「春の煙」


「あっつい...」
最近、ようやく慣れたこの通勤路。目まぐるしいほどのビルが立ち並び、その間をすり抜け一直線に刺してくる日差しを浴びる。無意識にネクタイを緩めながら僕はつい、そうぼやいてしまった。
そうか。もう春が終わるんだ。
そんな事を脳裏に一瞬だけよぎらして、他の物に目を移す僕。都会では、路中でタバコを吸っている人は見かけない。規制が厳しくなったこの世の中では、喫煙所たるものが都会には設けられている。毎日通るはずの通勤路だというのに、規制されたプレハブ小屋の横を通過するときは、必ず目を奪われる。
何かを思い出すわけではない。と自分に言い聞かせてしまっている時点で、僕は心の囚われから身を抜け出せていないんだろう。
これは、決してタバコを我慢しているからではない。むしろ嫌いだ。禁煙家の眼差しでそのプレハブ小屋を眺めるのとはワケが違う。どちらかというと、僕は感謝している。この世の、規制にだ。
そのプレハブ小屋に足を踏み入れない限りは、あの煙の匂いを感じる事はないのだから。
「ちょっと一口、吸ってみる?」
あの言葉も、思い出さずにいられるからーー



大学の3回生になった僕は、2年間なにも成し遂げなかった自分を変えようと、興味すら持った事もないサークルというものに入会した。とはいえおちゃらけたサークルには相も変わらず興味がなく、自分を変えるが大前提なので、「ゼミナールサークル」を選んだ。簡単に説明すれば、3回生なら次期に始まるであろう、通称「ゼミ」と呼ばれる少人数講義を、下級生のうちに体験しておこう、というものだ。どう考えても3回で入るには遅いサークルだが、当時の僕は一心不乱に行動を起こそうとしていたので、とにかく身になりそうなサークルを選んだ。下級生から自分たちで模擬ゼミナールを行っている人たちなんて、当然意識が高く真面目なんだろうし。その空気に僕は身を投じてみたかった。
入会とほぼ同時に開かれた新入生歓迎会。場所は、大学から数歩歩いたところにある居酒屋。新入生に紛れて、初めて参加した僕はーー絶望した。
なんだ。この人たちは。
忙しそうに働いている店員さんの足をわざわざ止めては、ハンディのスピードが追いつかないくらいのお酒の注文する。お酒が運ばれてきたと思えば、聴けば聴くほど知能が落ちてしまうようなコールを叫び、瞬く間にまた店員さんの足を止める。
そらそうだ。なんだ、ゼミナールサークルって。そんなもの3回になってからぶっつけ本番でやったらいいじゃないか。名だけのサークルが大学内に蔓延っている事を、僕は3回になってようやく気づいた。
この人たちはまったくそのつもりはないのだろうが、騙された苛立ちと、何より、こんな事にも気付けない自分に吐き気がさし、コールに夢中な彼らの目を奪って僕は店外に飛び出した。
「何してるんだ、おれ。」
自分を変えようと行動した挙句、この仕打ち。今まで積んできていない経験値が、行動によって明るみに出る。外の空気を吸っても、気分なんて一向に良くなる気がしない。
曇り気味の夜空を眺めながら、涙目になっていたその時、
「ちょっと一口、吸ってみる?」
ぼーっとしていた僕の頬をビンタするかのような美しい声。こぼれかける目からの水分は一気に引き、声のする方へ顔を向けた。
なるほど。これが一目惚れか。
もちろんそんな冷静な見解を披露する事はなく、僕は言葉を失った。
「君、吸った事ないんでしょ。」
「い、いやぁ、、」
「匂いでわかるわよ。なんで外に出たの?」
「へ、、?いや…ちょっと外の空気を吸いたくて、、」
「あの空気が耐えられないんでしょ?」
なぜなんだ。なんで全てお見通しなんだよ。そこまで当てられると、そら気の利いた返しなんてできないじゃないか。
「気にしないで。私もそう。」
「あ…そ、そうなんですか…」
「君見かけないね。新入生?」
「いや、、、実は3回で、、」
「え!3回なの?!一緒じゃん!!」
恥ずかしい。3回にもなって初新歓なんて、口が裂けても言えない。そんな事とは裏腹に、ここまで容姿が整っており、サラッとした長髪、どうしても目が奪われる魅惑な体型。完全に歳上だと思っていたその魅力とのギャップに僕は混乱していた。頼むから同い年なんて言わないでくれ。
「とは言っても、私一浪挟んでるから歳は一個、上なんだけどね。」
なんだこの安心感。謎の安堵を感じて油断している僕に彼女は間髪入れず衝撃を打ち込む。
「このまま、2人で抜け出しちゃう?」
「、、、は?」
「私と飲んだ方が、楽しいかもよ?」
「、、、、」
こんなにもはっきりと固唾を飲んだのは、人生で先にも後にもないだろう。
「なーに黙ってんの。ほらだから、一口吸いなよ」
そう言って彼女は左手を差し出す。人差し指と中指の間には、うっすら紅色が滲んだタバコ。
ワケがわからない僕は、そのまま言葉を一文字も発さず、少し震えた右手でタバコを受け取り、紅色に口を合わせた。
なんだこれ…マッズいな。
今思えば、咳き込まなかっただけマシだろう。というか、咳き込めるワケがなかった。味覚まではまだしも、その時は喉にまで感覚なんて与えてる場合じゃなかった。そしてこの味を僕は、一生忘れずにはいられなくなることをまだ知る由もなかった。いや、少しはそうなるかもと既に思っていたかもしれない。
「どう?少しは気分、マシにならない?」
「…最悪の気分です」
「あっはは。なんでよー、こんなにおいしいのにー」
初めてだ。この類の喫煙者のマウントで、全く苛立ちを感じなかったのは。
「…もう、戻らなくてもいいですかね?」
「…いいんじゃない?私も戻らないし。」
「……じゃあ…行きます、?」
「勇気振り絞った感じ、出過ぎだよw奥手だなぁ」
そう言って彼女は僕の背後にまわり、背中をぐっと押した。店の入り口とは逆方向に。
「どこ行こっか。この辺田舎だし、大学とあの店以外、ほんと殺風景だからなぁ」
「……僕んち、ここから近いですけど…」
「あれ!どしたの急に、積極的!」
「違っ、別にそういう意味で言ったわけじゃ…!ほ、ほら、お金もあんま持ってないし…」
先ほどの居酒屋でお金を払わずに飛び出してきた分、財布の中にはハシゴくらい訳ないお金が入っているにも関わらず、僕は最大出力の勇気を振り絞った言葉に恥ずかしくなって情けない嘘を付け足した。
「あんまり歩かせないでね?」
僕の最大出力の勇気をものともしない言い回しで、OKが出た。この時の僕は、OKサインだ!なんて冷静な分析ができる訳もなく、長く歩かせまいと、少し早歩きになっていた気がする。
「ちょっとちょっと、早いって。コンビニ寄って帰らないの?」
「あ、もうあの角に見えるファミリーマートが、1番最寄りのコンビニなので、」
「…近いじゃん。やるじゃん」
そう言って僕の左後方から、彼女は立てた肘でぐいっと押してくる。褒められているような、揶揄われているような。ほぼ揶揄いのちょっかいですら、その時の僕は良い気になってしまう。

「…これくらいにしとかない?」
「いーや、これもこれも、私飲みたい!」
もうすでに、買い物カゴの中には、転がる隙がないくらい缶チューハイが埋め尽くされている。そのカゴにこれでもかとさらに缶を放り込んでいく彼女の無邪気な姿に、僕は敗北してしまう。
満足げに微笑んだ彼女の顔を見て、僕はレジに向かう。僕がレジにカゴを置こうとしたその瞬間、
「あ!!」
そう言って彼女はレジ前の棚に手を伸ばし、手に取った物を振り返って僕に見せる。
「これも買っていい?」
「…僕んちにないとは限らないでしょ?」
「ある訳ないでしょw」
「いやいや、タバコ吸う友達が家にくる時用にとか…」
「そんな友達いないでしょ!君」
「…まぁ」
「ないよね?」
「…ない」
「素直でよろしい!」
もう勘弁してくれ。僕の事を掌で転がし続ける彼女は、その手でレジにそっと灰皿を置いた。


「これ、流石に飲み過ぎかなんぁ」
家に帰ってから小一時間。空になった六本の缶を見つめながら、呂律が回っていない口で彼女はそう言う。
「飲み過ぎだよ」
「あんたまだ二本でしょ」
「この短時間で四本がおかしいんだよw」
楽しい。いつの間にか君呼びだった彼女はあんたと呼び、僕は敬語を使っていなかった。
アルコールで強気になっている自分を俯瞰的に見る。人間はもっと高度な生物だと信じていた自分に顔向けができない。その状態を肯定するかのように彼女へ問いかける。
「LINE、交換しようよ」
「はぁ〜い」
「…これ、QRコードどこ?」
「これだから友達のいないやつはさ!!w」
「んあ、うるさいな!」
LINEの扱いに戸惑っている僕に、彼女は手際よくQRコードを差し出す。
「ここ押して、こうやって…読み取るんだよ」
「んん、ありがとう…西野さん」
彼女のアカウントに記された名前。
「名前今頃って感じだよね!何してんの私らw」
そういった彼女は、僕のアカウントに記された名前を読んで返してくれる訳ではなかった。
「なんであのサークルに入ったの?」
「情けなくて言えないよ。簡単に言うと、自分を変えたかったから」
「何それw何か変わった?」
「…西野さんに会えた」
たかが二本の缶チューハイで気が強くなっている僕は、自分でもびっくりするほどクサい台詞を吐く。
「言ってくれるね。あのサークル、辞めなくてよかった」
クサい台詞をものともしない余裕の言葉を返される。心が揺れない訳がない。僕は動揺を隠しきれず、すごいスピードで新しい缶チューハイに手を伸ばしタブを開ける。
「…西野さんはなんであのサークルに?」
「私も最初は同じ。一回の時にね」
「なんで辞めなかったの?」
「だってお酒、美味しいじゃん。」
「……」
その言葉を聞いて色々想像してしまった僕は、その感情がものすごく顔に出てしまったんだろう。すかさず彼女が、
「はい、バカな想像したね。めっちゃ童貞じゃん。」
「はっ?!違…」
「リアクション、まんま過ぎ!w」
「……もういいよ」
彼女の掌の上に滞在し続けることを決意した僕の肩に、思っていた重さよりも半分くらいに感じる頭をこてんと下ろし、彼女は言った。
「今までそういうのがあったにしろなかったにしろ、今日で最後にするから。」
事実をはぐらかされたその言動が、鮮明に残った最後の記憶になる。理性を失ったと共に、そこからはあまり、覚えていない。

「どう?さっきより、断然美味しいでしょ?」
「…変わらないけどな…」
「とか言って、二口目早いねw」
この辺からかな。記憶が鮮明に残っているのは。
春とはいえど、夜は少し肌寒い。そのはずなのに、ベランダで彼女といるこの時間は、気温などそっちのけの心地良さ。この過ごしやすさは、もう夏が近づいている証拠からなのか、身体を重ねた者同士の間にしか生まれない空気感からなのか。ついさっき初体験を終えた僕には、正解など導き出せない。
行為が終わり、彼女が一言「気持ちよかったよ」と言った。そして二言目には、「一緒にタバコ、吸わない?」だった。僕は衝撃の連続が続いていたものだから、咄嗟に「あ、うん…」とだけ返したのは覚えている。後に感じるあの妙な寂しさを、その時は感じている暇などなかった。部屋の中心を位置取っているローテーブルの上にはビニール袋。彼女はその袋に左手を伸ばし、灰皿を取り出してベランダへ出た。僕ものそのそとついていく。
「はい。一本あげる」
「ありがとう」
この空気感で拒否できる非喫煙者の男など、いるはずがない。僕は火の付け方もわからず、彼女が僕の口元まで火を近づける。「吸って。」と言われ無我夢中に吸うと、タバコが灯った。
「この時間、好きなのよ。1番タバコが美味しいタイミングかも」
「確かに。わかる気がする」
バカな僕は、彼女が言う、何度も経験してきたであろう『この時間』の意味をまったく深く考えておらず、「わかる気がする」なんて呑気な事を空返事した。
『この時間』が心地良いのは間違いなかった。
僕は後に『この時間』を求めて苦しむ自分を想像する事はなく、その時はただただ春の曇り夜空に思い耽け、煙を吹く彼女の横顔に、恋焦がれていたーー


「今日、空いてたりしない?」
と自信なさげな控えめの文章をLINEで送ったのはもう六日前。
あれから、彼女と『この時間』を共有する関係は続いた。僕も、すっかり喫煙者。会っていない時に、擬似的な『この時間』を感じるために吸っていた気もする。
『この時間』を繰り返していく中で、僕は『この時間』以外への興味が抑えきれなくなっていった。その時には薄々感じていたのだが、彼女は『この時間』にしか興味がなさそうで。僕もそれであれば幸せだったのだが、もっと、“他の時間“の彼女も見てみたいーーそう思ってしまった時点で、僕は彼女の掌から下ろされてしまったのだろう。
察したのかな。それっぽい事言ったかな。
『この時間』を共有するためいつも送っているLINEの一言は「今日、空いてる?」とか「今日、空いてるよ」とか。
「今日、空いてたりしない?」
一見、いつものLINEとなんら変わらないのだが、この、相手に譲歩している感じが丸見えな語尾。彼女がそこを見逃す訳がなかった。あの子なら、この語尾に匂わす雰囲気を、察知できてしまう。
現にこの時、僕は告白を決意していた。今日会えたら、言おう。『この時間』以外の彼女がみたいと、心から伝えよう。その決意は虚しくーー煙のように彼女は姿を消した。
簡単に吹っ切れないまま、決意から明日で1週間が経つ。
苦しい。苦しい。
“そんな事をする人には思えない“という感情と、“そんな事をする人だ“という本心がせめぎ合う。

捨てられた?いやいや、あれだけ楽しく愛深く『この時間』を共有したんだぞ。こんな簡単に…
いーや彼女はそれでよかったんだよ。それ“だけ“が心地よかったんだよ。希望なんて…ない。

あの飲み会の後、即日辞めたゼミサークルにも顔を覗かせる。そして当然のように、彼女の姿はない。
大学って広いんだな。そういえばあの飲み会まで、大学で彼女を見かけたことはないし、あの日以降の意識している時でも見かけたことはない。出会うのはいつも、僕の部屋の中だけ。
今頃他の男と……
未読無視が始まったあの日以降、そう考えなかった夜はない。
まだ既読無視の方がマシだ。未読だと、ただただ読んでいない可能性があるし。読みさえすれば、彼女なら気の利いた言葉を返してくれるだろうし。
既読無視なら、そういう希望を持たずにいられる。読んだ上で、ちゃんと無視されているのだと。
トーク画面の吹き出しの横には、まだ「既読」の文字は表示されない。未読無視のまま、ありもしない希望を胸に、月日が過ぎていったーー



ーー「今日も疲れた…」
また、ついぼやいてしまう。社会人とは、こうもストレスが独り言に変換される瞬間が多いのだろうか。1日の労働が過ぎ、帰路に移る。家までの最後の曲がり角には、毎日通い続けているファミリーマート。今日もいつも通りそこで、iQOSのメンソールを一箱買う。
電子タバコは今でも吸っている。一度吸うと辞めれないのは僕も変わらない。元々愛煙家ではない僕は、紙タバコならすぐに辞めれた。辞めれたというよりは、紙タバコはあれ以来表示されない「既読」の文字を追うように家から姿を消した。
タバコは嫌いだ。煙の匂いが僕の思い出を掴んで離さない。こんなにも忘れてしまいたいのに。
家に着いた僕は、すぐさま座椅子に腰を下ろし、電子タバコを起動する。
「ザーーーーー」
「…あっぶね」
先ほどまで歩いていた外の音色が一気に変わった。雨だ。
なぜか僕はベランダの窓に手を掛け、外を覗いた。
「そうか。もう春は終わったんだな。」
夏を知らせる梅雨。それを映し出したベランダに、灰皿はもう、ない。


※この作品は大フィクションです。自分は大学にも行ってなければタバコも脳死で吸ってます。



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