クリスマスに、全ての人を尊いとしたイエス様を思う
自分のことを、尊いと心から思えますか。できない自分、ダメな自分を見てもなお、そんな自分を抱きしめて、応援してあげることができますか。私は今回、この記事を書く前に、この部分で格闘しました。
キリスト教がなぜ、クリスマスをお祝いするかといえば、イエス様が人としてこの地上にお生まれになったことを記念してなのです。では、なぜイエス様がお生まれになったことがそんなに嬉しいことなのかといえば、イエス様は私たちひとりひとりが、貧しくても、能力がなくても、美しくなくても、体力がなくても、病気でも、障害があっても、どんな人でも、「尊い」と認めてくださるためにこの世に来られたからです。
旧約聖書の時代、イスラエルの人々は、罪を犯し、神様から離れては、呪いをその身に招いていました。神様がこれを守れば幸せになれますよ、とくださった十戒すら守れず、それはそれはダメっぷりを見せつける物語がつづられています。神様のルールに従いなさい、と教えられたのが旧約でした。そして、人間はそれを守ることができないと証明したのが旧約聖書でした。
神様は、ダメだこりゃ、ということで、OK、ルールを守れなくてもあなた方は尊い、私はあなたを愛している。その証明としてひとり子を贈ろう、とお生まれになったのがイエス様です。私は正直なところ、イエス様を信じずに、クライアントさんに「どんなあなたでも尊い」なんて言えません。目の前にいるこの人が、神様の手抜きなきデザインだ、と思わずに、尊いとは思えませんね。
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