最近の悲報に思うこと
最近、悲しい話しかないですね。
ケチの自分からしてみれば、税金だの保険料だとか、月100万「しか」貰えてないとか値上がりとかでも悲しい話ではあるものの、それとは別に。
最近…といってもコロナで騒がれ始めてから今までの間に著名な方々の訃報が目立ってきているように思いました。それも自ら幕引きというかたちで。
一般庶民である自分よりも華やかな世界で、日々ぼっちである自分よりも人に囲まれているであろう有名人が、自らの人生に、自らで幕を引いてしまうって余程何かあったのだろうと邪推してしまいます。
むしろ自分と真逆の次元で生きているからこそ、言えないことや吐き出せないことがあって、限界を超えてしまったときに行きついてしまうのだろう、というのも邪推か。
結局はその人でないとわからないから防ぎようがないのが悲しいところ。
有名人だから報道されるだけであって、普通の人だと報道されないだけで数えきれないくらいいらっしゃるのもまた悲しいところ。
この悲報に触れるたび、自分の脳内ではある曲が流れます。
生きてることが辛いなら
それが、森山直太朗さんの「生きてることが辛いなら」です。
14~5年前にリリースされ、当時は出だしの部分で批判もあったようです。
ただ、歌が進むにつれて、本当に言いたいことがわかったように思います。
最後は以下のように歌われています。
生きてることが辛いなら、死んでしまってもいいのかもしれないけれど
どれだけ身近な人間でもずっと悲しんで打ちひしがれてくれるわけではないし、年を取ったらいずれ同じところへ行くのだから、急ぐことはないよ。
だから生きてることが辛くても、いっそ嫌になるまで生きたらいい。
いっそくたばったときに喜びを感じれるほど生きてみたらいい。
という風に自分は解釈しています。
刺激的な見た目でいて、深い歌だと思います。
実際、残されたほうはたまったもんじゃないとも思います…いつまでも悲しみにくれてちゃいけないから、なんとか取り繕って生活してみせている感じでしょうね。
日常の1シーンでフラッシュバックしてくることもあるでしょうしそれはそれはもう辛いもの。
人生というひとつの物語のフィナーレは親しい人々に囲まれながら、多くの人から惜しまれながら終わりたいものですが、仮に現状でその条件が揃っていても強引に物語を終わらせるような考えには至ってほしくないです。
You Tubeにもあったので是非。
実際
ただ、なかなか人間って吐き出せない生き物だと思います。
ただ、吐き出さないとやっていけないこともあります。
だからこそ、無理をしないで生きていきたいものです。
無理をしている人を見つけたら救える人間でありたいとも。
ただ、なかなかわからないのが難しいところ。
だから結局は自分のことは自分で守らないといけない。
…と何回かどこかに書いている話のような気がしますが、実際そんな感じでどれだけ周りに人がいても、根っこのところではみんな孤独なものかもしれません。
追記
ただ…これを売り物にするようなマスコミの報道はどうかと思うのです。
訃報が入ってきたら自宅に押しかけるって、一昔前なら日常だったのでしょうけど、時代が違うから…ということではなく一昔前から異常であって。
いくら有名でも、亡くなって幾ばくも無いのに「現在のお気持ちは?」なんて聞くのもそうだし、コメントさせるのもどうかしてる。
自分がされてどう思うのか考えられない方々として侮蔑してやるくらいしかできないのですけれど、毎回モヤっとすることです。
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