谷川俊太郎「日日」に重ねて
二十五歳になって、文章を書けるようになった。いや、もちろんいまから書くのだから、書けるようになったというのは、明らかに早とちりだ。何も書けずに終わる可能性もある。むしろ、その可能性が高い。それでもやはり、文章を書けるようになった自分がいる。二十五年間を生きた末に、確かにいるのである。
二〇二一年の秋から、多拠点で暮らしている。定まった住居を持たず、全国に点在する拠点を周りながら暮らしている。日本にはすでにいくつか、そういった多拠点生活のためのサービスがあり、そのひとつを利用しているのだが、そのことについてはいまは措いておく。
茨城県・東京都・神奈川県・静岡県・新潟県・富山県・京都府・奈良県・兵庫県・広島県・山口県・福岡県・大分県・宮崎県・鹿児島県・熊本県。十カ月あまりの間に、計十六都府県、延べ三十一拠点を周った。
二泊三日で終わる旅行ではないので、荷物は少ないというわけにはいかなかった。財布やカメラをしまうショルダーバッグに加え、七十リットル程度のキャリーケースに、洗濯ができなくても五日程度はもつ量の衣類、拠点で自炊をするための調味料、パソコンは私用のものと会社員の宿命として仕事用のものの計二台、空いた時間に読むための本数冊などを詰めこんで移動をした。
急な坂の上にある拠点が意外と多く、そういったときに荷物を運ぶのに難儀することはあるものの、どこか放浪者的な癖があるのか、この生活自体は性に合っているようで、いまだに続けている。
たまに神奈川県にある実家に帰ることもある。その際には、自室の本棚に読み終わった本をしまい、新たに持っていく本を、ああでもないこうでもないと考えあぐねるのが密かに幸せな時間だった。
ところで、そんな入れ替えの試練を乗り越え、十カ月間ずっと、キャリーケースの中に残り続けている本が一冊だけある。谷川俊太郎のデビュー作『二十億光年の孤独』だ。詩集だからか、読了しなければならないとう使命感は大してない。実際にも、虫食い風に読んでいるせいでまったく読み切ってはいないわけだが、だからといってそれが持ち歩き続ける理由でもない。きっと、お守りのようなものなのだ。持っていることに意味がある。ときおり開いて、好きな一節を、それがちゃんとそこに書いてあることを確認できればそれでよいのである。
春のある日の夕暮れ、鎌倉の山間で、この詩集を読むともなく読んでいた。そして、「日日」という短い詩に出会った。彼は詠う。
じわりと沁みてくる余韻は、質感のある濃ゆいものだった。
この「僕」は僕のことだ。
いろんなことに惹かれ、憧れた。それらすべてに手を出してみるが、しかし、どれも違った。より正確には、自分がそれをする必然性がいくら吟味をしても分からなくて、自分をそこに固定する決断に到底至ることができなかった。「何者かである」ことへの半ば強迫観念めいたものに急かされる一方で、「自分である」ことの純度に妥協しない精神的な潔癖症が、何者かの候補をひとつひとつ消していったのだ。希望と失望は、陽が昇って沈むように、周期的にやってきた。希望が長続きすることもあるが、それはいずれ沈んだ。あれもこれも、結局は違った。そういった日日は「暮れやすい」日日だった。
そこでの歩みは、「傾斜」という二文字にすべてが込められているようだった。直立できない僕の足場は不安定で、水平な地平線と対峙し損ねていた。
余韻が濃いのは、しかし、もうひとつ理由があった。「僕」だけでなく僕にとっても、そういった日日が出口に向かっていることが徐々に感づかれていたのだ。自分を固定してもいいと思えるような、いやそもそも自分はそこにいたのだと思えるような地点を見つけてしまったのではないか。こういう予感めいたものが胸の内を渦巻いているのだ。その地点では、地平線そのものが傾いている。僕の歩みの傾きに近しい角度で。
この予感が、手放しで喜ばしいことなのかについて、確かな自信はない。しかし、ここから対峙を始めよう。傾いた世界で、まっすぐ立ってみよう。そう決めることができたとき、幾度も躓いていた「文章を書く」ということができるようになった。それは自分の傾き度合いがある程度判然としてきたからであり、端的に言えば「そういう自分にとって書く意味があること」が理解されてきたからである。
このnoteで書きたいこと
このnoteの展開を、いまの時点で思う範囲で、素描してみよう。
まず、傾斜して歩んでいた暮れやすい日日のことを書く。これは主には、旅や多拠点暮らしの物語となるだろう。
次に、傾いた世界でまっすぐ立つことの表れとして、いくつかの企画を立てて記事を書く。旅や地域や本を主題とすることを予定している。
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