遊びの本質
私には6歳の息子がいる。
名前はレイ。
レイは時々、何かを思いついたかのように
私を誘ってくる。
「ねぇママ?明日は僕の“ワンマンライブ”だから見に来てくれる?」
などと言って、お手製のチケットを渡してきたりするんだ。
また時には
「ねぇ、ママ?明日は“焚き火”をするんだけど。プログラムはこんな感じだから朝から集合してくれるかな?」
などと言って、プログラムが書かれたチラシを渡してくる。
まぁ、そうしてチラシを受け取る時の私は有無も言わさず参加なのだが。そんな風に毎度、彼の「思いつきイベント」に誘われるたび私は驚きつつ、こどもの自由さに憧れるんだ。だから決まって「ナイスアイディアだね。とても楽しみにしているよ。」とだけ返事をする。
すると彼はニンマリと満足そうな表情を浮かべ、少し誇らしげな顔をして準備に戻る。より一層、綿密な計画を立てにいく時の彼の様子は「目を輝かせる」という言葉がぴったりなんだ。真剣で、無我夢中で、集中している。
自信に満ち溢れている。
もちろん「ライブ」も「焚き火」も大人の真似っこであり、ただの工作だ。ラップの芯をつなげてマイクスタンドを作ったり、ダンボールで看板を作ったり。はたまた割り箸に色を塗ってみたり、無論ただのお遊びである。でも彼はいつだって真剣なのだ。
そういう様子を見ていると私はいつも思う。「遊び」という側から見たら「意味のないこと」ほど、楽しさが詰まっているんだと。「誰かが」とか「どう見られるか」とかじゃなくて「ただただ自分が楽しい」という真剣さ。それは、大人が失ってしまったものの正体だと。
だから私はいつも彼に勇気をもらい、
「意味のないこと」を楽しもうとするんだ。
「意味のない時間」ほど生きる活力だと信じて
このエッセイを毎晩楽しみに書き綴る。同じように彼のライブや焚き火、「思いつきイベント」にも全力で乗るのだ。目の前の幸せを満喫する。
そうして日々感じる。考える。明日はどんな「意味のないこと」を楽しもうかなんてね。
皆んながそうやって無邪気さの価値を知り、楽しさを取り戻して生きられたら、この世界はどんなにラクなのだろうね。
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