失敗の本質: 日本軍の組織論的研究 ー戸部 良一, 寺本 義也, 鎌田 伸一, 杉之尾 孝生, 村井 友秀, 野中 郁次郎
<序章 日本軍の失敗から何を学ぶか>
なぜ負けたのか
→なぜ負けることがわかっていた戦争に突入したのか
軍隊とは近代的組織、すなわち合理的・階層的官僚制組織の最も代表的なもの。
戦前の日本でも、軍事組織は、合理性と効率性を追求した官僚制組織の典型と見られた。
しかし日本軍には本来の合理的組織となじまない特性があり、それが組織的欠陥となって、大東亜戦争での失敗を導いた。
<一章 失敗の事例研究>
ミッドウェー作戦
劣勢の米国海軍にとって、暗号の解読が力になった。
日本海軍で最も広く用いられた戦略常務用の「海軍暗号書D」の解読に成功していた。
これにより、太平洋艦隊ニミッツ司令長官は、ミッドウェー作戦の計画に関して日本側の作戦参加艦長、部隊長とほぼ同程度の知識を得ていた。
「ニミッツの太平洋海戦史」では、劣勢な米兵力の点からみれば、米国の指揮官にとって、それは不可避な惨事を事前に知ったようなものであったとのこと。
ミニッツ司令長官は使用できるすべての兵力を集中したが、兵力絶対量においても、その練度においても劣勢はいなみがたかった。
それをカバーする点は、
・戦略的には、日本軍の作戦計画の全貌をつかんでいたこと
・戦場が自己の根拠地に近いこと
・戦術的には不沈空母ミッドウェーの存在
・レーダーや無線通信能力が日本軍より優れていた
米空母攻撃隊のめざましい成果は、必ずしも当初予定されたシナリオどおりの作戦行動によってもたらされたものとはいえない。
そこにはさまざまな錯誤や偶然が重なっていた。
ホーネット、エンタープライズ、ヨークタウンから発進した各隊はバラバラに目標に向かい、意図せざる結果として、電撃機隊による攻撃と爆撃機隊による攻撃とが連続し、しかもエンタープライズとヨークタウンから発進した爆撃機隊の急降下爆撃がほぼ同時になされることになった。
しかし、指揮下の全機全力攻撃を果断に決定したスプルーアンスの意思決定のもたらした結果であった。
彼の瞬時の果断な決定は、日本側の意思決定の遅れや逡巡と、きわだった対照をばしていた。
戦闘は錯誤の連続であり、より少なく誤りをおかしたほうにより好ましい帰結をもたらす。
戦場において不断の錯誤に直面する戦闘部隊は、どのようなコンティンジェンシー・プランを持っているかということ、ならびにその作戦遂行に際して当初の企図と実際のパフォーマンスとのギャップをどこまで小さくすることができるかということによって、成否が分かれる。
ミッドウェー作戦の主眼は、ハワイ奇襲で撃ち漏らした米太平洋艦隊の空母を捕捉撃滅することにあった。
真のねらいは、ミッドウェーの占領ではなく、同島の攻略によって米空母軍を誘い出し、これに対し主動的に航空決戦を強要し、一挙に捕捉撃滅しようとすることにあった。
ところがこの目的と構想を、山本連合艦隊司令長官は第一機動部隊の南雲に十分に理解・認識させる努力をしなかった。
近代戦における情報の重要性を認識できなかった。
攻撃力偏重の戦略・用兵思想。
攻撃技術はめざましい進歩を遂げたが、兵力量、訓練用燃料などの制約から、攻撃力発揮の前提である情報収集、索敵、偵察、報告、後方支援などを配慮する余裕がなく研究や訓練も十分でなかった。
防禦の重要性の欠如
航空母艦の特徴は、攻撃力はきわめて大きいが、防禦力が脆弱なこと。
そのため先制攻撃が最も効果的な防禦手段でsるとされていた。
いったん攻撃を受けた場合の防空戦闘能力はきわめて不十分であった。
対空見張能力は貧弱で、対空砲火の命中制度もきわめて悪かった。
ダメージ・コントロールの不備
被弾した場合の艦内防禦、防火対策、応急処置なども不十分だった。
飛行甲板の損傷に対する被害局限と応急処置に関しては、ほとんど研究、訓練が行われていなかった。
ヨークタウンの例が顕著。
ガダルカナル作戦
日本側は、各組織単位が有効な通信システムの整備のうえに緊密な情報運用と攻撃を機動的に行い、共同目標への組織的統合を図るべき場合においても、陸軍と海軍がバラバラの状態で戦い、空、海戦力を短時間的に投入していた。
作戦司令部には兵站無視、情報力軽視、科学的思考方法軽視の風潮があった。
粗雑な戦略であっても、個々の戦闘において、第一線はその練達の戦闘技倆によってこれカバーして、戦果を挙げてきた。
本来的に第一線からの積み重ねの反復を通じて個々の戦闘の経験が戦略・戦術の策定に帰納的に反映されるシステムが生まれていれば、環境変化への果敢な対応策が遂行されるはずだった。
しかし第一線からの作戦変更はほとんど拒否されたし、フィードバックはなかった。
インパール作戦
牟田口軍司令によるアッサム侵攻への固執。
コンティンジェンシープランがなかった。
作戦不成功の場合を考えるのは、作戦の成功について疑念を持つことと同じであるがゆえに必勝の信念と矛盾し、部隊の士気に悪影響を及ぼす。
人間関係や組織内融和の重視は、本来、軍隊のような官僚制組織の硬直化を防ぎ、その逆機能の悪影響を緩和し組織の効率性を補完する役割を果たすはずであった。
インパール作戦では、組織の逆機能発生を抑制・緩和し、あるいは組織の潤滑油たるべきはずの要素が、むしろそれ自身の逆機能を発現させ、組織の合理性・効率性を歪める結果となった。
レイテ海戦
日本海軍が総力を結集して戦った事実上の最後の決戦。
「史上最大の海戦、そしておそらく世界最後の大艦隊決戦であった」 ハンソン・ボールドウィン「海戦」
質量ともに劣勢な航空兵力を補うための作戦として、「特別攻撃」が組織的に採用されたのも、この海戦から。
作戦の目的は、本土と南方との間の資源供給路を確保するために、その連絡圏であるフィリピンへの米軍の進攻を阻止すること。
フィリピンが落ちれば、南方からの石油その他の戦略資源は輸送不可能になる。
また、台湾、沖縄への進攻も時間の問題となり、本土上陸も短時間のうちに現実のものとなる。
日本海軍は、結局この海戦によって壊滅的な損失をこうむり、以後、戦闘艦隊としての海軍は存在しなくなった。また本土と南方の資源地帯とをむすぶ補給戦は断たれた。
米軍の当初の計画では、レイテ島進攻は十二月二十日であった。それを二ヶ月以上も繰り上げて実行したのは、日本軍がマリアナ海戦で失った航空兵力を中心とする機動部隊を再建する前に、これを徹底的に叩こうとしたため。
各自が錯誤の余地を少なくするためには、日常的な思考・行動の延長の範囲で活動できることが必要である。
沖縄戦
作戦目的はあいまいで、米軍の本土上陸を引き延ばすための戦略持久か航空決戦かの間を揺れ動いた。
大本営と沖縄の現地軍にみられた認識のズレや意思の不統一。
<二章 失敗の本質ー戦略・組織における日本軍の失敗の分析>
●あいまいな戦略目的
「察し」を基盤とした意思疎通がまかり通った。
中央部の意図、命令、指示はあいまいであり、成り行き主義が多かった。
艦艇、潜水艦、航空機の間で展開される近代海戦の場合には、作戦目的が明確でないことは、一瞬の間に重大な判断ミスを誘う。
目的の単一化とそれに対する兵力の集中は作戦の基本であり、反対に目的が複数あり、そのため兵力が分散されるような状況はそれ自体で敗戦の条件になる。
目的と手段とは正しく適合していなければならない。「目的はパリ、目標はフランス軍」
ミッドウェー海戦での山本長官が押し切って策定された作戦目的
「ミッドウェー島を攻略し、ハワイ方面よりする我が本土に対する敵の機動作戦を封止するとともに、攻略時出現することあるべき敵艦隊を撃滅するにあり」
前段は、ミッドウェー島を攻略し、後段では米艦隊撃滅を目的としている。二重の目的。
一方でミニッツは「空母以外には手を出すな」と厳命し戦力集中していた。
レイテ海戦では連合艦隊をすり潰してでも、米上陸軍を背後から攻撃し、その補給を断つために輸送船団をたたくという作戦の主目的は、連合艦隊司令部の「作戦要領」その他の命令によってもレイテ湾突入にあったはずであった。
グランドストラテジー
米軍は中部太平洋諸島の制圧なくしては、海軍の効率的対日進攻はありえないし、陸軍の前進基地の確保も困難であること、最終的には日本本土の空襲による軍事抵抗力の破壊が必要であることを予測していた。
日本軍の戦略には当初から米本土を攻撃し、日本兵を上陸させて決着つけるという本土直撃作戦の構想はたてられなかった。
日米開戦直前の1941年11月15日に至っても、
ある程度の人的、物的損害を与え南方資源帯を確保して長期戦に持ち込めば、米国の戦意喪失、その結果としての講和がなされようという漠然としてあいまいな戦争終末観。
したがってそこから導き出される個々の作戦目的にもつねにあいまい性が存在していた。
ガダルカナル戦は、こうした戦争観の相違が最も顕在化した例で、米軍はガダルカナルを自らのグランドデザインに基づく日本本土直撃のための論理的一ステップとして作戦展開したのに対して、日本軍は同島を米豪ルートに脅威を与えるための一前進基地と見たにすぎず、このような戦略構想の相違が戦力の逐次投入という作戦に帰結した。
また米軍が欧州および太平洋における複数国との戦争に対して、連合国との協同作戦を展開しえたのに対して、日本は枢軸同盟国の独伊との連携はほとんどできないままに終わった。
山本五十六は米国という大国を相手に長期戦を戦い抜く力はない、なんとしても戦争は短期戦で終わらせなければならないと考えていた。
陸軍の杉山元参謀総長は、永野修身海軍軍令部総長とともに天皇から作戦計画について「絶対に勝てるか」と下問され、「絶対とは申し兼ねます。勝てる算のあることだけは申し上げられます。必ず勝つとは申し上げ兼ねます」
東條英機首相「戦争の短期終結は希望する所にして種々考慮する所あるも名案なし。敵の死命を制する手段なきを遺憾とす」
日本軍の戦略志向が短期志向だというのはあきらか。
長期の見通しを欠いたなかで、日米開戦に踏み切ったという近視眼的な考え方。
戦略の短期志向性は個々の作戦計画とその実施にも反映している。
海戦冒頭にハワイ奇襲攻撃にしても、陸上のタンクや工場などの諸施設には手をつけずに、第一撃の攻撃だけで引き揚げている。
ガダルカナル島に揚陸中の米軍輸送船団を沈め、その攻略作戦を挫折させるために展開された第一次ソロモン海戦のとき、三川艦隊は夜襲によって敵の重巡洋艦四隻撃沈、他に重巡一、駆逐艦二大破という敵主力を撃破する大戦果を挙げたが、作戦の主目的である輸送船団には一撃も加えないで引き揚げた。
レイテ海戦でも、作戦自体が後詰めの戦略を欠く短期決戦の性格を持つものであったが、レイテ湾突入による敵攻略部隊撃滅という第一目的の実現に向わず、その直前まで来ながら反転して敵機動部隊との決戦を目指したのも、連合艦隊に根強かった艦隊同士の短期決戦思想の現れと考えることができる。
ノモンハンとガダルカナルでは、様子を見て兵力の逐次投入が行われた。
短期決戦志向の戦略は、一面で攻撃重視、決戦重視の考え方と結びついているが、他方で防禦、情報、諜報に対する関心の低さ、兵力補充、補給・兵站の軽視となって表れる。
米軍の戦闘展開プロセスは、まさに論理実証主義の展開にほかならなかった。
太平洋の海戦において一貫して、たえず質と量のうえで安全性を確保したうえで攻勢に出た。数があきらかに優勢になるまでは攻撃を避け、物量的に整って初めて攻勢に打って出ている。
ガダルカナルでは、日本軍の持久戦力が大きいため、攻めやすい陣地をさきに攻め落とし、強固な陣地を素通りし、後に火力を集中し攻撃するという方法をとり、以後この方法をニューギニアその他でも適用した。
日本軍の戦略策定が状況変化に適応できなかったのは、組織のなかに論理的な議論ができる制度と風土がなかったことに大きな原因がある。
戦略策定を誤った場合でも、その修正行動は作戦中止・撤退が決定的局面を迎えるまではできなかった。
本来、戦術の失敗は戦闘で補うことはできず、戦略の失敗は戦術で補うことはできない。
とすれば、状況に合致した最適の戦略を戦略オプションのなかから選択することが最も重要な課題になる。
「ふ」兵器
風船爆弾。
風船(直径10m、水素ガス注入)は和紙をコンニャク糊で貼り合わせた。
昭和十年頃から科学研究所で研究開発が着手され、十八年の11月に実験第一号が完成し、翌年2-3月にテストが実施された。
十九年11月〜二十年4月までに、約9300個が使用された。
気球1個につき20kgの焼夷弾が装備され、米国まで高度1万メートルの上空を平均60時間で飛ばす計画。
米本土および周辺に285個が到達し、爆発28、疑わしいもの85、人的被害1件6人、山火事2件、配電線切断1件、到達率3パーセント、爆発したもの1パーセント未満。
総合的技術体系という観点から見ると日本軍の技術体系は、全体としてバランスが取れていない。
ある部分は突出してすぐれているが他の部分は絶望的に立ち遅れているといった、一点豪華主義だが、平均的には旧式なものが多かった。
大和: 航空攻撃に対する防禦、対空火器の点では弱点があった。
主砲の威力は十分発揮されるには至らないままで終わった。遠距離砲爆に必要なレーダーの性能が悪かったうえに、それと連結した射撃指揮体系が立ち遅れており、さらに日本海軍自慢の砲術が練度不足によって低下していた。
大和も武蔵もその力を出しきれずに沈没した。
零戦: 材料として軽量な超々ジェラルミンを使用したため、その入手と加工がきわめて困難であり、大量消耗に見合う大量生産が確立できなかった。
●日米建造隻数比較(昭和15-20年)
駆逐艦
護衛艦
海防艦
潜水艦
戦艦
巡洋艦
本格空母
小型空母
日本
31
32
171
134
2
5
9
9
米国
397
505
96
223
10
49
31
89
●日米航空機生産量比較(月産)
年/月
16/12
17/6
17/12
18/10
19/6
19/11
20/4
日本
550
650
1040
1620
2800
2100
1800
米国
2500
5000
5400
8400
8100
6700
6400
対米比率%
22.0
13.0
19.3
19.3
34.6
31.3
28.1
零戦に対してヘルキャットが二対一の戦闘を挑むことができたのも、供給能力の差が影響している。
米国の製品および生産技術の体系は、科学的管理法に基づく徹底した標準化が基本であった。
潜水艦では艦型の種類を絞り同型艦をできるかぎる長期間設計変更しないで大量生産方式でつくることに力を注いだ。
潜水艦が輸送船団の破壊を主目的とするという任務を明確に持っていたうえ、レーダーを備えることによって、艦自体の性能としては特別強力である必要はなかったからだ。
日本では多種多様な潜水艦がつくられ、一品生産的。
日本軍は潜水艦を先遣部隊として位置づけ、艦隊決戦のために敵艦隊漸減にあたるという任務を与えていたから、戦艦、駆逐艦攻撃能力を要求された。
その結果ほんのわずかな改良も艦型の転換につながり、標準化が遅れ、大量生産が困難になった。
米国は航空母艦も標準化、大量生産の例外ではなかった。
エセックス型を正規空母の標準艦とし、商船を改造した護送空母を大量に建造した。
米軍は勝利を収めるためには、あらゆる兵器を大量に生産し続ける必要があることを的確に認識していた。
そのため、開発にあたっては、徹底した標準化を追求し、量産すること、それによって建造期間の短縮と単位あたりコストの切り下げが可能になる(エクスペリエンス・カーブ)ことを、自動車等の大量生産システムを通じて経験的に熟知していた。
米軍は高度な技術を開発してもそれをインダストリアル・エンジニアリングの発想から平均的軍人の操作が容易な武器体系に操作化していた。
一点豪華で、その操作に名人芸を要求した日本軍の志向とは本質的に異なる。
日本軍の技術体系では、ハードウェアに対してソフトウェアの開発が弱体であった。
その結果の現れの一つが情報システムの軽視であった。
レイテ海戦で四つの艦隊緊密な策応に失敗し、各個撃破されたのは、通信機能の低下によって各艦隊と連合艦隊司令部が的確な状況判断を誤ったことが原因の一つ。
ミッドウェーで先制攻撃を受けて一瞬にして空母と艦載機を喪失したのは、暗号が解読され、事前に行動が察知されていたことと関連がある。
海軍が野戦を得意としたのは、レーダーの未装備につながっている。
米軍機がかなり早くからレーダーを装備していたのに対し、日本海軍の場合には昭和十九年の段階で実戦に従事したレーダー装備実働機数は、わずか数十機。
対潜水艦用ソナーを装備した米艦艇によって日本軍の潜水艦は容易に行動をキャッチされてしまった。
ロジスティック・システムの遅れ。
先制・奇襲による短期決戦思想は、その必要性をあまり感じさせないように作用した。
兵器があっても弾丸がなかったり、艦艇があっても石油が確保されていないということがたびたび見られた。
現地調達という言葉が多様された。
●人的ネットワーク偏重の組織構造
ノモンハン事件では作戦終結という重大局面に至ってもなお微妙な表現によって意図をそれとなく伝えるという命令方法がとられた。
インパール作戦開始後1カ月以上を経過し、失敗が誰の目にも明らかになりつつあっても、秦彦三郎参謀次長は、南方軍総参謀長やビルマ方面軍司令官に作戦中止を示唆したが、自らそのイニシアチブをとろうとはしなかった。それは彼の示唆した作戦中止に二人とも同意したように見えたので、いずれ現地から作戦中止の上申があるであろうと考えたからだろいう。
日本軍が戦前において高度な官僚制を採用した最も合理的な組織であったはずであるにもかかわらず、その実体は、官僚制のなかに情緒性を混在させ、インフォーマルな人的ネットワークが強力に機能するという特異な組織であることを示している。
官僚制の機能が期待される強い時間的制約のもとでさえ、階層による意思決定システムは効率的に機能せず、根回しと腹のすり合わせによる意思決定が行われていた。
インパールでは作戦中止の必要性を上級指揮官や中央の参謀が認めてから1カ月以上を経過しているし、ガダルカナルでも大本営の作戦担当者が撤退を考えてから天皇の裁可を得て発動されるまで2カ月半かかっている。
日本的集団主義
組織目標と目標達成手段の合理的、体系的な形成・選択よりも、組織メンバー間の間柄に対する配慮が重視される。
ノモンハンにおける中央の統帥部と関東軍首脳との関係、ガダルカナル島撤退決定を遅らせる結果になった陸軍と海軍の関係、インパールにおける河辺ビルマ方面軍司令官と牟田口第十五軍司令官との関係。
米軍の作戦展開の速さは、豊富な生産力、補給力、優秀な航空機要員の大量供給といった、物的・人的資源の圧倒的優位性に負っていたが、同時に作戦の策定、準備、実施の各段階において迅速で効果的な意思決定が下されたという組織的特性にもよる。
米海軍のダイナミックな人事システム
最高司令官ニミッツ大将
「海軍力とはあらゆる兵器、あらゆる技術の総合力である。戦艦や航空機や上陸部隊、商船隊のみならず、港も鉄道も、農家の牛も、海軍力に含まれる」
日本軍では陸・海・空の三位一体作戦についての陸海軍による共同研究らしいものはほとんどなかった。
明治40年の帝国国防方針以来、40年近くにわたって陸軍はソ連を、海軍はアメリカを仮想敵国とみなし、戦力、戦備、戦術を充実させてきた。
平時は軍令機関が陸軍は参謀本部に、海軍は軍令部に設置されているが、戦時あるいは事変の際は大本営が設けられ、大本営陸軍部・大本営海軍部とされた。
昭和17年3月7日の大本営政府連絡会議で決定された「今後採るべき戦争指導の大綱」を決める際には、海軍側が従来からの戦果の拡充と積極攻撃による先制攻撃を主張したのに対し、陸軍は南方資源の確保によって長期持久戦の態勢を確立しようとした。
大本営にあっては陸海軍部は各々独自の機構とスタッフを持ち、相互に完全に独立し、併存していた。
両軍の協議が整わない場合、これに裁定が下せるのは天皇だけであった。
しかし天皇は個々の問題に対して、自ら進んで指揮、調整権を行使しなかった。
天皇は、陸海軍間の統帥や軍政上の対立については、両者の合意に成立を待ってその執行を命じるという形で機能を果たした。
そのため、実際には陸海軍の作戦上の協力と統合作戦の展開は著しく困難であった。
問題に対処するために大本営会議や大本営参謀会議などが設けられたが、結局両部の対立が解消できない際には、それを最終的に決定すべき上部機関を欠いていた。
●学習の軽視
ノモンハンでソ連軍に敗北した際には、戦車や重砲が決定的な威力を発揮したが、陸軍は近代化を進める代わりに、兵力量の増加に重点を置く方向で対処した。兵員を増加させ、精神力の優位性を強調した。これは敵戦力を過小評価し、自己の戦力を過大評価することつながった。
ハワイ奇襲作戦で勝ち、マレー沖海戦で英国のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを航空攻撃で撃沈したの日本軍だった。しかし二つの敗退から学習したのは米軍であった。それまでの大型戦艦建造計画を中止し、航空母艦と航空機の生産に全力を集中した。
ガダルカナル島での正面からの一斉攻撃という日露戦争以来の戦法は、功を奏さなかったにもかかわらず、何度も繰り返し行われた。
教条的な戦術しかとりえず、同一パターンの作戦を繰り返して敗北するというプロセスが多くの戦場で見られた。
レイテ海戦でも艦隊決戦思想からの脱却がなされていない。
沖縄でも中央部の発想は本土前線における決戦、そして機動反撃という戦略・戦術を一歩も出ていない。
大東亜戦争中一貫して日本軍は学習を怠った組織であった。
ミッドウェー島攻略の図上演習を行なった際に赤城に命中弾九発という結果が出たが、撃沈とするところを小破にしていた。加賀はどうしても沈没と判定せざるをえなかったため、沈没と決まったが、続く第二期のフィジー、サモア作戦の図上演習には沈んだはずの加賀が再び参加していた。
参謀や前線指揮官の間の自信喪失につながることを懸念した。
ミッドウェー海戦の結果は、図上演習で予想された以上の決定的敗北であったが、作戦終了後に通常行われる作戦戦訓研究会も開かれなかった。黒島先任参謀「突っつけば穴だらけであるし、みな十分反省していることでもあり、その非を十分認めているので、いまさら突っついて屍に鞭打つ必要がないと考えたから」
対人関係、人的ネットワークに対する配慮が優先し、失敗の経験から積極的に学びとろうとする姿勢の欠如があった。
教育機関の問題点
模範解答が用意され、その回答への近さが評価基準となっていた。
足を靴に合わせるような教育方法が採用された。
海軍で聖典とされた海戦要務令で指示されたことが、実際の戦闘場面で起きたことは一度もなかった。
学習とは必要に応じて目標や問題の基本構造そのものを再定義し変革するという、よりダイナミックなプロセスが存在する。
組織が長期的に環境に適応していくためには、自己の行動をつくり変えていくという自己革新的ないし、自己超越的な行動を含んだダブル・ループ学習が不可欠である。
戦闘失敗の責任は、しばしば転勤という手段で解消された。
転勤者はその後、いつの間にか中央部の要職についていた。
ミッドウェー敗戦でも、機動部隊の指揮官である南雲長官やその部下の草鹿参謀長は不問に付され、かえって仇討ちの機会として、次の作戦にも責任者として参加を許されている。
海軍乙事件でも真相究明の努力は不徹底で、機密文書は海中に没したままであるという形で処理され、その後の作戦計画もそれを前提にして設定された。福留中将は第二艦隊司令長官に栄転した。
レイテの反転についても栗田長官以下の第二艦隊司令部の責任は問われず、栗田は海軍兵学校長に就任している。
日本軍
米軍
1 目的
不明確
明確
2 戦略志向
短期決戦
長期決戦
3 戦略策定
帰納的 インクリメンタル
演繹的 グランド・デザイン
4 戦略オプション
狭い 統合戦略の欠如
広い
5 技術体系
一点豪華主義
標準化
6 構造
集団主義 人的ネットワーク・プロセス
構造主義 システム
7 統合
属人的統合 人間関係
システムによる統合 タスクフォース
8 学習
シングル・ループ
ダブル・ループ
9 評価
動機・プロセス
結果
<三章 失敗の教訓ー日本軍の失敗の本質と今日的課題>
日本軍は自らの戦略と組織をその環境にマッチさせることに失敗したといえる。
帝国陸軍の戦略・戦術は、一貫して対ソビエト戦にあり、資源・組織構造から訓練、演習地の選定まで、北満とシベリアの環境特性を想定していた。このような陸軍が、第二次大戦では太平洋でアメリカ軍と戦闘することになった。零下30度でも機能するように作られていた砲や機材は、高温多湿の熱帯では十分機能しなかったし、組織自体もアメリカ軍とジャングルを中心に展開する戦場にマッチしたものではなかった。
そのような不適合がわかっても、帝国陸軍はそれらを環境に適合するように自己変革できなかった。
●日本軍の環境適応
適応は適応能力を締め出す。
adaptation precludes adaptability
・戦略・戦術
陸軍は、物的資源よりも人的資源の確保が経済的により容易であったという資源的制約と、人命尊重の相対的に稀薄であった風土のなかで、火力重視の米軍の合理主義に対し白兵重視のパラダイムを精神主義にまで高めていった。
海軍は、明治38年の日本海海戦の世界の海戦史上かつてない完全勝利から、艦隊決戦を再現することで勝利を得ることができるという考え方を強化していった。
・資源
第二次大戦で使用された各国の小銃や機関銃は、第一次大戦型かその延長線上にあった。
小銃はボルト・アクション形式の手動連発銃が主用されていたが、アメリカのみ1936年に自動小銃M1を制式化していた。
日本軍は、明治39年制定の三八式歩兵銃で大東亜戦争を闘った。これは日露戦争に勝った三〇年式歩兵銃を改良したもの。
帝国陸軍は、大正14年戦車隊を創立以来、戦車の価値についてつねに懐疑的であった。
歩兵による白兵第一主義の発想から九五式軽戦車や九七式中戦車などが開発されたが、火力や防護力の低さは第二次大戦中の列国戦車に比すbwkjもなかった。九七式中戦車の備砲は五七ミリ榴弾砲で歩兵直協の域を出ず、戦車対戦車の戦闘など望むべくもなかった。
白兵第一主義の戦略原型は、帝国陸軍をして、三八式歩兵銃、三八式野砲と九五式軽戦車、九七式中戦車を典型とする技術資源をもって大東亜戦争を迎えさせた。
海軍では海戦要務令に示されたように、終始一貫して戦艦部隊を主体とする艦隊決戦に航空部隊や潜水艦部隊がそれを支援するという考え方を軸に展開された。
帝国海軍は、ワシントン条約およびロンドン条約の劣勢な比率をカバーするために、建艦政策のハードウェア面では個艦優秀主義、ソフトウェア面では少数精鋭・名人芸の奨励を強調した。
個艦優秀主義の典型が、大和と武蔵の建造であった。
大艦巨砲主義の戦略は、より具体的には先制と集中を強調し、「攻撃は最良の防禦なり」という考え方につながる。
したがってこのパラダイムに合わない海上交通保護、防空および艦艇の防禦、航空機の防禦、潜水艦の使用などのハードウェアならびにソフトウェアの蓄積を怠った。
・組織特性
①組織構造
日本軍は米軍のように、陸・海・空の機能を一元的に管理する最高軍事組織としての統合参謀本部を持たなかった。
大本営は、陸海軍それぞれの利益追求を行う協議の場にすぎなかった。
明治以来、陸軍はソ連を仮想敵国と限定していた。
海軍では米海軍を仮想敵とし、戦艦群を中心にした輪型陣で太平洋を西進してくる米艦隊の邀撃を想定した。米主力艦隊が日本近海に近づくまでに、潜水艦と南洋諸島の基地からの飛行機で先生奇襲を反覆して漸減させ、最後に連合艦隊の艦隊決戦によって一気に制海権を獲得するという短期決戦思想であった。
したがって前進基地の重要性は認識しながらも、太平洋諸島をめぐる長期陸上戦闘に対する配慮は稀薄だった。
②管理システム
海軍兵学校では理数系科目が重視され、陸軍士官学校では戦術を中心とした軍務重視型の教育が行われた。
暗記と記憶力を強調した教育システムを通じて養成された。
軍事組織は平時いかに組織内に緊張を創造し、多様性を保持し高度に不確実な戦時に備えるかが課題。
自律性の確保
日本軍は結果よりもプロセスや動機を評価した。
個々の戦闘においても、戦闘結果よりもリーダーの意図とかやる気が評価された。
日本の現地軍は、責任多く権限なしだった。中央が軍事合理性を欠いた場合のツケはすべて現地軍が負わなければならなかった。空文虚字の命令が出るほど、現地軍の責任と義務は拡大して追及され、結果として自律性を喪失していった。
米軍は必要な自律性を与える代わりに業績評価を明確にしていた。真珠湾で日本海軍の奇襲により大損害を受けた米太平洋艦隊司令長官キンメル大将は、ただちに解任され軍法会議にかけられた。
創造的破壊による突出
日本軍にとって不幸だったのは、第一次世界大戦という近代戦あるいは消耗戦を組織全体がまともに体験しなかったこと。
せんでゃ、航空機などの軍事組織の戦略や組織自体を根底から変革させる技術革新にも、実感を持って目を向けることはできなかった。
外部環境から来る脅威をテコにして、過去の戦略、組織、行動様式を自己変革する機会を失った。
米軍は開戦時に真珠湾で低速戦艦を一気に失い、航空機を主体とした空母機動部隊への変革を容易にした。これらのうち浮揚修理のできた戦艦は、サイパンや沖縄で上陸支援の艦砲射撃専門に使われ、ガダルカナル攻防や空母機動部隊の輪型陣を支援した戦艦は、すべて高速かつ対空砲の充実した新鋭艦だった。
零戦は評価されているが、技術開発陣のヒト資源の余裕のなさも手伝ってその後は場当たり的な改良に終始した。
攻撃能力を限度ぎりぎりまで強化した名機は、ベテラン搭乗員の練度の高い操縦によって初めて威力を発揮した。
米軍は、防禦に強い、操縦の楽なヘルキャットを大量生産し、大量の新人搭乗員を航空主兵という戦略のヒト資源として活用した。
日本海軍の航空機の搭乗員は一直制であとがなく、たえず一本勝負の短期戦を強いられた。
米海軍は、第一グループが艦上勤務、第二グループは基地で訓練、第三グループは休暇という三直制。加えて自動車免許が常識の国なので、アマチュア・パイロットやエンジン整備の知識を有する潜在的予備軍も多かった。
日本軍には資源的制約に基づく「艦を沈めてはならない」という消極性が目につく。
これぞという一点にすべてを集中せざるを得ず、次が続かなかった。
そのために、既存の路線の追求には能率的であっても、自己革新につながる知識や頭脳や行動様式を求めることが困難だった。
・知識の淘汰と蓄積
日本軍の教育機関では、航空戦術、砲戦術、水雷戦術、潜水艦戦術等に分かれて、それぞれの部門の研究をしたがそれを統合しての作戦の研究というものはほとんどなかった。
学生のなかにはそれまでの作戦、海戦に参加した者が少なくなかったが、体験者の貴重な戦訓を中心とした、ミッドウェー、ガダルカナルあるいはアッツ島沖等の失敗の原因を徹底的に研究するということもほとんど行われなかった。
統合的価値の共有
日本軍はアジアの解放を唱えた「大東亜共栄圏」などの理念を有していたが、それを個々の戦闘における具体的な行動規範にまで論理的に詰めて組織全員に共有させることはできなかった。
日本軍の指導層のなかでは、理想派よりは、目前の短期的国益を追求する現実派が主導権を握っていた。
「大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し各民族の創造性を伸暢した大東亜の文化を昴揚す」とあるが、第一戦兵士は現地における現実のなかで、どれほどこの理念を信じて戦うことができたのであろうか。
日本企業の戦略は、論理的・演繹的な米国企業の戦略策定に対して、帰納的戦略策定を得意とするオペレーション志向である。
この長所は、継続的な変化への適応能力をもつことである。
変化に対して、帰納的かつインクリメンタルに適応する戦略は、環境変化が突発的な大変動でなく継続的に発生している状況では強い。
これは大きなブレイクスルーを生み出すことよりも、一つのアイデアの洗練に適している。製品ライフサイクルの成長後期以後で日本企業が強みを発揮するのはこのためである。
日本企業の組織は、米国企業のように公式化された階層を構築して規則や計画を通じて組織的統合と環境対応を行うよりは、価値・情報の共有をもとに集団内の成員や集団間の頻繁な相互作用を通じて組織的統合と環境対応を行うグループ・ダイナミックスを生かした組織である。
①下位の組織単位の自律的な環境適応が可能
②定型化されないあいまいな情報をうまく伝達・処理できる
③組織の末端の学習を活性化させ、現場における知識や経験の蓄積を促進し、情報感度を高める
④集団あるいは組織の価値観によって、人々を内発的に動機づけ大きな心理エネルギーを引き出せる
欠点
①明確な戦略概念に乏しい
②急激な構造的変化への適応が難しい
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