あの戦争は何だったのか: 大人のための歴史教科書 ー保阪正康
広島平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」
主語がなく、原爆を落としたのはアメリカなのに、まるで自分たちが過ちを犯したかのようだ。
<第一章 旧日本軍のメカニズム>
明治十八年、陸大の第1期生、10人が卒業した。成績一位は東條英教で、東條英機の父親だった。
第1期生たちはドイツ人メッケル少佐からプロシア式の参謀教育を受けた。
その中で、「統帥」について、陸海軍全てを指揮・統率すること、その権限は天皇にあると教えられた。
陸軍の軍人の目的は天皇に奉公することであり、天皇の軍隊であると明確に教えられた。
陸軍の軍事行動、作戦、その戦闘報告などの全ては、議会とは関係がなく、批判、疑問、それに報告要請に応じる必要はないのだと教えられた。他の統治権からもどのような干渉も受けない、独立した権限として成り立ちうるという考えだった。
海大は明治二十一年創立。
陸大がドイツ式のカリキュラムを採用していたのに対して、海大ではイギリス型の教育方式が採られていた。
国民皆兵
太平洋戦争開始時、日本の軍人や兵士は陸海合わせて総計で約380万人。
終戦前年の昭和十九年には、800万人に膨れ上がっていた。
当時の日本の人口が約7500万人だから、十分の一以上の国民が兵士だった。
職業軍人は陸軍の場合5万人ほど。つまりほとんどが徴兵によって採られた一兵卒だった。
明治二十二年、大日本帝国憲法発布に伴い徴兵令が改正され、日本国民全体に兵役の義務が課せられた。
昭和十九年には、日本の軍人や兵士は800万人、日本の人口7500万人とすると、十分の一以上の国民が兵士だった。
徴兵制
満二十歳になると徴兵検査を受けて入隊する。
入隊して二年間(海軍は三年間)兵役につく。
除隊後は五年四ヶ月間(海軍は四年間)予備役として登録され、戦争が始まれば動員される。
太平洋戦争開戦後は陸軍は十五年四ヶ月、海軍は十二年に拡大されている。
<第二章 開戦に至るまでのターニングポイント>
太平洋戦争開戦直前の日米の戦力比は、陸軍省戦備課が内々に試算すると、総合力は一対一〇であった。
天皇機関説: 美濃部達吉。天皇を国家の一機関と見る。
国体明徴論: 天皇があって国家がある
天皇神権説: 昭和十二年五月に文部省から刊行された「国体の本義」という冊子に付合する考え方。
皇道主義。
小善: 軍人勅諭の通り天皇に忠実に仕えること。
大善: 陛下の大御心に沿って、一歩前に出てお仕えすること。自分たちで勝手に天皇の心情を察して、天皇のためになることなら何をしてもいい。
二・二六事件の後、テロの恐怖が広がり、軍はそれを巧みに利用していく。
「軍のいうことを聞かなければ、また強権発動するぞ」
政治家たちは軍に対して何も言えなくなってしまった。
軍部大臣現役武官制
現役の軍人でなければ陸軍大臣、海軍大臣になれないという制度。
軍の気に入らない内閣ならば、陸軍大臣、海軍大臣を出さなければよい。そうしたら組閣ができず、内閣は潰れてしまう。
天皇の神格化は二・二六事件後、ますます進んでいく。
御真影を奉護するよう奉安殿が設置されていくのも昭和十二年のころから。
戦陣訓: 昭和十六年一月に陸相の東條英機が、戦場に臨む心得を謳ったもの。
「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」
作家の島崎藤村が推敲した。
多くの軍人、兵士たちが玉砕の憂き目にあった。
大政翼賛会
昭和十五年十月十二日、近衛首相によって結成。
民政党、政友会など、当時の政党はこぞって解散して翼賛会に吸収されていった。
国家危急のとき、議会で討論して結論を出すなど悠長なことをやっているにではなく、天皇への帰一の下、国民は一致団結して国を動かすべきとした。
国民は臣民となり、全てが天皇に帰一した国家システムが作り上げられた。
スパイ・ゾルゲ
近衛周辺の人物から情報をとり、日本が北進でなく南進することをスターリンに報告していた。
その情報により、スターリンは東部のシベリアではなく、西部のヨーロッパ方面に軍隊を向けることができた。
内大臣の木戸幸一が糸を引き、東條内閣が発表された。
日本は完全な開戦準備体制に入ったと、国際社会に衝撃が走った。
東條は天皇への忠誠心に篤い男で、御前会議の白紙還元を望む陛下に従って動いた。
日米開戦の黒幕は海軍。
海軍での一番の首謀者は、海軍省軍務局にいた石川信吾や岡敬純、軍令部作戦課にいた富岡定俊、神重徳といった軍官僚たち。
海軍国防製作委員会:
昭和十五年十二月に作られた海軍内に軍令、軍政の垣根を外して横断的に集まれる組織。
第一委員会が政策・戦争指導の方針、第二委員会は軍備、第三委員会は国民指導、第四委員会は情報を担当。
第一委員会が力を持っていた。石川と富岡はそのリーダー役。
当初は二年も持たないと言われた石油は実はあった。特に海軍側は備蓄量の正確な数字を報告しなかった。
企画院の調査はいい加減で、根拠のない数字に基づいてデータが出されていた。
ある民間貿易会社が海外で石油合弁会社を設立するというプロジェクトがあったが、軍は圧力をかけ潰した。
石油がないという舞台設定をしないと、開戦の正当化はできない。特に海軍は船を動かすことができなくなってしまうという大義名分。
太平洋戦争において武力発動ができたのは、唯一海軍だけ。いくら陸軍が、南太平洋や東南アジアで武力発動したくても、海軍の護衛で運んでもらえなければ始めようがない。
<第三章 快進撃から泥沼へ>
この戦争はいつ終わりにするのかを考えていなかった。勝利が何か想定していない。
昭和十六年十一月十五日の大本営政府連絡会議「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」
日本は極東にあるアメリカ、イギリス、オランダの根拠地を壊滅させて自存自衛体制を確立する。そしてイギリスは、ドイツとイタリアに制圧してもらう。孤立したアメリカは継戦の意思なしというはず。その時に戦争は終わる。
すべて相手の意思任せ。軍事的に制圧地域を広げれば、相手は屈服するといった思い込みだけ。
ミッドウェーで生き残った者たちは日本に戻ると幽閉状態におかれた。
故郷との連絡も許されず、入院していた者は病室のカーテンさえ開かせてもらえなかった。
ガダルカナル
八月五日、突貫工事で前線基地となる飛行場が完成するが、その二日後の七日未明、アメリカ海軍の総攻撃にあい奪取された。
その後何度も同じような編成で兵士を送り込むが撤退する。
つぎこまれた兵士は、陸軍30600人、海軍4007人。戦死者は陸軍20800人、海軍3800人。戦死者のうち餓死者は15000人。
ガダルカナルのジャングルの中、全地域にマイクロフォンが仕掛けられていた。
どんな小さな声で話していてもマイクに声が拾われてしまい、居場所が基地のアメリカ軍司令部に筒抜けになってしまう。
大本営「陸軍報道部」と「海軍報道部」が競い合って国民に良い戦果を報告しようと躍起になっていた。
悪い情報は隠蔽されてしまう。
大局を見ることができた人材は、二・二六事件から三国同盟締結のプロセスで、大体が要職から外されてしまい、視野の狭いトップの下、彼らに逆らわない者だけが生き残っていた。
ニミッツは飛行場、司令部のある場所だけを狙って、一週間ほどかけて徹底的に爆撃する。
中枢機能を麻痺させておいてから、空母輸送船で大量の海兵隊を上陸させた。
戦略上要所に当たらないと見切った地域には見向きにもしなかった。
戦時国際法
第一次大戦前から、オランダのハーグで決められていた。
捕虜の扱いについて、食事を与えなければならない、作業を課してもよいが、その作業が祖国のためにならないことであれば拒否する権利がある。など。
日本の兵士たちは士官学校でも、戦時ルールを教わっていなかった。
酒巻和男
真珠湾攻撃の際に、特殊潜航艇に乗ってアメリカ軍基地に侵入を試みたが、捕まって捕虜第一号となった。
アッツ島血戦勇士顕彰国民歌
アッツ島の玉砕は美化された。
昭和十八年に戦況が悪化すると、東條の演説や側近への話には筋道の通らない論理が含まれるようになった。
「戦争が終るということは、戦いが終わった時のこと、それは我々が勝つということだ。そして、我々の国が戦争に勝つということは、結局、我々が負けないということである」
「戦争は敗けたと思ったときは敗け。そのときに彼我の差がでる」
堀栄三
昭和十八年春から参謀本部の情報部に席を置いていた。
アメリカ軍が次にどこを攻めてくるのか、ことごとく当ててしまった。
アメリカの放送を傍受し、アメリカ軍の新しい作戦が始まる前には、必ず薬品会社と缶詰会社の株が急騰することを見出した。
堀は、兵隊に持たせるマラリアの薬と食糧を軍が大量に購入するからだと推測した。
またアメリカの放送は、今どこの部隊が休暇中か報道する。その休暇中の部隊がどの戦線に出てくるか、次に作戦展開の場になる地域を見抜いた。
昭和十八年はすべての物事が常軌を逸していった象徴的な時期。
まだ充分軌道修正ができる時でもあった。
年の初めから敵性語を使うな、敵性音楽を聴くなという命令が内務省や情報局から出された。
野球のストライクは「よし一本」
ドイツのヒトラーは「第三帝国の建設」、イタリアのムッソリーニは「古代ローマへの回帰」というイデオロギーがあり、それを実現するために戦争という手段が選ばれた。
イデオロギーに沿って戦争という手段に訴えるために、戦争を準備する期間としてそれなりに時間を費やしていた。
日本とは何の関係もなく、日本は真の同盟相手ではなく、アメリカやソ連の戦力をそぐための利用できる仲間でしかなかった。
日本はまず軍部が先陣を切って戦争という既成事実をつくりあげ、それから戦争目的があたふたと考えられ、国民にはとにかく協力しろ、勝たなければ国は滅びると強権的に押さえつけることのみで戦われた。
聖戦遂行という語がよく用いられたが、聖戦の意味もわからずやみくもに戦争が続けられている状態。
軍部が一方的に戦争を始め、アメリカにはあまりにも唐突だったために、たまたま戦果をあげることになったが、実際に反攻が始まるとたちまち日本は軍事的なほころびを見せた。
大東亜会議
昭和十八年十一月に占領地域の、あるいは日本と意を通じている親日派の指導者を集めた。
大東亜共栄圏の国々と連携をしているという姿を連合国に見せる目的。
アメリカ、イギリス、中国の指導者が開くカイロ会談に対して、日本がアジアの国々に独立を約束するポーズを見せること。
<第四章 敗戦へー「負け方」の研究>
戦術はあっても戦略がない。これこそ太平洋戦争での日本の致命的な欠陥であった。
東條は絶対防衛圏が突破されつつあるとの報を受け、首相、陸相として我慢の限界を超えた。
大本営作戦部要求に応えて、飛行機や船を作ってきたが、あっという間に撃破されてしまう。
どんな作戦を立てているのか聞いても、大本営作戦部は教えない。
東條は自分が軍政と軍令の両方を兼ねようと、統帥権を持つ参謀本部の総長になることを画策する。
昭和十九年二月、東條は正式に参謀総長に就任した。軍内には反発も起こり、天皇の弟宮の秩父宮は強硬反対した。
それに合わせて、海相の嶋田繁太郎も軍令部総長を兼ねることになった。嶋田は東條に逆らえない男だった。
これで日本の意思決定最高機関は、憲法上あり得ない歪んだ構造になった。
大本営政府連絡会議があり、大本営と政府で政策を調整するのだが、実質的には、東條と嶋田の二人に決定権が集中してしまった。
東條幕府と言われた。
援蒋ライン
中国大陸で蒋介石へ軍需物資を援助するアメリカ、イギリスの動き。
日本はこれを切断するために太平洋戦争を始めた。
ビルマはちょうどそのルート上にあった。
インパール
各自が食糧の米を背負い、後は牛や馬を連れて行きそれを運搬と食糧に充てるべし。
牟田口は、部下に一切の席人を押し付けた。
三人の師団長は罷免、更迭されたが、、牟田口は責任を問われず参謀本部付という名目で東京に戻った。
サイパン陥落で総辞職した東條内閣の後、小磯・米内連立内閣が発足した。
重臣会議で、朝鮮総督をしていた小磯国昭という陸軍大将が首相に、天皇が固執した米内が海軍大臣として入閣した。
米内はかつて三国同盟に反対しており終戦を意識しているのではないかと期待された。
小磯は陸軍出身だったが、軍内に足場がなく、軍内には東條一派が幅を利かせていた。
内閣はうまく機能せず、東條の退任によって海軍の鬱憤が吹き出し、陸軍との関係が悪化した。
硫黄島
栗林忠道が率いる21000名の守備隊が、岩盤の硬さを利用して縦横無尽に穴を掘って壕から攻撃した。
大本営陸軍部の作戦部では本土決戦を考えており、その準備のために犠牲になって欲しかった。
鈴木貫太郎首相
小磯内閣が総辞職し、天皇の信頼を得て78歳の高齢で就任。
妻のたかは天皇の5歳からの養育係であり、鈴木は慈父のような存在。
天皇の意である、戦争終結を模索することが伝えられた。
表向きは陸軍の本土決戦を受け入れている素振りを見せながら、和平の模索も進めていく。
昭和十六年四月の日ソ中立条約以来、表面上は日本とソ連は戦時下でも外交官を置き合うなど、外交関係を保っており、鈴木はそれに賭け和平工作の打診を進めた。
最高戦争指導会議
大本営政府連絡会議が名を変えたもの。
首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長がの六人が出席。
御前会議での二面策
・聖戦継続、本土徹底抗戦。
15歳以上60歳までの男子、17歳以上40歳までの女子すべてに義勇兵役を課した。最終的にアメリカ兵が本土に上陸してきた場合は、竹槍で差し違えることが確認された。一億玉砕。
・ソ連を仲介とする和平工作
四月二十八日、パルチザンに捕まったムッソリーニは銃殺処刑。
四月三十日、ソ連がベルリン市内まで侵攻。ヒトラーは官邸の地下壕で拳銃自殺。
五月八日、ドイツは連合国に対して無条件降伏。
日本は世界の国々を敵として戦うことになった。
ポツダム宣言
サンフランシスコ放送通じて日本に向けて流された。
大本営は断固拒否を表明すべきと執拗に主張し、鈴木は陸軍の勢いに押されてしまった。
日本の記者団に問われて、「この声明を、政府としてはただ黙殺するだけである」と答えた。
鈴木は判断を保留するという意味で黙殺という言葉を使ったが、海外ではignore意図的に無視すると訳された。
トルーマンは原爆実験の段階で、日本に原爆を使うことを決めていた。鈴木の発言は絶好の口実を与え、原爆投下を命じた。
御前会議の結果でポツダム宣言受諾が決まったことは、国内では機密だったが日本の海外向け放送では流された。
<八月十五日は「終戦記念日」ではないー戦後の日本>
原爆のおかげで終戦は早まった。
戦争継続なら八月十五日以降、空襲は激しさを増し、アメリカ軍の日本本土上陸作戦が実行されていた。
昭和二十年八月九日にソ連が満州に進行し、攻められ続けていたら、間違いなく東日本社会主義人民共和国が生まれていた。
昨日まで全国民の十人に一人が兵士となり、アメリカ相手に憎悪をかきたてた戦いをしていたのが、掌を返して好意的になってしまう。
こんな極端な国民の変身は歴史上でも類がない。
敗戦後のどん底生活から、高度成長を成し遂げた。
ひとたび目標を決めると猪突猛進していく姿こそ、日本人の正直な姿。
敗戦と共に、鈴木貫太郎内閣は総辞職した。
後継の首相には、皇族である東久邇宮稔彦が就いている。
天皇自ら戦後の国の舵取りを頼んだ。
勝ち戦に乗じて日本の領土が欲しかったスターリンは、トルーマンにソ連の制圧地域として北海道を認めてほしいと要求していた。
トルーマンはそれを認めず、ならば領土の代わりに関東軍の兵を労働力としてもらうと勝手に決めてしまった。
こうしてシベリア抑留が行われた。
私の太平洋戦争批判
①戦争の目的、どのように推移してあのような結果になったか、あの時代の指導者はなにひとつ説明していない。戦後の内閣も、戦争に批判的であっても、当時の資料を用いながら最低限戦争の内実を国民に説明する義務がある。
②「一億総特攻」「国民の血の最後の一滴まで戦う」などといったスローガンが指導者によって叫ばれた。そんな権限はない。そんなことでしか士気を鼓舞できないなら、それは自身の歴史観の貧困さを語っているだけ。
戦略、つまり思想や理念といった土台はあまり考えずに、戦術のみにひたすら走っていく。
対処療法にこだわり、ほころびにつぎをあてるだけの対応策に入りこんでいく。
現実を冷静に見ないで、願望や期待をすぐに事実に置き換えてしまう。
太平洋戦争は良き反面教師。