ぼくの編集の元、POPEYE創刊の頃。
中が2年の時に「POPEYE」は創刊された。「POPEYE」を見るようになったのはいつも遊んでいた友だちの家にあったからだった。そこに載っていたスケートボードをまずはやり始めた。なんで、ぼくらが中2でこんな最先端の遊びができたか、これは「POPEYE」を見ることができたのにも関係があった。
ぼくの記憶ではその友だち(Aくんとしておきましょう。実際に名字はAだったんだけれど)Aくんの親戚が大学生で「POPEYE」を買っていて、それを持ってきてくれたらしい。その流れでスケートボードももらったと聞いていたが、Aくんと最近会った時にその話をしたら、隣の家のお兄ちゃんだったと言っていた。スケボーをくれるなんて、なんていい隣人だろうか、まさに汝隣人を愛せよ。いずれにしても、その隣人さまのおかげでぼくらは当時はまだ手に入りにくかったスケボーをAくんの前の坂道で載っていたのだ。
そして、運命はすぐに来るのだ。創刊号から見ていたぼくではあったけれど、4号はちょっとばかり違っていた。いや、勝手に違っていると思い込んでいるだけなのかもしれないが。
この号にぼくのファッションへのアプローチの原点がある気がしている。この号には「HISTORY OF WARU」というファッションページがあった。構成はひとりの不良の俳優やミュージシャンに不良らしいスタイリングをする、というものだった。扉は宇崎竜童さんの「ツナギ」だったという記憶。その中で岩城滉一さんがロリポップな女の子とジュークボックスの前で踊っている写真があった。赤いスイングトップにしろいTシャツ、デニムに赤いソックスという姿。写真はブレていた気がする(手元に資料がないので、春の靄の中の記憶から抜き出している)。すごいことに岩城滉一さんのページでありながら、彼の顔さえわからない写真だった(気がした)。ぼくはアメリカへの遠い憧れが芽生えた。そのクレジットには確かこうあった「赤いスイングトップに白いTシャツ(白いヘインズだったかもしれない)、リーバイときたら、ジェームス・ディーンよろしく」。
ジェームス・ディーンなんてろくに映画も見たことがない中2が、これこそが格好良いんだと母親に懇願して、なんとか1万円冊をもらうことができた。そして、新宿に向かう。新宿にはデパートもあったが、三峰、タカキュー、ISEYA(ごめんなさい。表記含めてどれもかなりのうろ覚えです!)といった今でいうセレクトショップがあった。
ちょうどこの頃ビームスも創業したのだけれど、ぼくは原宿なんて足を向けることができるほどおしゃれじゃないと思っていたか、そもそも存在を知らなかった可能性もある。
新宿での三軒を周ったのは赤いスイングトップを「買わなければならない」という想いからだった。中野ブロードウエイにはジュンはあったけれど、もう少し大人な雰囲気だったので、ぼくは新宿ならなんとか探せばあるだろうと踏んでいたのだ。三峰だったか、タカキューにはBARACUTAかもしくは海外ブランドのスイングトップはあったのだけれど、1万円では到底買えないものだった。諦め半分で最後に残ったISEYAに向かった。そこで見つけたのが7千円弱の赤いスイングトップ! 裏地も何もないようなスイングトップだったけれど、ぼくは選択の余地もなく、それを買った。そして、残ったお金を持って、中野ブロードウエイのキクマツヤに向かった。ここはとても庶民的な店だった。
Lee Cooperというブランドのデニムが売っていた。1500円だった。そして、500円のTシャツと100円の赤い靴下を買ったのだった。もらった1万円はここで底を尽きたが、ぼくが思うジェームス・ディーンはここに完成を見たのだった。(つづく)