1兆円半導体企業TDK創業者 齋藤憲三の生涯

グローバル半導体企業TDK創業者 齋藤憲三


齋藤憲三の肖像(齋藤憲三・山﨑貞一顕彰会HPより)

ざっくりこんな人

今日は齋藤憲三の生涯に迫っていきます。
今では売上1兆円企業となったTDK創始者である齋藤憲三ですが、知らない方も多いのではないでしょうか?
齋藤憲三とは、ざっくりこんな人です。

  • 1898年2月11日生まれ

  • 秋田県にかほ市出身

  • 早稲田大学商学部卒業

  • 東証プライム上場企業TDK株式会社の創業者

  • 衆議院議員(5回当選)・科学技術政務次官を務める

  • 勲二等瑞宝章を叙勲

  • 1970年10月31日没

父・祖母に育てられた少年時代

母を失った憲三

憲三は、自然豊かな秋田県の由利郡平沢に生まれました。憲三には父、母、祖母の他に4人の兄弟がいました。しかし、憲三がわずか3才のときに、憲三の母・ミネは病死してしまいます。今から100年以上も昔の話なので、病気によって早くに命を落としてしまうことも珍しくなかったでしょうが、後々の憲三にこの出来事が与えた影響は小さくないはずです。
父・宇一郎は衆議院議員を務めたことがあり、母に代わって熱心に憲三を教育しました。また、祖母・時尾も、母の代わりに厳しく憲三をしつけました。

家族構成
・父  宇一郎(ういちろう)
・母  ミネ(みね)
・祖母 時尾(ときお)
・長男 豊一(とよかず)
・次男 寛次(ひろつぐ)
・三男 憲三(けんぞう)
・四男 幸男(ゆきお)
・長女 敦子(あつこ)

農業改革を行った行動力溢れる父

父は、農業をより効率的かつ低負担に行うため、さまざまな革新的な方法を地元にもたらした、行動力溢れるアイデアマンでした。たとえば、当時では腰まで水に浸かって米作りをするのが当たり前でしたが、馬とスキを使うことで水に浸からず楽に田んぼを耕せる方法を地元に普及させました。これによって、農家の負担が大きく減るとともに馬の怪我も防げるようになりました。

父から受けた影響

父は憲三に、「社会の役に立つ人になれ、広く世の中を見渡して自分なりのやり方を見つけろ」といつも教育していました。憲三は父の背中を見て、大きな影響を受けたことでしょう。

いじめっこ上級生とタイマン

ある日、平沢小学校に通っていた憲三は、同級生のヒロちゃんが上級生にいじめられているのを目にします。いじめられている現場を見た憲三は、上級生に向かってこう言います。

「おれはケンカはしない!けどみんなの前でコテンパンにしてやる!一ヶ月後の相撲大会で勝負だ!」

齋藤憲三ものがたり p.17

2つも年上の上級生を相手に、普通の少年であればひるむところですが、憲三にはそんな様子はありません。そればかりか、憲三は早速相撲大会に向けて、毎日1時間以上の走り込み練習を行います。周りの同級生は、憲三のこの様子に関心していました。

そして大会当日、いじめっこ同級生を見事に倒して勝利!このときの大会は、父、祖母ともに観戦していました。

突然大阪へ!?

父からの命令

平沢小学校を卒業した憲三は、中学への進学をすることになります。兄の豊一が東京の早稲田中学へ行ったので、自分も東京か地元の本荘中学へ行きたいと思っていました。
ところが、父から
「お前は大阪の中学へ行きなさい!」
と命じられます。

「豊一は勉強がずば抜けてできる。だがお前は違う!その代わり別の才能があるようだ。その才能は私にもわからない。」

齋藤憲三ものがたり p.28

独立心を養うことを重要視した父・宇一郎は、憲三を単身大阪へ遣ることに決めさせました。このようにして、憲三は縁もゆかりもない大阪の桃山中学へ入学することになります。
衆議院議員でもあり広く社会を見ていた父だったからこそできた、エリート教育でした。

兄の死

中学へ出てすぐに、一つ違いの兄・寛次が亡くなります。病死でした。

桃山中学

桃山中学はキリスト系の中学で、英語教育を熱心に行う学校でした。卒業生には通訳になる人も多くいるレベルの高い学校でした。憲三は英語は不得意で、学校の授業についていくことができませんでした。
代わりに、当時では珍しかった野球クラブに所属し、野球で頭角を現します。英語より野球の方に夢中になりました。
このとき、弟の幸男も同じく桃山中学に入学し、同じ下宿から登校していました。

早稲田大学へ入学

早稲田大学へ入学した憲三は、明るい性格でたくさんの友人をつくりました。特に、同郷秋田出身の東海林太郎と仲良くなります。卒業後、憲三は地元に帰って地元の農家のためになることをすることに決めます。

失敗だらけの20代

憲三は、大学卒業後にすぐ事業に挑戦します。当時は米騒動や第一次大戦の影響があり、就職が困難だったのです。町には失業者が溢れ、人々は貧しく暮らしていました。

炭焼き事業 : 失敗

憲三が最初に試したアイデアは、炭焼き事業でした。収入の不安定な農家の副業となる事業のタネとして、山にある木を焼いて作った炭を販売しようとしたのです。
父から借金をして地元の大内町で炭焼きを始めた憲三でしたが、経験不足の人材で行ったこともあり、全く売れません。事業に失敗したのです。材料や給料でほとんどのお金を使い切ってしまいます。

養豚事業 : 失敗

一度の失敗で諦めない憲三は、次に養豚事業にも挑戦します。しかし、これもうまくいきませんでした。

養鶏事業 : 失敗

さらに養鶏事業も行いますが、やはり失敗に終わります。

ゲタの材料販売事業 : 失敗

これも失敗です。
憲三は、当時挑戦したあらゆる事業に失敗しました。24才でした。
事業の結果から見ると失敗こそしたものの、すでにこの年齢でこれだけの失敗経験を積んでいました。

一旦、就職。。そしてウサギに出会う

就職

事業に失敗した憲三は、できたばかりの産業組合農林中央金庫に就職しました。農家の経営支援を行っている組織でした。ここでも、経営に苦しむ農家への支援方法を考えて過ごすことになります。

アンゴラウサギ

次の事業のアイデアを探していた憲三は、アンゴラウサギというウサギの持つ可能性に関する文献を見つけ、感銘を受けます。

アンゴラ兎とその兎毛(農林省農務局副業課)

齋藤憲三ものがたり p.50

その繁殖力の強さ、飼育管理コストの低さから、織物用のアンゴラウサギの毛の販売が農家の最適な副業になると考えました。
行動の早い憲三は、すぐにアンゴラウサギの飼育をスタートします。

祖母と父の死

この年、わずか3ヶ月の間に祖母・父が相次いで亡くなります。憲三をもっとも傍で支えてきた二人を、両方とも失うことになりました。28才の頃でした。

結婚

父から譲り受けた財産を活用して、東京の武蔵野に家を建て、憲三は結婚しました。

アンゴラウサギ事業スタート

憲三は、いよいよアンゴラウサギの事業に腰を据えてチャレンジします。憲三が書いたアンゴラウサギに関する記事は、秋田魁新聞にも掲載され、大いに話題になります。ウサギの飼育を各地の農家に手伝ってもらい、事業をスタートしましたが、ここでも思うように売れません。

無謀なカネボウ本社訪問

このままだと倒産してしまう… そこで憲三は、大量に毛織物をつくっている大企業を探します。そんなとき、こんな新聞記事を目にします。

インド綿不買を決定! カネボウ社長 津田信吾

齋藤憲三ものがたり p.58

すぐさま憲三は、何の当てもなく神戸のカネボウ本社へ向かいます。突然本社の受付へ行き、社長への面会を打診したのです。無謀な試みでした。「3分でもいいんです!」熱意に動かされた受付は、社長へ打診を行い、なんと津田社長との面会に成功します。

商談成功

アンゴラウサギを知らなかったカネボウの津田社長は、憲三のプレゼンに大いに興味をもちました。そしてなんと、津田社長から契約を勝ち取ります。さらに、会社の資金を拠出してもらうことにまで成功しました。

事業ブースト!からまたも失敗

資金と契約を手にした憲三は事業を加速し、中央林間(現在の町田市)に飼育場を確保します。大きな得意先も増え、事業は軌道に乗ったかに見えました。
しかし、ウサギがコクシジウムという寄生虫の感染で大量に死んでしまいます。事業の継続が困難になった憲三は、その旨を津田社長に伝えました。なぜ事業を諦めるのか厳しく言及することもあった津田社長でしたが、次の事業に意欲を燃やす憲三を前に、憲三の決断を受け入れました。

フェライトとの出会い

東京工業大学 小泉さんとの出会い

法律事務所からの紹介で、アンゴラウサギの毛が抜ける問題を解決してくれそうな人がいるということで、東京工業大学の小泉さんを紹介されます。小泉さんと会った憲三は、その博学さに感銘を受けます。当時すでにアンゴラウサギ事業をやめていた憲三でしたが、興味をもち小泉さんの恩師である加藤博士を紹介されます。

東京工業大学 加藤博士との出会い

加藤博士は、当時まだまだ世の中で注目されていなかったフェライトの研究を行っている研究者でした。次の事業のタネを探していた憲三は、加藤博士にこう尋ねます。

憲三:新しい事業を始めようと思うのですが、重工業と軽工業のどちらがいいでしょうか?

齋藤憲三ものがたり p.79

すると、加藤博士はこう答えます。

加藤博士:日本に工業はないっ!

齋藤憲三ものがたり p.80

すでに日本でも工業地帯ではさかんに工業が行われていましたが、加藤博士に言わせれば、それは外国のモノマネにすぎない、ということでした。日本人の発明を活かした本当の工業がこの国にはない、と伝えたかったのです。

必死の説得で加藤博士から特許を譲り受ける

加藤博士の話を興味深く思った憲三は、フェライトの特許を加藤博士から譲り受けることを提案します。またもや、無謀な交渉でした。
提案を本気かどうか疑った加藤博士は、いかにフェライトの工業化の実現が難しいか憲三に伝えますが、目をまっすぐに見て

憲三:命懸けでやります。

齋藤憲三ものがたり p.84

と訴える憲三を目の前に、心が動きます。
そしてなんと、フェライトの特許を憲三に譲ることにしたのです。

満を持してライジング!

東京電気化学工業株式会社を設立

早速、憲三は東京工業大学の名前にあやかって東京電気化学工業株式会社を設立します。東京の蒲田での工場の建設を計画しますが、資金が不足して行き詰まってしまいます。

またもや津田社長に頭を下げに行く

そこで、カネボウ津田社長に資金援助を請いに行きます。
10万円、現在の価値で2億円もの資金の要請を、津田社長は引き受けます。

ついに成功

工場が完成し、工場長には加藤博士の研究室で助手をしていた山﨑貞一が務めることになりました。
営業・開発の双方の努力により少しずつ受注を伸ばしていきましたが、ある日松下電器(現在のパナソニック)から10万個の大量発注を受け、会社は一気に飛躍します。
その後みるみる売上は増え、会社として一気にライジングしました。

戦争、そして工場の焼失

しかし、太平洋戦争が勃発し、蒲田工場が空襲により全燃してしまいます。
空襲に備えて地元平沢に工場を建設していたことで、危機を免れます。戦後も、さまざまなアイデアで地元の食糧確保などの課題の克服に貢献します。

衆議院議員、そして経営引退

当選

工業化の重要性について訴えた憲三は、衆議院議員に初当選します。44才のときでした。

経営の引き継ぎ

工場長を務めていた山﨑貞一などに、経営を引き継ぐことになります。そのほか、素野福次郎、大歳寛などに引き継がれた東京電気化学工業株式会社は、日本でも指折りの会社に成長していきます。

その後

その後は、憲三は科学技術庁政務次官に就任したり、勲二等瑞宝章を叙勲されるなどして、老後も精力的に活動します。そして昭和45年、71才でこの世を去りました。

年表

  • 1898年2月(0才) 秋田県由利郡平沢で斉藤宇一郎の三男として誕生

  • 1901年?月(3才) 母が亡くなる

  • 1904年4月(6才) 平沢小学校に入学

  • 1910年4月(12才) 大阪・桃山中学に入学

  • 1910年5月(12才) 兄・寛次が13才で亡くなる

  • 1915年4月(17才) 早稲田大学高等予科に入学

  • 1918年4月(20才) 早稲田大学商学部に入学

  • 1922年3月(24才) 早稲田大学商学部卒業、直後に事業を行うも失敗

  • 1924年?月(26才) 産業組合中央金庫に勤める

  • 1925年7月(27才) 父・宇一郎が平沢町長になる

  • 1926年2月(28才) 祖母・時尾が亡くなる

  • 1926年2月(28才) 父・宇一郎が亡くなる

  • 1928年2月(30才) カノと結婚

  • 1930年6月(32才) 自宅でアンゴラウサギを飼育

  • 1932年10月(34才) 東京アンゴラ兎毛株式会社を設立

  • 1933年9月(35才) カネボウ津田信五社長の援助でアンゴラウサギの飼育場を設立

  • 1935年12月(37才) 東京工業大学教授 加藤与五郎博士からフェライトの特許を譲り受ける、そして東京電気化学工業株式会社を設立

  • 1937年3月(39才) 東京・蒲田に工場を建設

  • 1937年7月(39才) 秋田から工場へ少年工を呼ぶ

  • 1940年7月(42才) 平沢に東京電化の工場を設立

  • 1942年4月(44才) 衆議院議員に当選

  • 1944年9月(46才) 平沢町長に就任

  • 1945年4月(47才) 空襲で東京電化蒲田工場が焼失

  • 1946年3月(48才) 東京電化社長を山﨑貞一に引き継ぎ、顧問になる

  • 1953年4月(55才) 再び衆議院議員に当選

  • 1956年5月(58才) 科学技術庁政務次官に就任

  • 1969年11月(71才) 勲二等瑞宝章を叙勲される

  • 1970年10月(72才) 亡くなる

参考文献

  • 齋藤憲三ものがたり

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