「かわいい」という実感が湧くとき
かわいいとされる「『もの』を見て」
「かわいい!」と湧き上がる気持ちが
自分の中から出てこない
敢えて気持ちを抑え込もうと意識したことがないので、かなり昔から、どころか、おそらく物心ついた頃から既にこういう感覚があったのだと思う。あまりにも当たり前過ぎてちっとも自覚していなかったこと…だった。今までは。
3年半前にSNSをはじめて以来、いろんな人が、いろんないわゆる「かわいい」ものを投稿する。それに対していろんな人が「かわいい!」というふうにコメントを入れる。その流れを目にするたびに自分の中に生じる違和感。どれだけ多く目にしても、いくらじっと見てみても、馴染めない空気。
この違和感はなんだ?
この違和感を拭えないのはなぜだ?
なぜおれはみんながかわいいと言うように言い表せないんだ?
なぜおれはその流れに自然に馴染めなくて楽しめないんだ?
心の中に苛立ちにも似た引っ掛かりをずっと感じたままひとの投稿を見続けてきて、そんな違和感が周囲との摩擦として露わになってきた。
その引っ掛かりの正体が冒頭のような感覚であることに、ふと気がついた。
かわいい花
かわいいペット
かわいい服
かわいい小物
かわいいスイーツ
かわいく盛り付けたごはん
かわいいぬいぐるみ
かわいいゆるキャラ
かわいい顔立ち...
SNSでよく投稿される、これらが写っている画像。ほんとうにたくさん、タイムラインに流れていた。それらはおしなべて多くの反応を獲得している。コメント欄にもどんどん蓄積されていく「かわいい!」という称賛や感嘆の言葉、感情のほとばしり…。
みんなが「かわいい!」と盛り上がっていても、その盛り上がりの輪の中には入り込めない。どこか一歩も二歩も引いて眺めているような感覚。
そうは言っても、おれだってたまにはこのような写真を撮って投稿することはある。多くの反応をほしいという気持ちも少なからずあって…。
この写真に映ったもの、光景。
およそみんなが「かわいい」と反応するであろう「もの」だと思うが、それらの「もの」に対して「かわいい」と感知したことが引き金になって、感情が湧き上がった結果として「かわいいですね!」という言葉が自然に出ることがまずないのだ。
かわいい姿形ってそういうものだよな、確かに。
確かにそれはかわいいとされるカタチをしている「もの」だよね、という思考を経由して、理屈として認知する。その上で「かわいいカタチ」をしている「もの」だという事実を説明する手段として「かわいい」という言葉がようやく出てくる。
かわいいとされる「もの」に対して、理屈でしか「かわいい」と思ってない。そんなふうに引いて見ているということに気がついたのだ。
いつしか、目を背けがちになってしまう思いがたびたび湧き上がってくる。
おれは「かわいい」という感覚に共感できない奴なのか?
たいていの人には備わっているらしい「かわいい」と感じ取る感受性が欠如しているのか?
孤立感が募る。
自分はおかしい人間なのか?
冷たい人間なのか?
欠落感が生じて気が滅入ってくる。
どうしてこういう気持ちになってしまうのか。
ある親友は「あなたならではの不思議な感覚」と言ったものの、自分のめんどくさい話に付き合ってくれて、そんなめんどくさい感覚があるというところにフォーカスしてくれた。
対話をしているうちに、ずっともやもやとして見えなかったものが突如見えた。自分の心の中に「かわいい!」という感情が湧き上がってくるとき。
それがハッキリとわかった。
「かわいいもの」あるいは「かわいい姿形を映し出したもの」それ自体よりも、そのように見た表現者の「感性がかわいい」と感じるのだ。
かわいい「もの」を映し出した写真などの表現物から醸し出されて見えてくる、表現者の感性・発想・発見・驚き。それが見えてきたときこそ「かわいい」。
さらにこういうこともある。
ひととの対話やふれあいから生じる感情の揺れ、表情やしぐさの移ろい。それらの連続的な流れに対して「かわいい!」と感情が湧き上がって、言葉として出てくる。
例えば。
誰かと一緒にあるひとつの食べものを分け合って食べているとき。相手がそれらをどんどん食べていって全部なくなってしまいそうになる雰囲気を感じて焦って…
「あーっ!だめーっ!こっからこんだけわたしのっ!」
「あげるって言ったやん!」
「だってどんどん食べちゃうんだもん!」
…なんて感じで、残りの分け前を主張するときなんかのその口調、表情、しぐさ。そこに現れる気持ち。そんな人間くささこそが「かわいい!」という感情の昂ぶりとして湧き上がって実感されてくると言える。
生身の人の息遣いに対して湧き上がる気持ち。ちょっとしたテレとか戸惑いとか、そういった、ひとの何気ない素の一面。それに対して「かわいさ」を感じたときにこそ「かわいい」という言葉が感情を伴って出てくるんだ。
「かわいい」という言葉の定義は、おれにとってはそのくらい狭い範囲に限定されてしまっている。そういうときにだけ思わず発する言葉として捉えている。
やっと気がついた。
おれの感受性が鈍いんだってことではなかった。
「かわいい」という感覚を認知する神経が、感受性が欠如してしまっているわけではなかったんだって。
気持ちがすっと軽くなった。
これからは、自分以外のひとの「かわいい」感覚に対して、もう少し寛容になっていけるかもしれない。もうちょっと「かわいい」を感じ取る自分の受容体が広がるかもしれない。
きっと、それも悪くない。