的な感染拡大という危機に直面すれば、大手製薬会社(ファイザー)が評価を変えるのは時間の問題だろう。
真実は最後には必ず勝つ。
武漢で起こっている感染拡大は確かに、パンデミックにつながるあらゆる条件を満たしている。

mRNA医薬品を実用化するためには、mRNAが体内を通って細胞に到達するまでの間、これを保護しておかなくてはならない。
脂質ナノ粒子(LNP):脂質で構成された極小の球体。mRNAを包み込み、免疫系における伝達を担う細胞に到達するまで保護してくれる。

アクイタス・セラピューティクス社
イギリス人科学者トム・マッデンが始めたバンクーバーのスタートアップ。
バンクーバーは脂質をめぐるイノベーションの中心地だった。

PEIの史上の使命は「害を生まないこと」。

18世紀に最初のワクチンが生まれてからしばらくの間、科学者たちは実質的になんの監督を受けることなく、実験的な医薬を自由に製造・投与していた。
しかし1900年代初め、ワクチンが他のウイルスに二次汚染されたことによる薬害が相次いだことで、西側各国の政府は医薬品の開発と製造を承認制にし、管理するようになった。
1955年、製造不備のポリオワクチンを接種したアメリカの児童4万人がポリオに感染するという、「カッター事件」が起こったことで、規制はさらに強化された。
こうして医薬品が市場に出るまでにかかる期間は、数ヶ月から数年へと徐々に伸びていった。

PEI本部エントランスの外には、ナチス政権下のホロコースト時代、強制収容所などで行われた恐ろしい人体実験の歴史を悼む記念碑がある。
これを教訓に、1947年「ニュルンベルク綱領」が宣言された。人間を対象とする実験は被験者の完全に自発的な同意のもと、動物実験によって蓄積された安全性データに基づいて行われなければならないと規定された。また被験者へのリスクが、もたらせ得るベネフィットを上回ってはならない。
ドイツのPEIやアメリカのFDAといった規制当局の慎重なアプローチは、こうした経緯に裏打ちされたものだった。

1980年代と90年代に起こったエイズの感染流行では、「害を生まない」という当局の原則は、命を救ってくれるかもしれない有望な医薬品を試せないことで生じる害にも当てはまるのではないか、という議論があった。
新型コロナウイルスのパンデミックが始まった数ヶ月後にも再燃している。

推定最小薬理作用量(MABEL)
治験において新薬またはリスクの高い種類の薬を人間に投与する場合、安全とされる最大量を最初から投与するのではなく、まずは必要な反応を引き起こせる最小量から投与することを義務づけるもの。
治験ではまず先兵役のボランティア一名への投与から始めて、他の被験者への投与を進める前に、この一名をモニタリングしなければならない。

父本人が自力で正しい判断にたどり着くことが、唯一の効果的な説得の道なのだ。
それに気づいてからは、実際に父との関係も改善された。

<第三章 未知数>
HIV
ヒト免疫不全ウイルス。
ウイルスは驚異的なスピードで変異するため、抗原を特定するのが非常に難しい。
抗原というのは、指名手配ポスターに掲載して、免疫系に注意を促すターゲットのこと。

C型肝炎ウイルス
あらゆるワクチン開発を頓挫させてきた。
一度回復した人でも再び感染してしまうほど、変異のスピードが速い。
B型肝炎については、有効なワクチンが供給されている。

特定のウイルスに対して動員される体内の狙撃兵には、大きく分けて二つのタイプがある
①液性免疫
第一防衛ライン。血流にのってうろついている異物が細胞に取りつく前に、これを攻撃する。
② T細胞
すでに感染してしまった細胞を攻撃し破壊する。

プロジェクトのスローガンは、「まず最速を、それから最高を目指せ」
ビオンテックは完璧なワクチンの候補ができあがるまで待ったりはしない。
彼らがやるべきことは、最も有効な抗原とmRNAプラットフォームはどれかを検証し、最後まで残った候補を採用するということ。
まずは人々を守れる安全なワクチンをつくって、危機的状況の封じ込めに寄与する。そのうえで、さらに必要なら、より優れた第二世代のワクチン開発に取り掛かればいい。

<第四章 mRNAバイオハッカー>
数百万回分のワクチンの材料をつくるには、製薬会社はウイルスを複製して数100万倍にしなければならない。
一つのニワトリの有精卵に一つのウイルス株を注入し、増殖したら科学者がそれを精製して、多くの場合高熱あるいは殺菌剤を使って不活性化する。
アメリカはパンデミックのときの需要急増に備えて何百万個もの卵を秘密の場所に貯えている。

免疫系は、健康な体のなかで大きくなるがんを無視する。
腫瘍は出現前にはその見た目を予想できないため、その姿かたちを示した指名手配ポスターを予防ワクチンで複製することでそれが大きくなるのを防ぐのは不可能。

直径1cmの小さな腫瘍でも最大で10億個のがん細胞からできている。
5cmまで大きくなったものには、すでに1250億個の細胞が含まれていて、毎日そのすべてが間断なく分裂して数を増していく。

2014年、ビオンテックは新しい臨床試験に着手し、新発明された、この脂質に覆われたmRNAワクチンで最初の患者の治療を行う。
ブレイクスルーはネイチャー誌に画期的な論文として発表された。
最適化されたmRNAが適切に脂質に包まれてリンパ組織に届けられさえすれば、それらの器官でうろうろしている樹状細胞、つまり将校が十分な音量で警鐘を鳴らし、強力な免疫反応を呼び起こす。

最適バージョンは、いつだってそのときの最適バージョンにすぎない。

2020年1月11日、新型コロナウイルスの遺伝子コードがオープンソースのウェブサイト、Virological.orgにアップロードされ、ほかのワクチン製造業者と同じくビオンテックも利用できるようになった。
これは上海公共衛生臨床センターの張永振教授による素早い仕事のおかげ。

<第五章 試験>
2020年1月の時点では、ビオンテックはまだおもにがんを扱う企業だった。
2014年の時点ではまだウェブサイトがなかった。

<第六章 同盟締結>
3月13日金曜日朝の速報で、「ファイザー社ー自社の抗ウイルス療法の開発を進め、mRNAコロナワクチン候補についてビオンテックと協力」

mRNAの製品を多くの人に広く受け入れてもらうには、製薬大手のどこかの力を借りる必要がある。
ワクチンは、少なくとも初回実施分は超低温で冷凍して世界中に運ばなければならなず、こうした複雑な物流管理に慣れている企業の助けが必要だった。
大企業と提携すると、訴訟からもある程度身を守ることができる。

プロジェクト・ライトスピードへの投資を回収するためには、市場で三番手までに、つまり世界での需要が高いうちにワクチン世に出さなければならない。
これを実現するためには、数ヶ月のうちに複数の国で数万人を対象とした巨大規模の第三相試験を実施し、自社のワクチン候補に際立った効力と安全性があることを規制当局に示さなければならない。
それだけの規模とスピードをもって世界でワクチン試験を行える製造業者は5社しかなかった。メルク、ジョンソン・エンド・ジョンソン、サノフィ、クラクソ・スミスクライン(GSK)、ファイザー。

ビオンテックは全製品を自社で管理する試みを放棄し、ファイザーがこのワクチンの製造と使用許諾を担ってビオンテックに特許権使用料を支払う。
契約書が作成され、2018年7月に提携が結ばれた。

<第七章 初めての臨床試験>
4月23日木曜日、ビオンテックは新型コロナワクチンを人体で試験したヨーロッパ初の企業となった。
その数時間後には、オックスフォード大学のチームがイギリスで、ウイルスベクターによる新型コロナワクチンを初めて被験者に投与する試験を始めている。

<第八章 自分たちで>
大量のmRNAを製造する際には、たった一つの人為的なミスが命取りになりかねない。
2022年には、ジョンソン・エンド・ジョンソンのワクチン最大1500万回分が汚染されていた事件があった。

ビオンテックはプロジェクト・ライトスピードが軌道に乗る前から、資金繰りに窮していた。
最高戦略責任者であるライアン・リチャードソンが、会社の増資株を売って投資家から資金を集めようとアメリカへ飛んだ。

アメリカとドイツで実施された第一相試験向けに製造されたワクチンの量と、実際に被験者に投与されたワクチンの量との間には、かなりの差があった。
十分な量が供給されていたにもかかわらず、現場では供給の不足がよく問題になっていた。
これは厳密な取り扱い上の注意に従い、各薬びんに入っていたワクチン0.5ミリグラムのうち、多いときにはその80パーセントが廃棄されていたことに原因があった。
このワクチンには防腐剤が含まれておらず、細菌による汚染を防ぐため、薬びんの開封後6時間以内に使用しなければならない。
被験者はばらばらに会場にやって来るため、来場時間に差がある。
ウールは各薬びんに入れるワクチンの量を0.3ミリグラムに減らした。

<第九章 効果あり!>
冷酷な資本主義の権化と呼ばれていたファイザーと手を組むビオンテックに協力しないようEUの政治家を説得するため、ロビイストが雇われていた。

ビオンテックのワクチンは、輸送の間もおよそマイナス70度に保っておく必要があった。
所得の貧しい国々に届けるためにはどうすればいいのか問い物流の問題に直面した。

<第一〇章 新たな常態>

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