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[生汁日乗]さじ加減:2024年11月10日(日)


11月も1/3が過ぎる。早い。
今日は一日曇り空。

桃井原っぱで杉並フェスタをやっていたのだが腰が重く、赴かず。家族皆、一日家にいた日。

午前中、『失われた時を求めて』を少し読む。

洗濯やらなにやらしていたら、あっと言う間に午前が過ぎ、お昼は適当にありもので済ませる。

午後、引き続き本読み。マルティン・ブーバー『我と汝・対話』の『対話』の方を久しぶりに。相変わらず、堅い。数度に渡り、寝落ちる。

後、内田樹『困難な成熟』を読み進め。こちらは、もちろん読みやすい。Penguin Cafeを聴きながら。フェアネスについて考えさせられたり。

フェアネスの「さじ加減」を適切に扱えるような成熟した人間、つまり「フェアネス」 とはどういうものかがよくわかっている人間は、「フェアな社会」の果実だということです。
「まあ、これならフェアと言えるんじゃないの」という判断において人々の間にゆるやかな合意のある社会、それゆえ成員たちのマジョリティが「ここはどちらかと言えばフェア な社会だ」と思える社会、そういう社会で生まれ育った人たちにとって「フェアネス」は 空気のようなものです。だから、それが扱える。それが欠けると、酸欠で息ができなくなるから。
そういう人だけが「さじ」を扱える。そういう人は「この社会はフェアではない。だから社会制度を根本から徹底的に変革せねばならない」というようなことは言いません。
「ここに穴をあけたらとりあえず息がつける」ということが具体的にわかるから。部品交換で済む故障のためにいきなり乗っていた車を廃車にするようなことはしません。
問題なのは、フェアネスのさじ加減がわかる人間は「わりとフェアな社会」からしか生まれないということです。フェアな社会はフェアな人間を再生産する。
もしも現代日本でフェアネスが問題になっているのだとすれば、フェアネスのさじ加減がわかる人間がそれだけ減っているということであり、それは僕たちの住んでいるこの日本社会が「
すでにあまりフェアではないところ」になってしまったことの結果なのです。

内田樹『困難な成熟』


あらゆることにマニュアルが必要で、その内容の妥当性については語られなくなる世界。それは、確かにフェアじゃない気がするが、世の中、だんだんそうなりつつある。「さじ加減」の失われた世界。
「さじ加減」を再生する。失われつつある流れに抗う。そのために、一度立ち止まる。そして一歩引く。メタ認知。繰り返すけれど、それには生活の「余白」が必要。

『生活と自治』11月号を読む。読み始めるとあっと言う間。図書館についての特集。タイムリー。

昨日買ってきた『WIRED』の「The Regenerative City」の特集も少し読む。

夕ご飯は焼きそば。キャベツたっぷり。フライパン一丁。ワンプレートものだって良いのです。

息子氏が学校にて文系と理系の進路を選択を迫られる時期。よくよく考え、文系を選ぶらしい。良いと思う。

夜、さつまいもを焼く。週明けからのおかずの足しに。また買っておこう。

今日は比較的文章が読めた。もっと読みたい。

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