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羊を触りに牧場へ【エッセイ/写真付き】

「羊ってもこもこやと思うやろ。違うで。ごわごわなんやで」
 社会人二年目の初夏、ある連休前の夜のこと。
 フフンと得意げに妹から話しかけられ、私は思わず考え込んでしまった。羊……、羊か。一時期凝ってた羊毛フェルトならその感触に馴染みはあるけれど、そういえば生きている羊に触ったことって、今まで一度もなかった気がする。屋外でずっと歩き回ってればそりゃ身綺麗ではいられないだろうし、ごわごわした毛になりそうな気もするけど……、一体どれくらいのごわごわ感なんだろう。
「……それは、触ってみたいな」「触れんで、六甲山牧場で」「あ、そうなん?」
 金曜の夜でテンションが上がっていたこともあり、翌日さっそく一緒に羊を触りに行くことに決まった。

 普段妹と二人だけでどこかに出かけるということはほとんどないのだけれど、久方ぶりのその目的が「羊を触りに行く」だというのは私たち姉妹らしいといえば姉妹らしい気もする。
 まず阪急六甲まで出て、そこから直通バスに揺られ山を上ること約40分、目的地の六甲山牧場に到着。馬や山羊を見やりつつお目当ての羊を探し求め進んでいくと、短い吊り橋が架かっている場所があった。向こう側から、なにか、綿雲みたいなのがてくてく近づいてくる。


 

 ――いた。
 出会い頭の一匹目とすれ違い、橋を渡ると、そこは、羊たちの丘だった。
 青緑の斜面に、見わたすかぎり、羊たちが点在している。みんな、揃いも揃って頭を垂れ、草を食んでいた。(それはまぁ、なかなかの光景だ。目の前にいる、百匹以上かという数の羊が、一匹残らず、同じ体勢で草を食んでいるのである……!)
 朝一番できたからか、土曜日にもかかわらずその丘にいる人間は妹と私だけだった。あとはみんな、食事中の羊、羊、羊……。


 

 近くにいる一匹に近づいて行って、撫でるためにしゃがみこむと、葉脈の千切れるぶち、ぶちっ、という音が地面から絶えず上がっているのが聞こえた。息をすると濃い緑と茶色の油絵具タッチなにおいが、地面の近くでマーブル模様になっているのが分かった。(野暮な説明をすると、濃い緑は草、茶色はうんこを表している。)
 食事の邪魔になるかなぁと思いつつ、毛の表面に手のひらを当てると、薄汚れた見た目通り、確かにごわごわした感触だった。「ごわごわやな」「うん。でもごわごわの中は、もこもこやで」「え?!」
 ぷす、と指を入れると確かに、そこには羊の体温でぬくもった、もこもこの毛があった。「あぁっ!もこもこや!もこもこの羊の毛があるぅ!!」
 外的環境に晒されて黒っぽくなった表面の内側には、ぬくたくてやわらかな、生命活動の気配が滲む領域があった。
 おそらく、低カロリーの草を主食にそれだけの体温を保つためには、一日の内かなりの時間を摂食行動に費やさなくてはいけないのだろう。羊たちは、人間どもの騒ぎになんか取り合ってる暇はないのだという様子で、粛々と草を食み続けていた……


(草の間に、茶色っぽい小粒の物体がたくさん落ちているのがわかるだろうか……? 羊のうんこである。)

 私は開放的な気持ちになって、フォォォとかホワァァとか何かよくわからない野生的な叫びを叫び、一足ごとにうんこを踏み潰しながら丘を駆け上っていった。
 頂上まで一気に上り切って、振り返る。
 両手の親指と人差し指を組み合わせ、長方形の枠を作って覗き込み、〈食べる〉と、内側に収まった油彩画の名前をつぶやいた。死ぬまで私の中に在り続ける一幅だと直感で分かった。

 昼食は、牧場内のレストランで、チーズフォンデュ。食後は妹に誘われソフトクリームを一個ずつ買って食べながら、ベンチに座りぼんやり周りの風景を眺めていた。その頃には、多くの羊は地面に座り込んで体を休めていた。
 こういうところにきたら、まぁソフトクリームが定番だよなぁ、と渦巻の形を舐め均しながら胸の内につぶやいた。(…そして私は今、まぁソフトクリームを、食べているわけなんだよなぁ…)

 こんなにも平静な気持ちで、妹と並んで同じソフトクリームを食べられる日が来るなんて、なんだか不思議な感じだった。
 ……というのも随分長いこと私には、”妹より多く食べてはいけない”という、強迫めいた気持ちを抱いていた時期があったので。妹は子どものころから一貫して痩せ体型で、親戚の集まる場なんかではいつも「ちゃんと食べてるの?」と大人たちからしきりに心配されていた。中には私たちを見比べて「身長はお姉ちゃんに追いついたけど、今でもやっぱりお姉ちゃんのほうがドンと大きく見えるわねぇ」なんてことをいうおばさんもいたりして(これは今思い返してようやく引き笑いができるくらいのもので、当時中学生だった私はグッサリ傷つき、ことばも出なかった)、妹と並ぶたび自分の体型が恥ずかしくて、コンプレックスの塊みたいになってしまうのだった。
 家族そろって夕食を摂るときは、隣に座ってる妹がどのおかずをどれくらい食べているかということに絶えず神経を尖らせていたし、ごはんをよそう役目は進んで買って出て、妹の茶碗には白米を押し込むようにぎゅうぎゅうに盛っていた。(もちろん、少しでも妹を太らせてやろうという算段だ……。)

 ソフトクリームのコーンを齧る音は、気温を増しつつあるカラッとした空気によく似合った。冷たさも甘さも、目の前の羊たちも、ここにあって今自分が感じているもの、すべてがようやくしっくりきていた。
 手元に残った円錐型の紙をぐしゃっと丸め潰し、隣を見ると、妹もソフトクリームを食べ終えていた。
「行こっか」
 きっと、こういうようなものだったのだ。ずっとずっと、私が取り戻したいと願っていた、〈食べる〉という行為は。
 私が私の温度で融かしたものはもはや、私自身にも手出しできない、この体のずっと内側の、滔々とした流れに乗っかって、どんどん、どんどん運ばれていくけれど……、もう大丈夫、もう、このまま任せてもいいんだなと思った。


#エッセイ #摂食障害 #食 #六甲山牧場 #羊


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