『プリズン・サークル』
以前から、ずっと気になっていた作品。ようやく触れられた、坂上香著『プリズン•サークル』。読了して、やはりズンと来た。
國分功一郎『中動態の世界』とも、深く繋がる内容であった。忘れないように、書き留めておく。
表紙裏より
ー表紙の裏にはそんな文が添えられていた。本の内容を紹介するイントロとして、必要充分な端的なテキストであるので、そのまま引用させていただいた。
「加害と被害」と「罪と罰」と。
加害と被害。罪と罰。それは、「犯罪」という域に限らず、程度の差こそあれ、日常の人間関係にも生じ得ること。家庭で、学校で、仕事で、様々な活動で。関係性が縺れたり、行き違いや、理解や配慮の不足、過度な干渉、、、様々な「背景」があって、お互い、傷つけたり、傷つけられたりする事がある。
けれども、我々は、発生した「事柄」の責任の所在を、「自己責任」という文言で、特定の箇所へ局所化し、「背景」は触れられないか、もしくは軽視される。
ここには、國分功一郎が『中動態の世界』(前記事参)で折に触れスピノザを引用しつつ、述べたかったことの一端がとても深く関わっていると思う。
「対話」と「ケア」と。
人と人(若しくは「事柄」)との関わりは、時間を経て、空間を経て、網の目のように、広がっている。何が、自分の行動のトリガーなのか。それは自分自身の「意志」だったのか。國分氏は、そしてスピノザは、その「自由意志」を否定していた。
この考え方は、現代社会の「法」の観点・考え方とは異なる。容易に紐解けない、とても難しい問題。
やはり、当事者、そして関係者が、それぞれに「背景」と「事柄」へ向き合って行くこと。その対話を以てでしか、解きほぐし得ないのかも知れない。それが「ケア」と呼ばれたりしつつあるものの、一つの形なのだろうと思う。
昨年あたり、全然違う文脈から「対話」に興味を持ち始めたのだが、当たり前だけど、対話には、人の心ということが、どうしても付いて回る。そして、この「世界」ってものは、人が生きて行くにはあまりに残酷であることも多い。生きて行くと、多かれ少なかれ傷を負う。そのためには「ケア」が必要なのだが、「対話」は「ケア」として奏功し得るものだということも、うっすらながら見えてきた。
『中動態の世界』と『プリズン・サークル』。両作に通底するテーマとして「ケア」があった。
この歳にして学ぶことばかりだ。ちゃんと向き合いたい。
月末には、『プリズン・サークル』の上映会に行ってみる。もうちと、深く向き合うため。