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伝説の日本刀:(一) 源家重代の太刀『髭切』

本エントリーは『河井正博氏』よりご寄稿いただきました。
河合正博氏プロフィール:随筆家、歴史と刀剣の愛好者
本編は以下からどうぞ。

 平安時代の伝説の名刀と聞くと、まず、最初に思い出すのが、『清和源氏重代の名刀』、二振である。

 そう聞くだけで、正倉院御物に近い古雅な地肌に、反りの深いスラリとした姿の神韻を漂わせる『古典的な初期日本刀』の容姿が脳裏に浮かんでくる愛刀家は多いのではないだろうか! 

 そして、是非とも、その名刀を拝見したいものと儚い望みを抱いた平安・鎌倉時代の武士達は星の数ほど居たのではないかと想像される。
 このように、清和源氏には、名甲「源家八領の鎧」と共に、武家垂涎の名刀二振が代々嫡流家に伝承されていて、その名は、『髭切(ひげきり)』、『膝丸(ひざまる)』だったと伝えられている。

 その異称の由来はというと清和源氏の始祖源満仲の時代に遡る。
『源平盛衰記』によると、「六孫王経基」の子源満仲が天下を守護すべき名刀を求めて二振の太刀を名工に造らせたところ、予想以上の素晴らしい太刀が出来上ったという。
 余りの出来の見事さに感動した満仲は、家臣を呼んで試しに有罪の者を斬罪に処するよう密かに命じたのだった。

 試し斬り後の報告によると、一振は首と共に罪人の髭を切り払う鋭さだったし、もう一振りは斬り手の勢いが余って罪人の膝まで斬り込んでしまったと伝えられた満仲は大いに喜んで、前者を『髭切(ひげきり)』、後者を『膝丸(ひざまる)』と名付けて愛蔵したという。

 それでは、源家重代の名刀の中でも源家嫡流に相伝された『髭切』の太刀の行方を追ってみよう。『髭切』の長さは2尺7寸と伝えられ、センチに直すと約82cmの勇壮な姿だったと伝えられている。戦場に臨んで、「源太の産着」と名付けられた大鎧を着用し、長寸の『髭切』太刀を佩用した歴代の源氏嫡流家の姿は、伝説になるだけの勇壮さと威厳があったと想像される。

 所が、満仲の子頼光の代に、この太刀に『髭切』とは異なる別称が付いたことによって、この名刀の伝承は混乱することになる。
 満仲の嫡子頼光の時代、頼光は都で猛威を振るう鬼退治のため『髭切』を部下の勇士渡辺綱に貸し渡している。鬼に襲われた綱だったがひるむこと無く、一条戻橋で『髭切』を振るって、襲い掛かる鬼の腕を切り落とした為、髭切は「鬼丸」または、『鬼切丸』と新たな呼称が加わって、名刀としての声価は益々高まっていった。

 その後、『髭切=鬼切丸』は源頼義、義家、為義、義朝、頼朝と源家嫡流に相伝されて、頼朝の没後は、子の二代将軍頼家、三代実朝と相伝されたと想像されるが、鎌倉幕府滅亡と共に、『髭切』の太刀の伝説は、プッツリと途絶えてしまうのである。

 『髭切』の伝説は途切れたが、一方の『鬼切丸』の伝説は、鎌倉幕府滅亡で途切れることはなかったのである。
 当時の戦乱の世を描いた軍記物語、『太平記』によると鎌倉幕府滅亡後、『鬼切丸』は寄せ手の大将新田義貞の所有となり、義貞は常に身辺を離さず愛蔵して各地の戦いに臨んでいる。

 建武の中興の瓦解後、北国で南朝勢力の再興を目指した新田義貞だったが、藤島での北朝方の足利勢との突然の遭遇戦に於いて討死を遂げた結果、『鬼切丸』は義貞の敗死後、足利方の大将斯波高経(しばたかつね)の元に、義貞の首と共に届けられている。 

 高経は、その後、将軍足利尊氏の『鬼切丸』を見たいとの度々の要請を無視しているところをみると、同刀の持つ名刀ならではの気品と伝来の高貴さもあって手放しがたくなり、密かに愛玩していたものと思われる。

 その後、室町時代になると、『鬼切丸』の太刀は斯波氏の子孫である羽州探題最上家に伝来して戦国時代を迎えている。

 戦国時代後期の同家の武将最上義光(よしあき)も同家の誇りある先祖伝来の家宝として『鬼切丸』を愛蔵している。
 義光により最上家は同家最大の領地を獲得し、仙台の伊達家と共に東北最大の大名として君臨したが、義光の没後、最上家は内政の失敗により幕府から取り潰しの処置を受けることとなった。その結果、名刀『鬼切丸』は最上家の手を離れて売りに出される不運に遭遇してしまったのである。

 しかし、幸いな事に名刀の伝来を尊重する有志によって後に購われて、北野天満宮に奉納されて安住の地を得られたのであった。

 同社の神宝として現在「重要文化財」に指定されている『鬼切丸』の長さは、84.4cm(2尺7寸8分5厘)、反り3.69cm(1寸2分2厘弱)と腰反り高く、元身幅の広い堂々たる太刀姿に如何にも時代を感じさせる小乱れの刃紋に足葉入り、乱れ映りが立っている。

 平安時代の伝承の長さ(2尺7寸)よりも現存品の長さは若干長いようだが、古い伝承なので若干の差異は致し方ないのかも知れない。
 しかも、この太刀は、あの有名な「童子斬り安綱」の太刀と同じ作者の「安綱」在銘の古雅な名刀で、如何にも有力武家の伝来を感じさせる名品であった。

 以前、最上義光縁の山形市の展示会でガラスと越しではあるが、『鬼切丸』の太刀と対面した折の感動は大きかった。
 平安時代の伝説の名刀『髭切』と北野天満宮所蔵の宝刀『鬼切丸』が同じ太刀かどうかは、文献的な裏付けが少ないので判断に迷うところだが、源満仲の生きた年代と同じ、永延頃の刀工といわれる伯耆安綱の最上家伝来の名刀が現存しているのも嬉しい限りであり、この一点を見ても、如何にも先祖と伝統文化継承を大切にする日本らしい現象ではないだろうか!

参考文献
 『源平盛衰記』
 『太平記』
 『平家物語』※しいてあげるなら、とのこと。
『河井正博氏』の寄稿マガジンは以下をご覧ください。

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