映画『ブルーピリオド』から日常と記憶を考える
エクストリーム多忙期を乗り切り、5月以来行けていなかったらしい映画に行ってきた。
漫画は全巻購入し、アニメも全話視聴している『ブルーピリオド』だ。
主題歌を、去年友達に誘われてライブに行ってから、すっかりファンになったWurtSが担当しているということもあり、いつもより若干楽しみ度合いが高い状態で観に行った。
一言で言うと、とても良い。
様々なキャラクターの様々な葛藤を少しばかり見せながらも、それすら日常の一部に溶け込ませたかのようなテンポで進んでいく、ある種の心地よさがそこにはあった。
キャストも非常によく、違和感は覚えなかった。
ただ、原作と比較すると、密度は圧倒的に足りていなかった。
あの密度を表現するには、1時間55分はあまりにも短すぎる。
でも自分に置き換えて考えてみれば、大人になってから振り返る高校時代は、このくらいの密度ではないだろうか。
イベント間のただの日常パートは、記憶から脱落していく。
イベント事を差し置いて、ただの日常が一番記憶にありますということはありえないだろう。
そう考えれば、重要なイベント以外の部分をスキップしていく構成にしたことも納得できる。
逆に、これほどまでの話をあの時間に収めるというのは、かなりチャレンジングで面白い。
それも含めて、映画『ブルーピリオド』とても良い。
原作『ブルーピリオド』にはあらゆる名言が登場し、もちろん今回の映画でも扱われている。
ただやはりテンポよく進んでいくために、原作ほど強調されていないようには感じた。
八虎が美術に目覚め、藝大を目指していくきっかけに、美術室での佐伯先生との対話のシーンがある。
周囲の大人たちとは違う、無自覚に大人化された八虎の思考を解きほぐす先生の言葉は、高校時代なぞとうの昔に過ぎ去った我々にも等しく響く名言だ。
そんな言葉もあまり強調せずに表現され、名言部分以外と同列に発されているように感じた。
その分インパクトに欠け、物語の起伏が乏しくなったように思えるが、名言でさえ日常の1コマにすぎないと考えてみれば納得できる。
そもそもの話、自分の心に響く言葉は大抵日常の1コマで生まれている。
凄い場面で、凄い言葉を貰い、凄い心に響いた、なんて経験がある人の方が少ないだろう。
あの時の何気ない一言に救われたという話もよく聞く。
とすると、漫画やアニメじゃない実写で作られた本作品において、強調しないという選択は、ひとつの正解なのではないだろうか。
作品としての物足りなさは生じてしまうものの、実写という特徴を最大限活かす手段としては悪くない。
逆にそこに対する違和感は、原作を知ってしまっているが故の問題なのであって、実写作品の責任ではないとも考えることができる。
つまるところ、どう折り合いをつけるかということなのだろう。
実写映画を作るとなった場合に、原作と比較したネガティブな意見は必ず散見される。
原作を見てファンになり、期待して映画を観に来るのだから、仕方のないことだ。
ただ、仮に期待に沿わない形で実写化された場合、それはそれで別作品として楽しめば良い。
原作に近い形で実写化されるに越したことはないが、思っていたのとは違うものが現れた時、パラレルの作品として楽しむ余白を持っておくのも大事だろう。
そのうえで、どうしてもこれは改悪による駄作になっていると感じるのであれば、それは正当な批判だ。
その時は遠慮せずに自信をもって批判してほしい。
最後はなんだか説教臭くなってしまったが、そういう性分の奴としてテキトーに流してほしい。
なにはともあれ、久々に映画に行けてとても嬉しかった。
あの計算された閉鎖空間が大好きであることを再確認できた。
次は何の映画を観に行こうかしら。
今からワクワクが止まらない。