感覚タイプと思考タイプでは納得の仕方が異なる
思考タイプの人が感覚タイプの人の話に同調できずにフラストレーションが溜まるあの感じ。早くすぱっと要点を言ってくれない。もやっとする感覚。
感覚タイプの人は共感や共鳴に全ぶりしているのであって、なにかを説明しようとして自分の話をしているわけではないという理解。思考タイプの人がその生態に気がついて歩み寄ると、事は自然に解決できる。
感覚タイプの人でも、素のノンデュアリティを理解している人など存在しなくて、単に素のノンデュアリティを体験した後に感じた「概念」談をおすそわけしているに過ぎず、素のノンデュアリティに対する自分の理解に関係しない。つまり、説明されているわけではないということ。
体験談をシェアされているだけという感じ。説明されているのではなくて経験のシェアだから、それを理解しようとしても理解できずに終わる。聞きたいことが出てこずにわからないままになる。なのでそれをやめてみる。
それは感覚タイプの彼女が今日から上映開始された劇場版アニメを仲のいい友達と映画館に見に行き、興奮冷めやらぬまま帰ってきて楽しそうにその内容を思考タイプの彼氏に事細かに話す。それを根掘り葉掘り聞いて自分もその言葉にできない感覚を味わおうとしているかのようなさま。感覚タイプなので説明が抽象的で、中身はよくわからないけどなにか楽しかったり感動したんだなということだけは伝わるみたいな。
子供で例える場合には、泣いている理由を尋ねるシチュエーションで感覚的にうったえる場面をイメージしてもそんな感じ。うまく言葉に変換できなくてさらに泣くみたいな。ちなみに子供は本能タイプ。知性、感性、本能の大きく3タイプがある。
ノンデュアリティのスピーカーさんの説明では、感覚タイプが多すぎて思考タイプのぼくは理解できないことが多かった。
やってみてとか、気づいてみてとか言われても感覚タイプではないので説明不足でそれができない。実際に会って共鳴共振しないとつまりサットサンとかで無言の波動を受け取らないと難しいんじゃないかと感じる。感覚タイプの人は結局自分の言葉で説明できないから、言葉では説明できないとおっしゃっているのだけど、ノンデュアリティのスピーカー(ぼくが知っている)ほぼ全員がそういうタイプぽくて最後まで説明しきろうとはせずに、説明できないとか、理解できない、で説明を終わらせる。なのでノンデュアリティ=説明できないこという方程式が成り立っているかのような印象を受ける。しかし、正しくはそうではなかった。
あるところからはたしかに「説明できない」一点張りでいいのだけれど、思考タイプのぼくはモヤモヤして宙ぶらりんになった。初期の頃は2年間も虚無にもなるぐらいだった。
また、思考タイプでも、哲学や心の動き(心理学)からのアプローチを好むスピーカーさんもいらっしゃる。これもそのアプローチに興味や関心がなければいつまで立ってもちんぷんかんぷん。
いかに自分ルールで理解できるのか、マイルールに近い方言で解説してくれている人を見つけられるのかどうか、も学習コストカットに役立つ知恵。母数が多いならば共通のものを持つフィーリングの合う教え手に出会えるかもしれないが、母数がそうでもないならばなるたけ近い人を見つけるか、たくさん集めていいとこ取りするかしたほうが早いと思う。それかハイアーセルフに完全におまかせするか。
このページでは、思考タイプのぼくが思考的に理解可能なように『無限性』という視点から解説した。
無限性(=空性)を無視するかのような観点からお話をされるスピーカーさんは多い。人間性(=にげんせい)の観点が捨てきれずに持ったままお話をするのは、聞き手にとって馴染みのある観点だからとも思うには思うが、単純にずれているからとも思う。無限性、空性のロジックが欠落している。いいか悪いかではなくて。
思考タイプの人は、ノンデュアリティを理解可能なものに仮に説明してみるとだんだんわかってくると感じた。
コツは、
a. 仕組み上『非分離』は説明できなくて理解もできないものだけど、(非分離=概念に置き換えられない)
b. 仕組み上『分離』は説明できて理解できるものだから、(分離=概念に置き換えられる)
a. 非分離の『素のノンデュアリティそのもの』を理解しようとするのではなくて、
b. 分離では『ノンデュアリティの仮説明』までを理解することができるというポイント。
このポイントを押さえないと次には進めず思考がループする。
仮の説明。仮説までができる。結構いい線まで食い込んでいける。あるところから先は仕組み上無理。
別の例えで言うと、センサーがあるところまでは認識できて、センサーが無いところからは認識できない。
「空」に対するセンサーがないので空自体を認識することはできない。