性犯罪は性教育で防げるのか。

性犯罪の一次予防は性教育から、というネットニュースを見て、じっと考えてしまった。今考えていることをここに書いて行こうと思う。

性教育に出来る事は何なのか

RC-NETとしての活動をしながら私(岡田)は、性教育の実践に関わる活動も進めて来た。現在は北東北性教育研修セミナー実行委員会という、北東北三県(青森、秋田、岩手)を拠点とした性教育についての団体でも活動をしている。なので、もちろん性教育の可能性というものを理解しているつもりだし、性教育の必要性は絶対的なものであると思っている。

しかし、性教育は性犯罪を「予防」は出来ない。私はそう思っている。

日本という国は性教育の実践に関して多いに遅れをとることになってしまった。性教育の実践においては諸外国で日本より大いに精力的に、充実したプログラムを実践している国がある。しかし、その国で明確に性犯罪の件数が減ったということについては、一切のエビデンスが無いというのが現状ではないかと思う。他国のデータを見ても、性教育の推進と性被害の発生件数についての比較データはあまり出てくるものではない。あくまでも、各国において性被害の発生件数とされるものには未だ「暗数があり、氷山の一角だ」ということが言われ続けている。

国内でも、「性教育をしっかり受けた世代」と「ほとんど受けていない」世代がいるが、それらの世代間で性加害率が変わると言うことについても聞いたことはない。

また、性教育の本来的な目的を何とするかについても考えなければいけない。性教育の中で性被害や加害についてを伝えるべきだ、ということについて、もちろん性教育において、性的侵害の概念を伝えることは重要なことの一つではあるが、ただでさえ少ない「性教育」の機会を、例えその時間数が多少増えたとしても、性被害の関する“教育”にとるということが重要なことであるとは、私としては、あまり重要なことであると考えていない。あくまでも、現時点では。

性教育とは何か、ということを考える時に、まず思うのは「人間の多様性に関する尊重への学び」だと私は思う。性とは何か。私たちはそれぞれにどのような性(身体の性、性自認、性別役割、性表現、性的指向、性機能)を持ち、それらが如何に多様なものであり、それぞれに尊重されるべきものであるのか。性に関する知識を身につけるということは“性”というものにべったりと張り付けられたスティグマを剥がし続ける作業でもあり、性的に健康であり、よりよい状況で生きる権利、要は「人権」を尊重する社会を構築するためでもある。

性というものが“個人的な事情”というだけではなく、様々な関係性の中で定義づけられることによって、個人的要素が尊重されないということが起きた場合に、私たちの生きる社会は、様々な差別を内包し、「人権」を蔑ろにするようになる。

性的侵害に対し性教育として取組む意義は

「性について語る」というのはジェンダー(社会的な性)について語るばかりではない。私たちは私たちが持つ性器について普通に語れるようになりたい。セックスについて学びたい。性のメカニズムや、生殖について、性自認や性的指向について学びたい。それぞれの、多様性について学びたい。

だが、それらが出来たからと言って、性暴力が無くなる訳ではない。私が思うのは、それぞれを別の事として仕分けることに意味は無いのではないか、ということだ。

もちろん、性教育の役割は性的な侵害を許さないということや、性的な侵害をされないで生きるという当たり前の権利を伝え続けることでもある。「特別な人に起きた特別な出来事」への対策ではなく、全ての人が持つ当たり前の権利としてそれらを語り、伝え続けて行く事は絶対に必要なことなのだ。

しかし、それが性暴力の「一時的予防」と呼ばれることには大きな違和感がある。

性暴力被害者支援の充実≠被害の減少

性教育の実践が進んでいる国において、性教育の実践のみが進んでいる国というのは無い。例えば、暴力の被害者支援のシステムについても明確に進んでいることがほとんどであろうし、それらには、例えばLGBTIQA、男性に関するサポートというものも進んでいると思う。社会制度として、法律や施作も進む。それらは総合的な話である。法律や施作、支援システムの充実は当事者たちが助けをもとめること」を手伝う。これは確かなことだ。声が聞こえて来ない、だからこそ「声をあげよう」ということが言われるが、声が聞こえて来ないのは、あくまでも社会システムの構築が遅れをとっていることの証明であり、これ以上当事者が声をあげることを望むのは、ある意味で横暴な行為だ。

性暴力被害の絶対数は、国によって大きな違いがあるとは思わない。もちろん、紛争地帯などを中心に、各地の治安問題により差異は出る。それは、性暴力というのが支配、抑圧、コントロールの表象として発生することに起因する。「集落を鎮圧させるのに一番効果的なのは集落の女性の膣、子宮を破壊すること」という言葉を聞いたことがあるが、まさにそうして、性暴力というのは様々なベクトルで、支配構造の一環として利用されることがあるからだ。だが、いわゆる紛争状態にはなく、一定程度の生活水準の中において、性暴力被害は地域を問わず、一定の数起こり続けている。

加害者とは、なぜ加害者なのか。

加害行為についての誤解があるという風に思っている。様々な条件はあるだろうが、加害者が加害者たる所以は「加害をする」ということにある。「なんらかのトリガー(きっかけ)によって引き起こされる」ということについては、加害のメカニズムの一つではあるが、例えば“目の前に魅力的な人がいた”としても、その人に「合意無く触れようとする」か、「触れたいと思いながらも我慢する、もしくは触れたいと想い合意をとろうとする」か、それらの間には交わることのない差異がある。自分の行為の結果として自分以外の他者を自分の意志だけによって侵害するということについての自制が聞かないのであれば、それは「トリガーが理由」ではなく、その人の持つ特性の問題であろう。犯罪である、ということすら、「加害をしない」という選択をする理由にならないのだから。

これらは、果たして性教育でどうにかなることであろうか。

そこに手を付けず、日本の社会は「予防教育」に力を入れる。加害をしないように、加害を許さない社会を、ということに力を入れず、「気をつけよう」と、被害にあうかもしれない対象と思い目をつけた一部の人に言い続けているのだ。それが如何に、被害経験者への二次加害言説だと言われても尚。

性暴力の社会的予防とキーポピュレーション

性暴力被害にあった人の8割近くが自らの性被害について「知っていた可能性のある第三者がいた」と言っているということを示すデータがある(RAIIN)。ここでは、社会生活の中で、社会の構成要員全てが性暴力の存在を理解し、被害/加害に対して介入する可能性こそが性暴力を予防する唯一の方法であるという事が言われている。学校教育等で、広く伝える事はもちろん大切なことではあるが、それらは性暴力について明確に、的確に理解した人たちから、優良なプログラム提供のもと、実施される必要があると私は思う。「既存の予防教育の一環」では、絶対的に成すことが出来ないものだ。

性暴力の全体像について、私たちの社会は知らなければならない。

性教育、性の健康等に関連づけて話す時に、これは性暴力の領域の中でも絶対に必要だと思うのは「キーポピュレーション」という概念だ。これは、特にHIV/AIDSの中で、感染を左右する人口層として位置づけられるもので、◆男性とセックスをする男性 ◆服役者 ◆薬物依存症者 ◆セックスワーカー ◆トランスジェンダー の、5人口層がキーポピュレーションとしてあげられているが、これらは、HIV/AIDSの発生について、予防啓発をしていく中で、これらの人口層について、より明確に対策を講じるためにある。それぞれのコミュニティの中で、何が問題となっており、どのような改善が可能か、そのコミュニティにいる人たちにとっての健康を阻害する要因を明確にすることによって、例えばそこにあるスティグマや差別/偏見自体について、対策をしていくことが求められるわけだが、私はこの概念は様々な社会問題に必要なものだと思っている。

性暴力被害におけるキーポピュレーションは何か。キーなどいない、誰もが性暴力被害にあうリスクを持つ、ということはもちろんのことだが、誰もが被害にあう中でも、それぞれの人口層の中でよりハイリスクな要因を明確にして、それらに別々の対策を講じる事は必要不可欠だと思っている。

一般化することは、例外を生み出すこと

「一般化することは、例外を生み出すこと」であると思う。様々な人権問題がそうであるように、分かりやすさを求め、社会への承認を求めるために私たちは社会に迎合するための言語を使うようになる。一般化することで、社会の理解を得ようとする。しかし、そこで例外を生み出してしまうことによって、何割かを排除してしまう。

差別の構造を考えてみれば分かりやすい話だと思う。“冗談” “悪ふざけ”程度のこと、“一部の人のこと”と物事を放置することは様々な弊害を生む。例え、それらが0.1%、0.01%の人たちのことだとしても、それらを許容することで事柄は悪化することがある。冗談→悪ふざけ→いじめ→傷害→殺人→ジェノサイド、差別の構造は、スロープを下るように、時として「最悪の事態」を発生させる。

性暴力被害に関して必要な事を一般化することはもう終わりにしなければいけない。

性暴力被害を許容しているのは社会制度であると私は思っている。

法律は未だに陰茎のみを客体とした法体系を変えようとしていない。強制性交等罪という名称によって、性と言うツールを用いた暴力行為を「性交」に紐漬けることによって被害に関するスティグマを保持している。暴行脅迫要件によって被害者の落ち度を探す事をやめず、被害にあった人の性生活にまで土足で踏み込み、それを再度、「落ち度」と認定しようとする。

男性サバイバーやLGBTIQAサバイバーに対する差別に基づく不当な取り扱いは現在も続き、「男が被害にあうなんてありえない」LGBTIQAの被害について話せば「やっぱり同性愛者って怖い」とかいう“異性愛者による被害が圧倒的多数である事実”を無視した発言が散見される。

暴力をジェンダーの話にばかり紐づけて本質を見ようとしない。

「誰が性暴力についての性教育をやるのか」そんなことも考えず、現状理解や要因解析もしようとせずに、対策は打てないという風に思っている。

性暴力は、社会的容認の結果起きるものだと私は考えている。

性暴力を防ぐ責任は、この社会に生きる全ての人にあり、そして、それらの意識を変えて行くためにはこの社会システムの変革が必要なのだ。

※記事は無料公開をしていますが、購入していただけると、RC-NETの活動への支援になります。ぜひよろしくお願いします。

ここから先は

0字

¥ 500

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?