もういちどきみと。[1]

永谷啓介、28歳。男性で独身、都内の大手商社に勤め、同世代に比べて割といい給料をもらって、あてどもなく貯金して。女には面白みのない男だと言われる自覚はある。彼女達の作り笑いや、煌びやかな様子に些かきつい香水が苦手で、俺はあまりそういう席も好きではなかった。
同期は会社の大きな看板を凝縮したようなピンバッチを誇らしげに胸に煌めかせ、夜な夜な肝臓の耐久度を試しに出かけていく。俺はそんな彼らを横目に見ながらのんびりと家路につく。のんびりといえど23時、明日まであと1時間。家に着く頃にはきっと日付が変わっているだろう。そうして変わりばえのない明日が、どんよりとした胴体を横たえて待っているのだ。

特に住む所にはこだわっていなかったが、何よりこの連日の長時間勤務のせいで駅から近いことだけが救いだ。タラタラと徒歩3分足らずの道のりを歩いて、高層マンション……の横の細い脇道を通って裏手に出る。目の前で高層マンションが立ってしまったせいで、すっかり日のあたりが悪くなった寂れた小さなマンションが、今にも消えそうな街灯の下に浮かび上がる。
この辺りも都市再開発でだいぶ変わってしまったものだ。小さなため息をつきながら、肋骨のような鉄筋の階段をカンカンと音を立てて登っていく。だから言ったろう、住む場所にはこだわっていないと。

安っぽいオレンジの光の下で、誰かが俺の部屋のドアに凭れかかって座っている。安っぽいが耐久性がありそうなワイシャツにチェックのズボン、全く心当たりのない相手。
「すいません、ここ、うちなんですけど……」
酔っ払いが寝ていることはしばしば起こることなので、めんどくさいと内心思いながらその人影に声を掛ける。

ゆったりと、まるでスローモーションのようにその男が顔を上げる。長い睫毛、カラメリゼのような虹彩、彫りの深い顔、薄い唇が白くて小さな白い歯を縁取りながらゆっくりと口角をあげる。

どことなく、あいつに似ている。喉がぎゅっと締め付けられるのを感じる。苦しい。

「ながたに」

予想より少し低い声が俺の名前を呼んだ。永谷、と。

息ができない、膝の力が抜けてその少年の横に膝をついて縋り付いてしまう。

「永谷、お前だな。永谷」

肩から首にかけてのラインに沿って指を滑らせ、顎が引き上げられる。

「永谷」

「綾瀬、綾瀬なのか?」

掠れた声が辛うじて声帯を震わせた。薄い唇が綺麗な弧を描く。そっくりだ、口元の黒子まで。

「久しぶりだな」

** どうして、なぜ、どうやって。疑問は山のように積み重なるのに、舌が張り付いたように声が出ない。ただ、記憶より成長した白い指にそっと触れ、人差し指で手首がたしかに脈打っていることを確かめていた。たしかに指先から伝わる、俺と同じ生きている音が。**

「待たせたね。ようやく俺も全部思い出した」

その指先に頬を拭われるまで始めて自分が泣いていることに気付いた。わけがわからない、死んだはずのものが生き返ったのか?時間が止まっていて?呆然と立ち尽くす俺を見上げて、首を傾げて問いかける。

「なか、入れてくれるか」

「うん、うん」

立ち上がって鍵を差し込むと、軋んだ音を立ててドアが開く。後ろにちょこんと立っている気配がまだ受け入れられずに、もう一度振り返るとびっくりすほど自然な様子で綾瀬が微笑んだ。まるで10年前のあの日のように。

「すごいな、いくつあるんだ。永谷」

俺の顔を見上げながら部屋に足を踏み入れる。雑多な玄関にローファーが追加されて、脱ぎ捨てたそれを、かかとを揃えて玄関に並べる。

「とりあえずそこに座って、ごめん、散らかってるんだけど、あの」

「なーんにも変わってない。あの時のまま。お前のその性格も、この家も、ぜんぶ。変わったのは俺たちの器だけ」

冷蔵庫に詰め込んでいたお茶をコップに注いで机に置くと、所在が無くてウロウロと台所に戻ろうとすると、スラックスの裾が引っ張られる。

「座って」

** まるで家主がどちらか分からないような発言に素直に従って、綾瀬の正面に座るとそっと目を合わせる。そっくりだ、あまりにも似ている。カップの縁をくるくると指で撫でて、唇を触る。**

「あの、本当に綾瀬なの?」

「うん、綾瀬拓巳、1月12日生まれ。永谷啓介と同じ小中に通ってた。部活はバスケット、ポジションはPG、得意な科目は数学で苦手なのは国語。そうだな……手っ取り早く信じてもらうなら、お前と冬休みの最後の日、俺の部屋でキスした。お前には逃げられたけど、本当に嬉しかった。これで俺のこと、本物だって信じてくれるか」

ごくりと俺が唾を飲み込む音だけが、やけに大きく部屋に響いた気がする。本物だけが知るその秘密。でも。

「でも、綾瀬は……あの日、」

「死んだ。綾瀬拓巳は一度死んだ」

綾瀬にそっくりな顔で、自らの死を宣言する。

「殺されたんだ、父を恨んだ男に。だけど生まれ変わった。少し時間がかかってしまったけど、もう一度お前に会いにきた。お前が俺のことを忘れていたり、拒絶するならそれでいいと思ったが、お前は」

ボロボロ泣いていた。あの日の後悔が押し寄せ、例えこれが夢だとしても神様が与えてくれた懺悔の機会に縋り付く。皮肉なものだ、10年前に神の存在をすっかり恨んで否定して、呪いすらしたのに。

** 無神論者に生まれ変わりを説かれても、はいそうですかと受け入れられるわけでもない。もしかしたら綾瀬の残した日記でも読んだのかもしれないし、綾瀬から話を聞いてたのかもしれない。反応が鈍化した俺を見かねて暖かい手のひらが俺の手の上に重なる。色の白い、綺麗な爪の手だ。親指だけがギザギザと歯型がついており、綾瀬の癖が脳裏に浮かぶ。再度嗚咽に言葉を殺されて、言いたいことが全くでてこない。ぐるぐると巡る思考でひとつだけ気がかりなことがある。

「お、おれを……恨んでたり、し、してないのか」

あの日、眩暈のするほど強烈な衝動に突き動かされて綾瀬の唇を奪った。自分でもびっくりする程、彼が誰にも取られたくなくて。唖然とした顔をした後に、わずかに頬を染めて言葉を欲する彼を置き去りに、俺は逃げるように家を出た。そして、その日。彼に向き合うことを怠った罰は、彼のことを一生刻み付けられて生きていくことだった。一言、好きだといえたら。その後悔が冷気のように足元にまとわりついて離れなかった。

「恨むはず、ないだろう。勇気が出なかっだ自分を恨むならとにかく」

「す、好きだって言えたらどんなに、って、 この10年、ずっと……ずっと考えていた、本当に、本当に綾瀬なのか、」

「今はもう綾瀬拓巳じゃないんだ。波多野潤。市内の進学校に通う16歳になった。全部思い出したのは14歳のあの日。2年間ずっと迷っていたんだ」

家を変えてなくて助かったと笑われた。

「今回の人生はな、全く前回とちがう。家がジリ貧で俺は奨学金で高校に進学した。両親は俺に興味がなくて家にいようがいまいが気にしないんだ。面白いだろ」

で、だ。と相変わらずこの世を斜に構えて見据えた口ぶりで彼は続ける。

「帰りたくないんだ、父はケダモノのような男だ。お前にはお前の世界があるだろうと思っていたけど、どうしても耐えられなくて」

父親運が無いらしいと肩をすくめて遣る瀬無さそうに笑う彼に対して大きく頷いて申し出を快諾する。

「一応、綾瀬……波多野?の親にも連絡を入れておこう。受験勉強を見るとでも言おうか」

「お前にそう呼ばれるとなんだか変な感じ……だし、きちんとオトナをしているんだな。今生の両親は俺がいなくても気にしなそうだけど」

「失礼な。まあ、念のため入れておこう」

「永谷」

「ん?」

ありがとう、と言って綾瀬は、いや波多野は微笑んだ。お前を取り戻すためだったら、炎の中ですら飛び込める。俺たちの奇妙な共同生活は静かにこの夜、始まったのだ。

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