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なぜ生きるのか 〜遺言
来年は還暦。
どうやら老後は目の前のようだ。
過去も未来も捨て今を生きてきたわたしは、
当然大した蓄えはない。
これからも見込めない。
それでも何とかなると楽観視しているが、
自分に害が及ぶ可能性のある娘たちは手厳しい。
「何とかなる、は、今まで何とかしてくれる人が周りにいたからだ!」
なるほど?
潔く、貯金が尽きたらそのまま天に召されるのが本望なのだが、
自分の親がそんな死に方を選んだら、残された子供は居たたまれないらしい。
生きづらい世の中とは、死にづらい世の中でもある。
生きる権利があるなら死ぬ権利もあるだろうと思うのだが、
べつに自殺を容認しているわけではなくて、
生きるすべが無ければどうしようもないだろう。
仕事もできず、動けなくなり、金が尽きた時がきたら、潔く死にたい。
それを寿命とさせて欲しい。
現実には親の施設代を子供(私の世代)が負担している現状もざらだ。
負担できないとなれば、自分たちが家で看るか、見殺しにするか、と究極な選択を迫られる。
家で看るにしても仕事に影響したり、何らかの金銭的負担は避けられない。
そんな未来を危惧して次世代の介護者予備軍である娘たちは必死だ。
頑張ってきた今までの生活を崩したくない!
今まで大変だったから親の老後にまで苦労はしたくない!
そんなに疎まれながら無駄な長生きはしたくない。
みんなそう思っているようだが、いざとなるとそうはいかない。
それはやはり死生観に関係しているのかもしれない。
現代人の、生きる事、死ぬ事を、真面目に考えず、先送りしてきた代償ではないか?と思う。
特に死と言うものを避けて生きてきたからだ。
なぜ生きるのか、なぜ死があるのか、
答えを出せないまま生きる事に、改めて不都合を感じる。
以前、上の娘と「プラン75」という映画を観た。
発想は奇抜だが、あれはなんだか中途半端に感じた。
動ける人間が自分の死をあんな形で決め、実行できるはずがない。
あのプランは企画倒れだ。
そこでわたしの提案だが、
寝たきりになった老人をロボットの介護、医師に任せるのだ。
さながら現代版楢山節考(姥捨山)。
要介護者が、介護者に申し訳ないと思わせる余計な気遣いもない。
お互いに性的な嫌な思いもしないし、無駄な暴力も無い。
この方が余程人の尊厳(だと思っている事)が守られる。
もちろん無駄な延命など無用。
徐々にエネルギーを抜いていく。
死が恐ろしいならVRのゴーグルでもかけさせて、仮想現実で天国でも見せてあげれば良い。
楽しかった家族との記憶の中で死んでいくなら上等じゃないか。
ゲームだけじゃなくてそういうところに技術を使おう。
死後の処理もロボットに任せれば良い。
ロボットは匂いも苦にならない。
人が嫌だと思っていることを生身の人間に無理やりさせる必要はない。
そんなことをしても人の成長はないし、精神が鍛えられるわけでもない。
生前イエスだって同じようなことを言っていたと思う。
人道的でないイエスの言動は、なぜかよくスルーされる。
中途半端な道徳では、何も気づかないし、気づかないふりで済んでしまう。
それが今の状態だ。
自分の親を捨てるとき、はじめて生きるとは何かを真剣に考え始める。
それで守られた僅かな財産で、生きる虚しさを感じる。
この世の不条理を思い知らされるのだ。
そこに真理と死生観が存在する。
ついでに悟りを開くことができるかも知れない。(知らないけど)
この少子高齢化の難問を政府が解決することは不可能だと知っている。
なにも期待しない。
頑張る必要はないから、ロボットと、死んでいく老人の施設をたくさん作ると良い。
老人は無闇に生かすのではなく、
いかに恐ろしくない死を与えるかだ。
そこで寂しいと泣く人間はもともと生きる資格はない。VRを内蔵させろ。
姥捨山の老人は凍えながらこの世をさり、死後カラスに身体を突かれていた。
肉体は所詮そのようなものだったのだ。
理想の死を迎えるにはまだ時間が必要ではあるが、
わたしは娘たちに、これだけを強く希望する。
一円も負担するな。
葬式代だけ残して寿命をまっとうさせてくれ。
戸惑うだろうが、これを遺言とさせて欲しい。
心配しないで、わたしは強く信じるものがあるから。
せめて老後もなかなかオツだと思わせて欲しい。
ただ枯れていく人生とやらを味わいたい。
この意見が間違っているのなら、
人が生きると言う意味の、
わたしを納得させる答えを誰か聞かせて欲しい。
*75歳以上の高齢者に自ら死を選ぶ権利を保障・支援する制度「プラン75」
近未来を想定したフィクション。