燕市吉田地区5|働く横顔
(「燕市吉田地区4」から続く)
待ち望んだ週末は、やはり曇っていた。ときおり細い雨が降った。
玉川堂の工場は燕駅が近い。吉田駅から、JR弥彦線で二駅進む。窓の外に広がる田んぼは収穫期を迎えて大きくなびいていた。
工場は、格式ある日本家屋だった。立派な迎門を構え、掛けられた看板には、流麗な書体で「玉川堂」の屋号が記されている。雨露を吸って濃く佇む庭園をわき目に石畳を進む。土間で靴を脱ぎ、待合のための和室に通される。
そこには、眼を瞠るばかりの鎚起銅器がいくつも飾られていた。ビールグラス、花瓶、器、そして口打出の技法でつくられた湯沸かし。吸い寄せられるように近づく。審美眼など持ち合わせていないはずの私でも、美しい、と嘆じざるを得ない。なんといってもその鎚目だ。その美しさには、まるで言葉が追いつかない。
しばらくして、案内役の方がやってきた。五十歳程度の男性で、この方も職人だという。
工場への扉をくぐる。カンカンカン。これまで微かに聞こえていたその音が、直接鼓膜を震わせてくる。そこには、金槌を銅板に打ちつける三人の職人の姿があった。
彼らは、通路から一段高くなった畳敷きの作業場に、欅の木から切り出したという丸太状の台を置き、そこに坐っている。そして、台に差し込んだ、鳥のくちばし状の鉄棒の先端に銅板を押しつけて、金槌をふるっている。ときに勢いよく、ときに細やかに。カンカンカン。カンカンカン。皆、それぞれの場所で、黙々と金槌をふるう。腰を曲げ、顔と手元の距離は近い。その横顔から、一点に収斂した射るほどの眼差しが、こちらに伝わってくる。
「ここが普段私たちが働く工場です」
案内人の解説が入る。
「今日は休日なんですが、このようにときおり自主的に来る者もおります。ちょうど来週に展覧会を控えているのもありまして……」
続く制作工程や歴史についての話に耳を傾けながら、私は制作に励む彼らの姿を傍観していた。
ここでも私の心を打ったのは、彼らの若さだった。三人中の二人は、ほぼ私と変わらない年齢なのではあるまいか。外見から察するに、少なくとも同じ二十代ではあるだろう。
いまや、脳内の職人像における、あの老巧な超然氏の存在感は薄まるばかりだった。
代わりに現れたのは、若くとも、一所懸命な横顔だった。文字通り、一つ所に命を懸けるような、その眼差しだった。あるいは、終業後や休日に工場で自主練に打ち込む姿だった。
働く、というのはこういうことなのだろうか。
思えば、誰かが働く、その最中の姿を意識して見たことがあまりない。もちろん、あらゆる店頭で見かける接客員などはまさに働いている瞬間なわけだが、そうと意識して見ることもなかった。そして何より、自分が会社に入ってから、オフィスという空間で、大勢の社員と並んで働くということが両手で数えられるほどしかなかった。
そうなった理由には、私が就職した二〇二一年は新型コロナウイルス感染症が依然猛威をふるっており、リモートワーク体制下にあったこと、そもそもリモートワークに支障のない業種であり出社解禁以降もほとんど会社へ出向かなかったことが大きいだろう。
働くとき、基本はひとり。チャットやオンライン会議越しに、在るべき働き方らしきものを感じ取ることはあれど、それは常に異国のしきたりを聞いているようだった。始業から終業までパソコンに向きあい働きながらも、そこはかとない浮遊感があったことは確かだ。
働き始めて半年経ったが、働く、という感覚は靄の向こうのままである。
ましてや、ここ数カ月は、働くことから精神的かつ物理的な距離を保つことをひとつの動機として、多拠点で暮らし始めた。いまの仕事をし続けることが正解ではない予感はありつつ、仕事の対抗馬となるほどに主張するような何かはまだなかったからだ。そんな自分ができるせめてもの行動は、染まり切らないように距離をとることのみだった。働くことから遠ざかりつつ、だがしかし働く。その立ち回りは意外と難しく、そもそもうまく対処できたとしてそれが良いこととも思えなかった。
そんな折の、玉川堂の若い職人である。だからこそ私は、彼らの研ぎ澄まされた横顔に、働く、ということの一片を垣間見た気がしたのである。
***
詩人で書家の相田みつをは、敬虔な曹洞宗の信者であり、禅僧の武井哲応老師に師事したことが知られている。両者の出会いは或る短歌会だった。相田の歌を聴き、老師はひとりごとのように呟いたという。
「あってもなくてもいいものは、ないほうがいいんだな」
相田の下の句に対して、である。
しかし、まるで私の働く姿に対して言われているようでもあった。
(「燕市吉田地区6」へ続く)