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自分って何ですか?
何かに夢中になってて気がつくとお昼の時間だったりした時、思い返すと自分という「何か」はいませんでした。
いつも思考しているような自分という存在を突き詰めていっても到達することはなく、結局「よくわからない」と思うだけです。
人は自分について「私」とはこういうものという自由な「肩書き」を持ちますが、実際の所、その肩書き自体もコロコロ変わります。
例えば、3歳の時と、今の自分の視点は変わっていて、思春期の頃や定年退職後の自分のイメージも今と全く同じということではないですね。
都度自己イメージ=肩書きが変化していきます。私達が通常思い描いている確固とした「私」という自己イメージは実際には存在しない「仮想」です。
私という自己イメージは仮想=自分が思っているような自分像はいない=私はいない です。
ちゃんとあるのはそういう自由に思い描いた刷り込みの自己という「枠」が「そもそも無いよ」と言うことの方です。こちらの方が実際には在るのです。
もともと固定値の無い自由仕様だからこそできる個別の固定設定です。
元から決め打ちの固定の値ではなく、全員ばらばらの値に固定できるという仕様だということです。
「在(あ)ら無い=実際には無い=存在しない=不在」というのはわかってしまうと即時自由につながるとてもとてもすごい発見になります。
勝手なイメージはすべて幻想なので、幻想としてのみありえます。
その影響力に同意した時にだけ、その影響を受け取れる類のものです。
空想は空想。空想 ≠ 事実。空想 ≒ 実在しえない。
空想はそれ以上でもなく、それ以外でもありません。空想はちゃんと空想だったという事実を認めるという意味合いです。良いも悪いもありません。この視点は全ジャンルに応用ができます。
起こってもいない出来事について思い悩むことが、バカバカしくなって掴んでいたものを一瞬で手放せるということですね。
それよりも、今実際に目の前で展開されている事実に目を向けます。
言い換えると、ウェットすぎるのでドライに寄ってバランスをとった方がいいよ、ということですね。ウェットとドライの中間点、バランスポイントは完全にフラットなので安定します。
空想は邪魔者ではありません。もともとデュアリティの世界線では豊かな豊かな空想(イマジネーションの産物)が大事です。デュアリティの世界は空想によって成り立つ世界だからですね。
しかしノンデュアリティでは、空想は一掃しないと何を言っているのか掴めないので、「全部空想だよ」と言いバッサリと切ります。なぜかというと、空想の進行方向にどれだけ進もうと事実に変わったりしないからです。レーンが違っています。
2つのレーンがあります。
片方は「事実を踏まえた自分」のレーンです。(空のレーン)
片方は空想で塗り固められた自分「像」のレーンです。(識のレーン)
平たく言えばこういうことになります。
どちらが正解か、ではありません。
どちらが正解なのか?ではなくて、事実を事実としてみるならば、どちらもその言葉通りのものであるということです。
空のレーンと識のレーンの両方ともが自分だよ、ということです。
まとめ
自分は「空と識だよ」。
「空はつかめないものだから、代わりに識に自己投影して自己経験するよ。」
「空と識。どちらも自分で一致しているよ。」
「空は実相で、識はイマジネーションの産物だよ。」
「識として現れる、ワンネスも自分だと言えるよ」
「識として現れる、デュアリティも自分だと言えるよ」
「識として現れる、ノンデュアリティも自分だと言えるよ」
「識として現れる、〇〇〇〇〇も自分だと言えるよ」
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「識として現れる、全部が全部、自分(非分離)だよ。」
「空に投げかけたものが、識として現れてきてくれるから自分って無限の存在なんだよ。」
「空に投げかけて識として現れたものに、自己イメージを投影するから、(何かしら愛着のある)自分だととらえられるんだよ。」
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