想像していなかった未来-東北から世界へ
想像していなかった未来
―銀行員から、製造業(部品製造工場の管理者)、そして
今国際協力(ODA)の現場に立つ。
(目次)
1)少年の頃描いた夢
2)社会に出てやりたかった事
3)大きな会社で、小さな職場もいいもんだ
4)銀行から製造業に転職
身に着けたスキルー金融業に加え製造工場現場管理
5)社会人卒業後に天職に出会う
<少年の頃描いた夢>
2011年「3・11」で全く変わってしまった東北の小さな漁港で生まれた。
鄙びた街に台湾やロシアの漁業船が寄港、周りにいつも外国人の顔、海からの訪問客を見て育った。中学で英語を学ぶと、直ぐに外国の中学生たちと話がしたくて、東京にある「日本ペンパル協会」にコンタクト、外国の中学生のコンタクト先を紹介してもらった。
海外文通熱は、フィリピンの女子中学生から始まり、現代のような便利なSNSはない時代、返事を待つ(郵便)日数は長く、待つ間にどんどん新たな紹介相手が増えた。欧州ならノルウエー、豪州はシドニーから、アメリカは中西部ミシガン州と広がった。町唯一の郵便局窓口のおじさんが今度は何処の国に出すんだいと興味深く聞いてくる。小さな町の小さな郵便局の窓口を通じ、遥かな世界の中学生達と同時に繋がっていることが幸福感を醸成した。
<社会に出てやりたかった事>
高校から大学へ只管受験生活。大学4年目に、五木寛之氏の「青年は荒野を目指す」を真似て横浜から旧ソ連経由欧州大陸の貧乏旅行を実践。卒業の時は、世界に飛出し海外で外国人相手の仕事を志望した。就活で縁の出来た銀行で社会人生活を始めてみると組織のルール、事業目標、ゴール達成のためのプロセス、課題克服等、やることは山のようにあった。毎日の生活の中で若い日の夢、将来の希望は次第に影をひそめる。日本経済がまさに世界一のアメリカ経済に追いつけという時代、バブルも経験。1980年代は、日本経済も絶頂期であり目標としたアメリカの背中が見えて慌ただしい時代であった。
<大きな会社で小さな職場もいいもんだ>
20代は幸運にも米国(カリフォルニア)に若手研修生派遣として抜擢され、アメリカ人たちとの刺激的な日々を過ごせた。当時のアメリカは元気で生き生きとした白人中心の世界だった。AMERICAN WAY OF LIFE(アメリカ式合理的生活様式)が幅を利かせ、他人種―アジア人、ヒスパニック、黒人等有色人種は、そのアメリカ流に従う、そんな日々であった。アメリカ人のビジネスマンたちの瞳がキラキラと輝いていた。
私自身、その後も欧州(イタリア)勤務を打診され、欧米中心の銀行員生活が続くものと漠然と考えていた。しかしながら人生は何が起こるか判らない、だから面白い。
ある日、銀行の役員から、「君、南アジアの国へ行ってくれないか」と打診というか命令に近い話を受けた。新天地は、日本人が最小限の2名で現地人スタッフ40人を管理。イスラム教国であった。日本では仏教もろくに知らない者がいきなり、「アラーの神は絶対なり」の宗教色濃い職場で4年過ごす。カルチュア・ショックMAXであった。
「般若心経」の代わりに、イスラム教の経典「コーラン」を勉強、五行六信も理解した。
職員たちとのスムーズな交流のために欠かせない、外国人としては彼らの習慣と異なることをして彼らの信頼を損ねる事だけは避けたい。異文化、異なる宗教との出会い、そして全く異質の民族と生活習慣に浸ったことは、私のその後の人生にとって無二の宝物になる。
<銀行から製造業への転職>
4年間、自分も家族も大きな病気・事故なく南アジア国勤務を果たし帰国した。その後銀行退職し縁があって製造業に転じた。
アメリカ工場とインド工場の生産管理・経営を任された。アメリカでは、当時世界一のゼネラルモーター(GM)との取引、インドでは日本自動車メーカーとの取引が主たる仕事。自動車向け部品製造の生産技術・品質管理に加え日本お得意のKAIZENによる工場の価値MAXが目標。銀行員にとって工場技術面は難しい,もっぱら経営面―数値管理、従業員管理が仕事。
アメリカ工場では工場原価を下げるため隣国メキシコへの移転を計画、同工場の従業員を500人から30人まで大量解雇、実質工場閉鎖の大ナタをふるった。
インドでは工場経営権を巡って、長年のパートナーであったインド経営者と弁護士を活用しながら法的闘争の日々。インド人は手ごわい。なかなか成果が出ない。
若いころは純粋に外国人との異文化交流を夢見ていたが、社会に出てからの世界雄飛は甘くなく、都度痛み(そして悲しみも)を伴った。
アメリカ工場の仲間たちを大量解雇―500人近い工員、エンジニア達を解雇するのは私にとって想像もしない一大事件。1万6千人のアメリカ中西部の田舎町にある町一番の日系の製造工場であった。一時は解雇した工員から命を狙われるのではないかと心配したが、銃で撃たれることもなく工場の規模縮小(実質閉鎖)をやり終えた。
トウモロコシ畑の傍に立つ製造工場の仲間たちを一人づつ解雇、工場ががらんとしてくるのを見ながら中西部の大きな夕日が沈むのを眺めながら、これも残った仲間を活かすためなんだと自分に語りかけた日のことを思い出す。
<社会人卒業後に天職に出会う>
アメリカ工場、続くインド工場の経営管理も終わり帰国、社会人としても幕引きのタイミング。身体、気力も若いころと特に変わらず、世の中のために何か出来ることはないかと考えていたころ銀行時代の後輩から、ジャイカの国際協力(ODA)への応援要請を受けた。アフリカ諸国の自立成長支援の調査事業がテーマであった。
アフリカ大陸勤務経験もない立場から躊躇していた時に、ジャイカ(南アジア国)から別のプロジェクトのお誘いを受けた。私がこれまで経験してきた南アジア国の自動車部品製造工場の人材育成プロジェクト。私自身驚いた、これほど私の経験(銀行時代の南アジア国の勤務経験、そしてメーカー転職後のアメリカ・インド工場経営で身に着けた生産管理スキル)を活かせる機会が与えられようとは。天命と感じた。
南アジア国に出かけ、自動車部品製造工場50ケ所を選び出し、工場ごとに生産技術と完成品の品質向上を実現できるまで現地スタッフを育成するプロジェクト。
必要な指導グループのエンジニア人材を日本で集めチーム組成、現地へ乗り込んだ。仲間の一人が途中体調不良になり現地病院に世話になったが何とか所期の目標達成し、ジャイカ本社にプロジェクト終了報告書の提出までこぎつけた。
本テーマは「想像していなかった未来」。
少年の頃描いた夢である「国際的なコミュニケーション実現」、
社会人としての「海外で外国人たちに交じって活躍できる職場で働く」という
自分の夢は実現した。
しかしながら、国際社会現場での仕事は、異文化交流(言葉も違えば、生活文化、宗教もまるで違う)の中でいかに自国と自身の責務(例えば、日本のお家芸であるものつくり、KAIZENに関する技術移転による現地人材育成、その国に貢献できる人材育成)を現場で実践、成果を上げるという大役であり、やりがいのある仕事の連続であった。
難しい環境下、何とかこなしてこれた今、やれば出来るし、「ODAが天職です」と胸を張って言える気がしている。想像もつかないことが毎日起きるのが海外赴任地であり課題をクリアし、所期の目的達成には、日ごろ積み重ねてきた実務経験、多数の仲間たちとの協同を通じて築き上げた自己研鑽がキーポイント。
誰にとっても、目標を見据えた「未来」は、白紙の1ページから始まる。ゴールに辿り着けば最高の充実感が待っている。さて次は、仲間たちに声をかけ、地球80億人のうち貧困層15億人という、その「貧困削除とマイクロ・ファイナンス活用」に挑戦しようと考えている。