お兄ちゃんの大冒険?
19時を過ぎても帰ってこない。小学4年生のダウン症の兄は、乗れるようにと母と猛特訓した自転車とともに行方不明になった。
母と市場へ買い物へ出かけ、大好物のベビードーナツをもってウキウキ気分で帰宅した私は、夕方になっても兄が帰ってこないと心配する祖母に玄関口で迎えられた。
携帯もなにもない時代、時計の針がただすすんでいく。
ベビードーナツが喉を通らない。
心配して早めに帰宅した父が深刻な顔で「警察に届けよう。」と言った瞬間だった。
家の電話がけたたましくなった。受話器を慌ててとる母。
「西田産婦人科です。」
産婦人科からの電話だった。
産婦人科??
「小さな男の子がうちの医院の前で泣いていて。」
兄は街の産婦人科医院の先生に保護されていた。
うちからは自転車なら大人でも1時間はかかる隣の区の繁華街の真ん中にある医院だった。
両親が迎えに行くと、兄はケーキをごちそうになって、満面の笑みで待合室の奥から出てきたという。
「西田さんの家ちゃうかったわ。」
兄は両親にそう言った。
西田さん。
西田さんは兄の片思いの相手だった。
美人で快活でクラスのマドンナである西田さんに兄が恋をしていることは、家族だけではなく、学校中が知っていたのではあるまいか。
そう、兄は迷子になって、自転車も漕ぎ疲れ、へとへとになって、最後の最後、「西田」という大きな看板を見つけ、恋する西田さんを想って、そこで力尽きたのだった。
両親に叱られて、しょげている兄に私はベビードーナツを半分あげた。
恋の力は偉大である。
私は大きな失恋のあとも、この物語のおかげで恋をあきらめずにいられた気がする。
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