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[生汁日乗]接続過剰を切断する結界について考える:2025年1月27日(月)

晴れのち曇り。

息子殿の学校は入学試験対応のためお休み。おかげでお弁当作りは免除。

加えて、娘殿の学校も9時半登校で良いとのことで、朝、早く起きずに済む。ありがたや。

最近、生活において、外部との接続が過剰な気がする。

主にネットが原因なのだが、意図的に切断することをトライしてゆく必要があると考える。「精神と時の部屋」みたいな「静寂」や「無」では無くても良いけれど、外部からの喧噪/情報から、ある程度、遮断された「結界の張られた時間」というものが、今に自分には生活の中に一定枠、必要な気がする。


穏やかな生活のために、その結界のオン/オフについて、もう少し真面目に考えてみても良いかと思った。そういえば、新村隆慶の楽曲も、そういった、世界との接続過剰な状態に対する、ある種の結界として機能することを指向して作られているーという趣旨の話をベンチタイムブックスの店主さんがしてくれた。

ちゃんと読めてないが千葉雅也が『動きすぎてはいけない』の中で触れていた「切断の哲学」というものも参考になるかもしれない。ドゥルーズも全く、読めてないけど。

晩ご飯を作って、食べて、早めにお風呂に入る。

夜、『生成と消滅の精神史』メルロ=ポンティについて読み進める。『知覚の現象学』から引用された文章は、(これもまだ未読了だが)中沢新一『チベットのモーツァルト』の「孤独な鳥の条件」の章で触れていたカスタネダのエピソードを彷彿とさせる。

ある被験者はメスカリン酩酊下で一片の鉄を見つけ、それで窓台をたたき、「そら、魔法だ」と言う。木々の緑はいっそう鮮かになる。犬のほえ声は表現できないような仕方で明るさを惹きつけ、右足に反響する。

メルロ=ポンティ『知覚の現象学II』

夜はそんなことを考えつつ、寝床で本を読む。心地の良い時間。

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