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誰のために詠むのか

朝の連ドラ「舞いあがれ!」が大団円で完結しました。○○ロスがあるのかどうか、わかりませんが、色々と話題を振りまいたドラマでした。

RCが気になっていたのは、準主役の男性が、歌人として、家族や編集者、そして元古書店主との関わりの中で、苦しんだり救われたりする人間模様でした。

この話の大事な展開のときには、歌人の俵万智さんがtwitterでコメントなさったりして、話題になりました。

第三歌集からが難しい、というのは俵さんのおそらくご自身の体験をふまえてのコメントでしたが、ではその難しさを乗り越えてなぜ3冊目を出さねばならないのか、そこが知りたい気もしました。

「誰のために詠むのか」

そう問われれば、多くの方は、「自分のため」と答えるでしょうか。あるいは短歌や俳句を教えてくれた親族のため、師の志を引き継ぐためという場合もあるでしょう。

あるいは「~のため」という問いには答えず、「ただ好きだから」「詠まずにいられないから」などという方もいるでしょう。

中には、「短歌(俳句)の革新のため」「言語表現を極める」など、文学的な志をもっている方もいらっしゃると思います。

RCなら? 「季語の世界にハマっているから」というところでしょうか。「誰のために」の問いに答えることは、やっぱり難しいですね。

ドラマの彼は、密かに想う幼馴染に短歌を贈りました。彼にとって、短歌は人とのつながりであり、必ずそこには他者が存在しました。それは彼にとってすなわち生きることだったのでしょう。

比較して興味深いのが、古書店に彼を訪ねてきたファンの女性です。彼女は孤独な自分のために短歌を詠み続けていました。彼女にとって短歌は自分に向き合うことであり、それはまたすなわち生きることだったと言えます。

彼は想いを寄せる誰かのために詠み続けました。その想いは目の前の対象物にも向けられ、温かみのある作風を生み出していました。

しかし、人生の転機により、一番大きな想いを、自らの行動で届ける立場になりました。望んだこととはいえ、短歌を作ることの一番大きな動機のひとつが失われたのです。

詠めなくなった彼は苦しみます。家族さえあればいい、短歌をやめる、とまで思い詰めます。

そんな彼に、しきりに作ることを催促してきた編集者の姿は、一見強引で商業的な思惑で行動しているように見えました。

でも実は、彼の生きる姿と短歌を理解し、これからの彼にとって短歌を作ることは、自らを生きることであり、それが彼にとって一番いいことであることを、編集者は知っていたのかもしれません。

「自分ために詠め」そして「生きろ」と。

3冊目とは、生きるために彼が当然登るべき階段の一つ、と編集者は信じていたのでしょう。

さて、RCにとってはどうでしょうか。1冊目の句集をようやく出したばかりですから、2冊目ですら現実味がありません。

ただ、生きてるし、吟行と句会が好きだし、句友との関わりが楽しいし、先生には感謝してもし切れないし、そんな感じで句が貯まってきたら句集も出したいし。

そんな感じですから、作句に苦しむなんてことも経験していないのです。修業が足りん、というわけですね。

長くなりました。明日も素敵な季語との出会いがありますように。

RC


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