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リラックスできる読書と、疲弊するネットの違いを考察する

同じ文字情報なのに、本を読むのはリラックス出来、インターネットをめぐるのは疲弊してしまう。今日はそのことを考えよう。

同じ文字情報と、媒体の差

インターネットはもともと、HTMLという文字情報を表示する形式でスタートした。これはコンピューター黎明期においては画像を出したり動画を動かすといった処理を行うには余りにいろいろ非力過ぎたためで、技術とCPUの発達に伴って画像が貼られ、動画が掲載され、インターネット上の表現は豊かになった。

だが、依然としてインターネット上のWebサイトに記載された情報は文字情報が少なくない。文章はインターネット発達の経緯や伝達性において簡便さでは画像や動画に追随を許さない。もちろん適宜画像や動画を差し込んだことが良いこともあり、使い分けである。

前置きが長くなったが、要するに本とインターネットは情報伝達において文章を取り扱っている点では違いがない。そこに後者は動画があることがアドバンテージだろうか。画像は本でも載せれるし、違いがない。

しかし、ある研究ではインターネットを1時間やると別にやった2時間の学習効果が無になるほど知的能力に悪影響をおよぼしてるっぽいとかいう統計データがある。ググレばでる。真偽はどの程度あるかはさておき、インターネットに文字情報を置く者としてはなぜそんな悪影響が出るのか気になるところだ。本とWebサイトではあくまで文字情報を取り扱っている点では違いがないはずである。

だが、Web小説と本の小説だと頭の中の処理に差が出るかもしれないとなると、何処の違い故か、大規模な研究とかは無理にしても類推するくらいはしてもいいだろう。タブンネ。

インターネットと本の最大の差は情報の主軸の有無

で、あれこれ考えてみたが、インターネットと本の最大の違いは供給される情報に一貫性を保持した関連性があるかどうかってとこだと推測している。当然、一貫した情報調査を行えばインターネットでも本同様に一貫性を保った情報摂取はできる。

ただ、近年では何かと言うと広告が貼られ、SNSではフォローした相手次第で脈絡がまったくない小粒な情報が無限に流れるし、ニュースサイトでは全然関係ない情報同士が隊列を組んで流れていく。つまるところ、情報の混沌だ。

SNSなら個人的な日報に、ゲームプレイについての覚書、公的な報告とさらに広告が混ざって愚痴とかも乗っかってくる。それらは個々人の全く異なる事情に基づいて供給されるため、そこに情報の軸がまったくない。強いて言えば、人生の一面を切り出しているといえなくもないが、個々のつぶやきに関連性は見いださない方が普通だろう。因果関係が無いものに因果関係を見ようとするのはもはや幻覚であり、そういうのはやめたほうがいい。あたまがおかしくなってしぬ。しななくてもしんだもどうぜんになる。

では、関連性のない情報が無限に流れてくることの何が悪いかというと、ひとえに情報過多によるお脳への負担と、知的理解としての蓄積がされないところである。

人間のお脳は、ニューロンネットワーク、神経による網目によって連結され、情報を処理する作りになっている。ここに関連している物なのか、物事を覚える時は結びつきが重要になってくる。どうも、関係のない情報を大量に打ち込まれるのはニューロンに良くないようだ。

例えば、教科書を例にとって話そう。
国語は国語、数学は数学、理科は理科。一冊の本に違う科目がごった煮になってしまっていることはまずない。在ったとしても、相当な悪書扱いは免れないだろう。なんか画期的な教育手法とかが見つかれば話は別だろうが、人類がこれまでの進化の延長線に乗っているうちはなさそうである。

ではインターネットはどうかというと、現代だとひたすら一貫した情報が取り扱われているサイトはほとんどない。情報サイトでも、姉妹サイトの宣伝だったり広告だったりジャンルを幅広く取った結果、ごった煮状態になっていることが少なくないだろう。今や一冊の書のように整った内容のサイト、などというものは希少種だ(年がら年中あれこれノンジャンル状態の俺が言えたギリではない)

じゃあ本はそういうごった煮の本が無いかというと、本の方が先達だから当然ある。雑誌だ。とはいえ、雑誌も何らかの根幹となるテーマが設定されていることがほとんどで、全くの関連性にかけた情報が雑然と記載されているものは少ない。だから、本当に混濁としているインターネットとは近いようでやっぱりかなり遠い。

編集技術が蓄積され、ノウハウとして知の編纂の結集物である書籍と、どうにも製作者側の都合が山盛りになってしまったインターネットの混沌を比べると、知を育てる観点では後者に不利の軍配があがってしまうようだ。もっとも、悪書もあれば良サイトもあるので、結局のところ使い分けがだいじってことになる。

無駄を削るところに、Webから書に落とし込む意義が出る

で、これまでWebと書籍では、情報という観点では大した違いがなく、利便性からWebの方がいい、という結論になりがちだった。利便性が良いのは事実だ。今や地球の裏側でもIT技術者タチの不断の努力によって情報を伝達することができる。これを紙媒体でやろうとすると大変だ。便箋ならまだしも一冊の本ていどでも楽ではない。

しかし、余分な情報が勝手に付いてくることがあまりにも当たり前になりすぎた現インターネットにおいて、余分が無い観点では圧倒的に書が勝るだろう。一つの情報の軸に沿って、必要な内容が盛り込まれているってのはかくも尊き代物なのであり、今後何年たってもインターネットが取り戻すのは困難な特性だ。情報伝達の観点において、あまりにも進化の分岐が進んでしまったので、インターネットが書に成り代わるのは無理があるし、書もインターネットの代わりは出来ないってことである。じんるいには、両方必要ってわけだが、今は書の重要性があまりにも軽んじられており、インターネットがあればそれで良いのではみたいな感じだがまったくそんなことはないのだな。

戦場へ

つまるところ、文字書きは積極的に書いた内容を電子書籍なりに落とし込む技術を持っているといい。ノイズが乗らないサイト、ってのは今後ほとんど産まれる見込みもないので、自分のコンテンツを贅沢に楽しんでもらうなら、サイトではなく書籍、に集約する意義がある。

もちろん、noteでもコンテンツの純度を高めて単独のコンテンツページとして特化することで実現できなくも、ない。なにをどう届けるか次第で取る選択肢が変わってくるだろう。

今回はここまで、またな。

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