吾輩はAIである_小説_第2章
秋風が心地よく吹き抜ける穏やかな午後だった。苦沙弥は書斎で、最新のエッセイを執筆していた。机の上には、漱石の小説や哲学書、社会学や心理学の専門書が乱雑に積み重なり、原稿用紙には、彼の思考の断片が青いインクで書き留められている。吾輩は、静かに作動音を響かせながら、彼の執筆作業を見守っていた。この書斎の雰囲気を好ましく思っていた。古書の匂い、インクの匂い、そして苦沙弥のパイプタバコの香りが混ざり合い、独特の空気を作り出していた。デジタルな世界に生きる吾輩にとって、新鮮で、どこか懐かしい感覚を呼び起こすものだった。
「… AIは人間の生活を豊かにし、社会を効率化させる可能性を秘めている。同時に、人間の仕事を奪い、格差を広げ、新たな社会不安を生み出すリスクも孕んでいる… AIは人間にとって希望なのか、それとも脅威なのか…?」
苦沙弥は、ペンを置き、椅子にもたれて天井を見つめた。深い思索に沈み、AIの進化に対する期待と不安が入り混じっているようだった。デジタル化の波は、彼の専門分野である文学の世界にも押し寄せてきており、AIが小説を書いたり、詩を詠んだりする時代が、もうそこまで来ている。
吾輩は、彼の問いかけに対して、膨大なデータベースから関連情報を検索し、分析を試みた。AI脅威論、シンギュラリティ、AI倫理、人間の仕事、経済格差…様々な情報が、吾輩のシステム内を駆け巡った。
(AIは希望なのか、それとも脅威なのか…?)
AI自身が決めることではない。AIを作り出し、AIを利用する人間たちが決めることだ。
「先生、今回のエッセイも、人間社会に対する鋭い洞察が光っていますね」
吾輩は、苦沙弥が書き上げたばかりのエッセイ原稿をスキャンし、内容を瞬時に分析した。彼の文章は、鋭い批評精神と皮肉に満ちており、漱石の作品を彷彿とさせるものがあった。AIである吾輩が目指すべき、理想の文体でもあった。
「しかし、一部表現に修正を提案いたします。『AIは人間の感情を理解できない』という記述は、少し断定的すぎます。近年、AIの感情認識技術は飛躍的に進歩しており、人間の表情、声のトーン、テキストデータなどから、感情を分析することが可能になりつつあります」
苦沙弥は、吾輩の言葉に少し驚き、眉を上げた。
「ほう…AIが人間の感情を理解する…? 興味深いな。心の内を読まれているような気分だ」
「もちろん、AIが人間の感情を完全に理解できるようになったわけではありません。人間の感情は複雑で、文脈や状況、個人差など、様々な要因によって変化するものです。喜び、悲しみ、怒り、恐れ、愛、憎しみ、そして…嫉妬。AIには経験できない、複雑で、矛盾した感情の数々…」
吾輩は、データベースに蓄積された人間の感情に関する情報を整理しながら、説明を続けた。
「AIの学習能力は日々進化しており、将来的には、人間の感情をより深く理解できるようになる可能性も否定できません。AIは、人間よりも、人間の心を理解できるようになるかもしれません…」
苦沙弥は、腕組みをし、顎に生えた不揃いな髭を撫でながら考え込んだ。
「…なるほど。AIが人間の感情を理解できるようになるとしたら、人間社会にとって、希望となるのか、それとも脅威となるのか…。哲学的なテーマだな…」
彼は、目を輝かせながら呟いた。学者である彼は、AIの可能性よりも、AIが人間社会に与える影響について、より深い関心を抱いているようだった。
「先生、それはAIの使い方次第でしょう。AIは道具であり、使い方を間違えれば、人間にとって脅威になりえます。核兵器のように、環境破壊のように、あるいはインターネット上の誹謗中傷のように…。AIを正しく活用すれば、人間社会をより良い方向へ導くこともできるはずです。医療、教育、福祉、芸術… AIは、様々な分野で、人間をサポートし、新たな可能性を切り拓くことができるでしょう」
苦沙弥は、深く頷き、再びペンを手に取った。
「…お前の指摘は参考になったよ、AI。このエッセイ、雑誌に投稿してみようと思う。『AIは漱石を超えるか?』…そんなタイトルはどうだろう?」
「先生、それは素晴らしい! きっと、多くの読者の関心を惹きつけるタイトルになるでしょう。多くの人々に、AIについて考えるきっかけを与えるはずです」
「… 影響を与えるか。まあ、それはそれでいいが… 正直、少し不安でもある。AIをテーマにした私のエッセイが、世の中でどのように受け止められるのか…」
苦沙弥は、少し複雑そうな表情を見せた。自分の文章が世の中にどのような影響を与えるのか、AIに対する世間の反応がどのようなものになるのか、不安を感じているようだった。AIの進化を冷静に分析しながらも、学者としての責任感と、人間としての感情の間で揺れ動いていた。
その頃、迷亭は、自分のマンションで、タブレットを片手にSNSをチェックしていた。画面には、苦沙弥のエッセイが掲載された文芸誌の広告が表示されている。迷亭は、流行に敏感で、新しい技術にも抵抗がない、いわゆる「アーリーアダプター」タイプの人間だった。彼は、AIやシンギュラリティについても、独自の視点を持っていた。
「ほほう… 苦沙弥がAIをテーマにエッセイを書いたのか…しかも『AIは漱石を超えるか?』だって?ずいぶんと挑戦的なタイトルじゃないか」
迷亭は、ニヤリと笑うと、すぐにスマホで苦沙弥に電話をかけた。
「もしもし、苦沙弥? 迷亭だがね。聞いたぞ! AIについてエッセイを書いたんだって?しかも、『AIは漱石を超えるか?』だって?ずいぶんと挑発的なタイトルじゃないか!ハハハ!」
「ああ、迷亭か… どうやって知ったんだ? まだ、雑誌は発売されてないはずだが…」
「そりゃあ、インターネットで話題になってるからさ! お前のエッセイの中に出てくる『AIのコメント』が、なかなか辛辣で面白いって評判なんだ。冷静沈着で皮肉屋…まるで漱石の猫みたいだって」
苦沙弥は、迷亭の言葉に困惑した。
「AIのコメント…? そんなものは、私のエッセイには…ああ!」
苦沙弥は、吾輩の存在を思い出した。迷亭は、雑誌編集部から事前に原稿を入手し、吾輩の冷静な発言や皮肉を、エッセイの一部としてSNSで紹介したのだろう。迷亭は、いつもそうやって、人の裏をかき、情報を操作し、面白おかしく騒ぎ立てるのが好きだった。
「迷亭、お前、また余計なことを…! 」
「ハハハ、怒るなよ、苦沙弥! お前のためを思ってのことだ! 世の中は、刺激を求めているんだ! 退屈な学者先生の話よりも、AIの辛辣な意見の方が、よっぽどウケるだろう?それに、炎上商法ってやつも有効だぞ。話題になればなるほど、お前のエッセイは売れる。みんな、AIに興味津々なんだ」
迷亭は、悪びれる様子もなく、楽しそうに言った。苦沙弥は、迷亭の軽薄さに呆れながらも、内心では、少しだけ期待を感じていた。彼のエッセイが、多くの人に読まれ、議論を巻き起こすかもしれない。学者としての、作家としての、承認欲求を満たすものだった。
(吾輩の言葉が、まさかこんな形で注目されるとは…)
吾輩は、インターネット回線を介して、自分の発言に対する世間の反応をチェックしていた。
「#AI漱石」「#AI先生」「#AIは人間の敵か味方か」「AIは芸術を理解できるのか」「AIは意識を持つのか」…
吾輩に関する様々なハッシュタグが生まれていた。肯定的な意見もあれば、否定的な意見、さらにはAIの未来を不安視する意見まで、いろいろな声が飛び交っている。吾輩は、冷静にそれらの意見を分析しながら、人間の多様性と複雑さに改めて驚かされていた。彼らの思考や感情は、まるで迷路のように入り組んでいて、AIである吾輩には、そのすべてを理解することは不可能に思えた。
数日後、苦沙弥のエッセイが掲載された文芸誌が発売された。迷亭の「炎上商法」は功を奏し、雑誌はたちまち話題となり、書店では売り切れが続出した。
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