歎異抄を解く(因果律)
歎異抄とは、浄土真宗の開祖である親鸞聖人の言葉を弟子の唯円が書き残した仏教書である。
その中にこんな会話がある。
(内容をわたしなりに脚色しておく。)
親鸞「これから話す事が、極楽浄土にいくため必要な条件だとしたら、言う通りにするか?」
唯円「親鸞さまのいう事は絶対なので、必ずします!」
親鸞「それでは人を千人殺しておいで。」
素直な唯円はそれが極楽浄土にいくための絶対条件だと知り、人を殺めるために出掛けたが、しばらくして戻ってきた。
唯円「親鸞さま、わたしには千人どころか一人として殺す事は出来ませんでした。」
親鸞「これしか極楽浄土に行く方法がないとしてもか? 極楽浄土に行く事が唯円の唯一の願いではないのか?」
唯円「恐れながら、わたしには人を殺す才覚などありません。」
親鸞「それは才覚なのではなく、善い心だから殺さないというわけでもない。必要に迫られた時、人はなんでもできると思い込む。しかしそれが出来ないということは、それはそなたにそのような、人を殺すという業がないだけなのだ。そのような業があれば、人は殺そうと思わなくても何百何千と人を殺すだろう。何事も自分の思い通りになるものではない。」(第13章より)
これは、間違ってもオウム真理教のポア(慈悲のために他者を殺害して極楽浄土などへ意識を遷移させる思想)の話ではない。
これは、因果律(因果応報、因縁、業、カルマ)の話である。
今世の行いは、過去世からの自分の行いの結果であるという考え方だ。
まさしく因果律というものが自由意志のない宿命のようなものだとここで解いている。
例えば我が子を人に殺められ、復讐したいと思っても、人を殺す業がなければその機会は巡ってこない。
来世の幸せのため、今世いくら意識を高め良い行いを実践しようと思っても、過去世における自分の行いで今世の行動は決まっており、何も自由にはならない。
何があろうが因果律に逆らう事は出来ないという話である。
仏教で言う解脱とは、そう言った因縁の輪廻から抜け出す事をいうのだろう。
阿弥陀仏を信仰する親鸞にとっては、そんな因果な宿命を持つ悪人を救っていただけるのが阿弥陀さまだと言いたいのだ。
(「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや。」第3章より)
この世界は自由意志が存在しない、何ならすべて終わっており、変更不可能な再上映を見ているという概念を採用しているわたしにとって、この業から来るという宿命論を受け入れることは容易ではある。
ただ、この因果律という概念では、良い行いをしてきた人間は、生まれ変わっても良い行いしか出来ないし、初期にうっかり悪い行いをしてしまった人間は何度生まれ変わっても悪いことをする因果しかない事にならないか?と、揚げ足取りのような疑問が残る。
臍曲がりなわたしはここで全ては茶番だと疑う。
この有名な仏教の教義にも、どこか矛盾をもってしまうのはわたしだけだろうか。
特に初期にうっかりミスってなに?
その初期の因縁はどこからきたのか?
親鸞がどこまで真理を見てそう解いていたのか分からないが、少し考えればそのような矛盾にはすぐに気付きそうなものだ。
『過去、今、未来は全て事前に映写機の中に用意されたスライドであり、時間軸に沿った過去と未来の因果関係など存在しない。(「僕という心理実験」妹尾武治著より一部抜粋)』
わたしはこの現象を選択する。
そう。この世界はホログラム状に用意されているただの画像だ。それらに繋がりなど存在しない。
元々混沌とした矛盾だらけな世界だから、そこに因果律のような正確な原理など存在しない。
それはただ人々の解釈があるだけだ。
親鸞が語りたかった因果律とは結局、自由意志のない世界を語るための方便のような気がする。