「親のせいで」から「親のおかげで」に反転するまでの物語
親のせいで!
こんな見た目、
こんな性格、
こんな自分、
こんな人生、
と思ってきた。
親のせいで!
我慢ばっかりさせられて、
やりたいこともわからなくなって、、、
と思ってきた。
が、、
そう、思わされるように、
プログラムされていた。
してやられた。
反抗期、
抵抗することで、
自我が鍛えられていた。
自分の一生も折り返し地点、
残りの人生の方が短いのかな、
と思うころ、
次の若者が自分と同じ思いをして、
あがいて苦しむのを聞くころ、
あれ?
親のせい、ではなくて、
親のおかげだったな、
と体験していく。
しつこい駄々っ子も、いつのまにか、
すこしは大人になったのか。
チキショー、
乗せられていた。
思惑通りに行くもんか、
と抵抗してきたことも、
全てシナリオ通りだったってことか。。
この不思議な反転体験は、
何かのせいにして、
悩み苦しむことからの解放。
誰かのせいにしてた世界から、
まるっきり反転した世界へ、
リバースモードの始まり。
オセロのコマを一つ置いた途端に、
パタパタと全部白に裏返るように、
うらんでいた過去も世界も、
平和な過去と世界に反転してしまう。
いろんな出来事がやってくるけれど、
一度リバースモードを体験してしまうと、
不満や愚痴を感じさせてもらえることに、
どこか尊ささえ感じてしまうから困ったもんだ。
不満や愚痴が言える時というのは、
自分という主体を免除してくれている誰かが存在するということ。
不平不満を言わせてもらえる立ち位置が確保されてること、
ゆるされ守られている安全地帯に居させてもらってること。
その感情を描ける絵の具とキャンバスを用意してくれた、
誰かがいるということなのだ。
昨日は立春、
診察室のべてる日めくりには、
こうあった。
若い患者さんが、これ、写メ撮っていいですか、
絶望するって、もうだめだと思うことだと思ってたけど、
これ、なんかいい。と言っていた。
人生のリバースモード突入、この感覚は、
親に感謝しよう!と思っているうちは絶対にたどり着けず、
不満と絶望を存分に味わいきった後に、
順調にやってくる感覚ではなかろうか。
起こそうと思って起こせるものではなくて、
親がいなくなって初めて反転するかもしれないし、
自分が親になって起こるかもしれないし、
自分がこの世を去る間際なのかもしれない。
その人それぞれの人生の文脈の中で、
発生する時が来るものなのだろう。
もしかしたら、今世は目一杯反抗期に使って、
来世へ持ち越し、ということもあるのかも知れない。
親子問題に限った話ではなく、
大きな挫折や逆境などの体験で、
人生の早目に履修したような人は、
若くしてリバースモードに
突入開始しているように感じる。
診察室で出会う人は、
そんな境遇をひと足さきに、
先取りしている人生の先輩ではないかと、
密かに思ってる。
お金がないせいで、、
こんな病気のせいで、、
うつのせいで、、
許せんアイツのせいで、、
あんな目にさえ合わなければ、、
こんな社会のせいで、、、
そう、その気持ちを
思いっきりキャンバスにぶつけよう。
なかなか信じがたいことだけど、
その憤りと絶望、
実はそのままそれで順調で、
トンネルをくぐり抜ける、
唯一の抜け道になっているのではないかと感じる。
そのトンネルは暗く細く、先が見えないけれど、
その先にあるのは、平和しかなかった、の反転世界。
陰極まって陽となる瞬間。
診察室では、回復期にある人から、
時々そのような体験を聞いて感動します。
全ては必然だった、感謝しかない、と。
それは、もちろんすごく嬉しいです。
でも、この絶望から抜けられない、その渦中、
言いたくもない不満と愚痴に取り憑かれてしまって、
周りや自分を責めることしかできない気持ちを話してくれる人、
その体験、そのままを、
応援したいと思います。
そのままでうまくいっていたと、
照れ笑いしている未来の自分が、
今日の自分を懐かしんでいるかもしれませんからね。
一陽来復、
立春に思う。
では、また!
うちの玄関、
今年も節分に、御札をつけてみた。
今年は南南東。