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自分を愛することの難しさ
こんにちは、rayです。
久々のnote……本当はこの記事を書く前に、もっと色々とまとめたい話があったけれど、自分の解放のために今はこの記事を書こうと思います。
あまりいい話じゃないし、嫌悪感を抱く方も多いと思う。
でも、これが私だし、私のこういう部分を癒して乗り越えていきたい。
発信する人間として、内容も適していると思わない。
だから、少しでも嫌な気持ちになったらブラウザバックをしてください。
これは誰に話したい訳でもない、私自身の備忘録。
私は子どもの頃から何度も死にたいと思ってきた。
理由はたくさんある。
子どもの頃の家庭環境、学校での人間関係、仕事での心身の消耗、時にはちょっと上司から怒られただけ、とか。
実際に死のうとしたこともある。
自分に危害を与えた相手を道連れにしようかと考えたことも。。
でも、実行はできなかった。
死ぬのが怖かったからではない。
死ぬのに失敗して、例えば……身体に不具合をもって生きることになるのが怖かったからだ。
このことについて、最近になるまで人に話したことはなかったと思う。
周りの人には『まともな人』に見られたかったし、そう見られるように振る舞っていたから。
本当は誰かに助けを求めたかったけれど、弱い自分を知られたくなかった。
メンヘラだとか、かまってちゃんだと思われたくなかった。
そう思うようになったのは、子どもの頃に体調が悪かったり落ち込んでいる時に、母親から「構ってほしいだけやろ」と言われたことが影響していると思う。
他者に助けを求めるのは、人の気を引こうとする弱い行いとして自分の中に刻まれた。
弱い自分を悟られてはいけない。
こんな部分を知られたら嫌われてしまう。
そう思っていたし、たぶん今もそう思っている。
だから、自分の根深い癒すべきものに気づけたことに感謝する反面、話したことをちょっとだけ後悔している。
私には到底耐えられないような過去を抱いている大切な友人たちの前で、こんな話をするなんて……。
でも、これさえ自己否定していると気づいた。
死にたいくらい苦しくて、あの頃はそれしか逃げ道が無かったのに。
そんな自分を「弱い」と非難して、隠して、無かったことにして。
その場では取り繕えるかもしれない。
ずっとそうして生きていた。
では、苦しかった過去の私は?
私自身が突き放して、あの日の私は誰が助けるのか?
死にたいと思ってしまう自分さえ、受け入れ、許し、愛していく——。
自分を愛することの難しさを今、痛感している。