存在する。[自分用メモ]【11次元になる】
自分のことを好きになるを見誤る
自分のことを好きになるっていうのを勘違いしていて、その勘違いを正せた話。
自分の容姿とか持っているもの、所有物とかの総合したものを自分を愛すのだと思っていたけど違った。いや、もともとそういうものではないとはわかっていたけど、ちゃんとはわかっていませんでした。
それを順にほどきながら解説しつつ、今わかっていることをメモしていきます。
ざっくりと言えば、
ペルソナを愛すのではなく、
アバターを愛すのでもなく、
設定や物語を愛すのでもなく、
魂(※)を愛すのでもなく、
それら全部をひっくるめて存在する存在そのものに目を向けます。
※ここでいう魂と言うのはvtuberで言う所の魂のことですね。いわゆる「中の人」の事
個別の要素をそれぞれ愛そうとするには、何か気に入らないところが一つあるだけでもう愛せ無くなりませんか?自分の求めている物に達していないともう愛せ無くなってしまう。それってどうなの?と。
愛せない、認められない、受け付けられない部分がもし仮にあったとしても、それさえ含めて愛せて許せてしまうためにはその存在する人のどこに目を向ければいいのだろう?そして、その目を自分に向けるとどの様に行くのだろう?と。それが本来備わる価値(無限性)に目を向けようという内容だと思います。(言葉は違えど、ソース存在とか言いますよねサイマスは)
突き詰めて言うと、
地球にいる>日本にいる>アイドルが好き>お笑いが好き>はちみつが好き>等々
と、最後の1人になるまで絞っていくとそこに存在するのはぼくひとりでしょ?そしてそれがかなりユニークなことだよと言う発想のことです。今ちゃんと有るものだけを見続けて絞っていけばいくほどに今の自分の裕福さ、ユニークさであふれている様に気が付けます。そのことを話したいと思います。
元から足りないものなどなかった話です。
はじめに結論
自分の配置、環境、置かれている立場に一喜一憂するのではなくて、無い物ねだりをしたり、欲しかった物事を求めすぎたり嘆くのではなく、
『自分という存在の在り方自体を見たい。』です。存在する定義の方を見たいというお話です。
自分と言う存在の在り方がどうして今のような在り方になっているのかを見て、その配合、成分、そちらの方を見てみたい。と言う感じです。否定材料にするために見たいというのではなくて、もともとのちゃんとした本来の意味、在り様、主根を見てみたい、気づいてみたいという事になりますね。自分の本質、ルーツへの回帰です。
そうすると、チャンスとか気づきとか、何かしらの反応として出す、出さざるを得ない部分を見るのをやめにして、もともとの、本来の意図。存在の有り様を見るに至ってそれが愛おしいことだという流れです。
(※人生にはチャンスがつきものでチャンスが巡ってこれば良いけどない時にはどうするの?という疑問があり、チャンスが巡ってこない人生に嘆きますが、そうではなくてと言うお話。人生に流れてきたものを見るのを辞めにするという事。なおかつ、流れてこないものを見ようとするのをやめにしたいよというお話。じゃあどうすればいいの?と言うお話。)
つまり、人として生きている生物として生きているときに出ざるを得ない様々な屁(溜まったガス抜き、おなら成分)を見ずに、存在(=価値)そのものを見たい。価値と言うのは、存在が他の存在とどう違うのかを定義する部分の核称の事です。
価値がある
つまり、無限だからこその、その無限を形作る唯一のオリジナル性(個別性)。今、自分が無限で在れているのはそれを感じていられているからで、そのオリジナリ性のことをここでは言わんとしている。
コアがあり、そこから派生した成分が表出されうる。が、コアそれそのものを見ようとしては来ていません。出た、出した、現れた方、顕出した、物事に置き換えられた『比喩』(たとえ話)の方にだけ、主点が置かれてしまい、物事の本質を見定めようとはして生きていない。
良くて、その「出来事」の本質を見ようと努力するまでに制限されています。が、それが大きな誤りであるという視点です。出来事は空想が、解釈が多分に含まれてしまっていて、ピュアな状況に無いと思います。出来事自体を見ることを辞めてしまって良いのですが、それをするとどうなりますか?という視点からのお話です。
人の心理の何かを問うているのではありません。
人のドラマはその人々が個々に目指している物なのでここではノータッチです。それを言わずに、焦点を横にずらして見えてきたものを言う。それは価値についてで、本来の価値とは?本当の意味での人が世を生きる意味とは何でしょうか?
『『『 自分を好きになりたい。 』』』
『『『 自分を愛したい。 』』』
『『『 自分を認めたい。 』』』
と言う事の本質が、容姿を整えたり自分にふさわしい物を持ったり場を持ったりするというレベルで見るのを辞めるとどうなるのか?
すると、次のステージに進みます。
次のステージでは心の問題に触れていく。
そうして、心理的に自分の至らなさ、弱さを受け容れつつそれを各自が克服でき、それを持って自分が好きだとか、自分を愛せていると、言い合い進展を相互に確認し合います。
(心理的配合の強弱成分を平滑化する作業とそれを受け容れ見定め、認めうる作業の総称です。心理的イマジネーションの段階。簡潔に言い換えれば『心の発達具合』の総称の事です。)
それはそれで全然かまいません。が、そのステージの次に進みたいと思い至ります。
(心理的なステージ。人には欲があり、その次に心理的なステージが来ます。それを終わらせるとどうなりますか?と言うお話です。)
そのステージの次に来ることは『存在自体をまーるごと受け止めて愛する』というお話です。
そこで出てくるアイデンティティが、始めの結論に書いた通り、他の人は他の人の価値観で物事をとらえて、その通りに動き活動して、行為し、働きかけ、価値観を持ち、日々暮らしていけているように映りますが、あなたはどうでしょうか?
「存在する」の価値を見誤る
「存在する」の価値を見誤っています。
〇 存在した後、それをとやかく言って、自分の好みに仕立て上げられればそれを認めてあげよう、だとかいう魂胆が見え隠れしているから、それができず、うやむやしてご自分を痛めつけようとしている。
〇 『ありのまま』を好きにさせることが自分にとっての都合の悪さからくるので、仲介、または仲たがいをする。
〇 いったんコントロール権を『身体』の都合から奪いさり、意思とか、思考の仲介を経てからもう一度意思決定する。かのような様。
〇 それを見て正しいのか正しくないのかを再判断している。はかりにかけています。なぜ?そのようなことをするのですか?
それは、
▽『価値』をおし間違えていられているから。
▽『価値』と言うものが自分たちの尺度、都合を優先する形で決定づけられていて、その指標にのっとり価値判断をしようとしているから。それは無効だよね。無効な指標でいくら指示を出したからと言い、それが正当化され得ることはあらず。無いに等しい。
▽『価値判断』と言う指標は初めから備わるもので、新たに付け替えたり付け足したりできるものではありません。価値判断の初期設定を間違えたままひた走ればどうなるかをご自身で確認したまで。そうすれば二度と間違えようなどとは勘違いしないで済む仕組みだからです。
▽『価値判断』とは判断しません。判断しないことです。判断しないことが唯一の価値判断だという事です。意味がおわかりですか?
▽『意味』、それはありません。意味は無し。意味と言うものは考えるだけ無駄なことの結晶構造です。結晶構造体です。結晶構造とは、その過程が必要で、プロセス、そのプロセスと言うものは『間違えた』と言う意味になります。間違えるほど結晶体が進化して構造化します。構造化するとどうなるか?それをも駆使して確認取りやすくしています。結晶構造体にならなければ確認の仕方ができないので、結晶構造体化することで目視でまたは触視(※)で確認をしたいという事です。※触って確認するの意
つまるところ、結晶構造の全て(シークエンス)は、つまり物理の世界のことなのですが、間違いに間違いを重ね、間違いのオンパレードで成り立つ城、世界、だという事になっています。間違いだらけです。でも、、間違い探しがダメな事と言う意味とは少し違っています。それは良い間違い探しです。ダメな間違いもありますが、良いと(少なくとも少しは良いと)思われる間違い探しも僅かながらあって構いません。それは今あなたがしてきた残りの人生の全てかもしれませんね。
アーメン
追記:価値判断をする時点で情報が減じられていますよね。人にはすべてを解釈できる素養が無いので、すべてとは無限のことで無限はわからずに、有限の事象のみ扱えますよね。なので、その人独自の価値判断をしている時点でその価値判断から漏れているものが少なからずあってそれをどうしたいのか?です。
なぜ、根本的に欠落した情報を元に判断をせざるを得ていませんのに、それを唯一確かな正解だと言えているのでしょうか?そこには無知があります。その状態が今のご自身にしっくりくるのかどうかを判断して見なさい、と言われていそうだと感じています。そうした時、ぼくはその価値判断をしたいという欲求から素直に降りなければならないと考えます。が、まだ少しは自分でも何かしら試してみたいという気持ちも残されていて狭間でゆらゆらしています。それが正直なところです。
あとがき
スルメのようなかむと味の出る内容です。上の文章は、初見でわかる人は限られていそうではありますね。
ぼくなりの解釈をはさめば、このメモの構成は以下の3つの流れです。
〇 1つ目
皆様おなじみの『自分を愛する』と言う内容が所有している物とか事ではないよ、という当たり前のステージを超えて、でもだからと言って所有している心理や状態のことでもないよと言う、ステージをさらに超えて、存在そのもの丸ごとを見るのだよ。というステージに目を向けようよと言う流れです。
〇 2つ目
価値を見るんだよ。価値とは存在のことで、存在が存在できているのはその価値があるからだよという流れです。意識が在ること自体が存在しているという事の現れのことでした。意識(=価値)を見るのだよ、と。(毎回変わる在り様の)どうでもいい屁を見続けているのをいい加減やめてみたいお(ぴえん)というお話です。
〇 3つ目
存在がすでに(その通りに)存在しているのにかかわらず、後からどういう風に存在しなければいけないのかを再定義して、存在(=意識)に教えようとしている、その考え方(在り様)は無効だよ。という流れです。
意思決定者は思考じゃないよと。人の形をした動物がその文明の中で言われることを汲み取り濾してさらに精製できたからと言い、それに価値があるのはその文明の中だけでしょ?と。
人特有のコンプリケーションオーダー(厄介ごとの求め方、産み方講座)を経た人生から来ている、つまり、そもそもの欠乏とか欠落の刷り込んだ意識を解決する作業から生まれた意識が、存在の全てじゃありません。という話。
それは存在の極ごく一部分で、そういった価値観もあることだけれど、今の焦点とは違っていて、今の論点では存在のま~るごと全てを受け容れたいというお話がしたいことなのでした。
(ー以下は冗談ですがー)
「えっと、霊長類やホモサピエンスのやり方だけが正しいとするその心情、やめてもらっていいですか?それってあなたの感想ですよね?」(ヒ〇ユキデスボイス)
(冗談ここまで)
無限の宇宙の中で、常に価値があるものは存在するという事それ自体の事だと見れるレベルに自分を置いてみたいんだ、というお話でした。
そのコアから生まれる派生物を眺めたりする一定値のレベルを超えてみたいんだよ、という話。
人間ドラマと言った比喩と例え話を用いた『間接的な』在り方ではない、意識が意識としてちゃんとあるだけだという『直接的な』存在の在り方についてのシフトチェンジについて言っています。
霊を超えたいという事です。
霊体と言うのはそもそも(物質体から引き離せるためにある)存在のろ過装置的な機能なのかもしれなくて、存在そのもの『ゴール』のことではありませんよね。ゴールに至るためのツール群のことですよね?意識だけがゴールで、その意識と言うのも本当の純粋な意味での意識のことで、ドラマを経ていない純粋なもともとのものの意味です。
次は『存在が(ただその通りに)存在する』というステージですね。
感想
最近は、何度目かの『宇宙を乗りこなす喜び』を少しづつ読ませてもらっています。存在が存在しているというワードはそこから来ています。
霊の最高次元は良くて9次元か11次元どまりなので、そこを超えていく段になればおのずと意識に焦点を置くことになり、ぼくはそれに今取り掛かって生きています。