流星葬【短編小説】
長らく音信不通になっていた父の消息が分かったのは先月のことだ。父は僕が十八歳の時に、僕と母を捨てて女と逃げた。行方をくらまして以来、二十二年が経っていて、霊安室に横たわる老人の遺体を見てもほとんど実感が湧かなかった。
遺体が発見された時、枕元には僕宛の手紙と、とある葬儀業者のパンフレットが入った封筒があった。手紙が入っていた封筒に書かれている連絡先は僕の現住所で、父がそれを知っていたことに驚いた。母が亡くなった時も行方が分からず、連絡できなかったけど、もしかしたら父は母の死も、墓の場所も知っていたのかもしれない。
僕宛の手紙にはたった一行、
「尚久(なおひさ)へ。葬式はここで頼む。料金は支払い済み。世話をかける」
と、あった。名指しされた上に血縁もあり、断れそうにない。まさに降って沸いた災難だ。担当の事務員らしき人から死亡診断書を渡され、何枚かの書類にサインさせられた。とにかく早く業者に連絡して遺体を引き取るよう強く促され、その場でパンフレットの業者に電話をかけた。
幸いにも葬儀会社は、霊安室のある建物のすぐ近くで、業者はあっという間にやって来た。僕らは霊安室の一つ上の階にある、小さな会議室で顔を合わせた。業者はかなり小柄で、全体に丸みを帯びた体型は、愛嬌のあるタヌキ、という印象だ。差し出された名刺には、こう印刷してある。
『〜美しく心に残る永遠の思い出と共に〜
株式会社ながれぼし
社長 綿貫 陽介(わたぬきようすけ)』
僕は簡単に事情を話し、父がお金を払ったのは事実か確認してみた。正直言って疑わしかった。父が発見されたのは家賃が最低ランクのボロアパートで、来年には取り壊す予定になっていたらしい。かと言って、自分ではビタ一文払いたくない。母は僕には穏やかな顔しか見せなかったけど、きっと内心は色々あったに違いなく、そんな思いをさせた父を僕はまだ許していなかった。
綿貫は深く頷いた。
「はい、もうお支払い頂いてます、百万円。四ツ谷(よつや)さん、ご友人のお葬式でウチの式に参加されて、いたく感動なさったそうで。何度もウチまで足を運んでいただいて、それは熱心にお願いされましたよ。
まぁ、このお値段で普通はお受けできませんが、あまりに何度もお願いされるので、ウチの仕事を時々手伝って貰って、足りない分を仕事で賄って頂きました。式が重なった時の運転手とか、会食の雑用とかですね。細かい仕事いーっぱいあるんでね、助かってました。プランもご本人と打合せ済みで、承諾も頂いてます」
ニッコリ笑うと、鞄から契約書を出して広げた。契約書には父のサインと捺印がある。次にパンフレットを鞄から出して机に置いた。表紙には「流星葬(りゅうせいそう)」のタイトル文字がある。彼は「葬儀の流れ」と書いてあるページを開くと、そこにはこうあった。
ご遺体のお引き取り
↓
①お通夜(⭐︎)
↓
②夜伽または半通夜(⭐︎)
↓
③お葬式(⭐︎)
↓
④火葬
↓
⑤納骨(⭐︎)
↓
⑥流星葬
※⭐︎マークは必須ではありません。ご要望がある場合のみ承ります。
「簡単にご説明させて頂きますね」
綿貫はニコニコ顔のまま少し身を乗り出した。
「通常はこの流れになりますが、昨今は、今回のようなワケ有りの方のお式も多く承っております。なんでかって言うと、まあ他所に比べると融通がきくんですよ、ウチは。
こ希望がない場合はお通夜もお葬式もやらなくていい。通常は通夜、葬式、お寺とセットになってますから。まあ故人が生前、何らかの宗教に入信されていた場合は、ご遺族の方がお寺とお話しする必要が出てきますが。お通夜もお葬式も納骨もされて、尚且つ流星葬もご希望される、そういう方も多いです」
僕は淀みなく続く彼の話を途中で遮った。
「あの、この最後の流星葬、というのは……」
綿貫は笑顔をますます大きくした。
「それがウチの目玉でして!お骨を流れ星にするんです。簡単に言うと宇宙での散骨です。上空200kmの低軌道上までお骨を運んで、そこで……企業秘密の細工を色々やって、地表に落とす。地上からは流れ星に見える、と、まあそういう仕組みです」
「そんな事が可能なんですか。だとしても、かなり高額になるんじゃ……」
綿貫は何度も頷いた。
「そう、有人のロケットを宇宙に飛ばすには天文学的な費用がかかります。けどそれは主に生きてる人間が乗ってるからです。宇宙服だけでも、一着十億円ですからねえ。あと基本的にリサイクルできないためと、食料その他、荷物が多いからですよね。
ウチは専用ドローンでお骨を上まで運んで、そこから撒くだけです。お骨は燃え尽きますしドローンは回収するんでスペースデブリ(宇宙ゴミ)も出ません。
ちゃんと地上から見ることが出来るよう、気象や時間帯や撒くタイミングを合わせる必要がありますけど。そこは経験とコネです。まあ大きい声では言えませんが上と色々繋がりがありまして」
綿貫は手を口の脇に添えて声を潜めた。僕は勢いに飲まれて頷いた。綿貫はさらに細々とした事を説明した後、書類を取り出した。僕はそれに署名捺印し、父の遺体を引き取ってもらい、正式に「流星葬」の手順に沿ってことを進めることになった。
自宅に戻ると、妻の紀子に事の次第を話し、事情があるとはいえ独断ですすめたことを詫びた。僕達は一昨年結婚して、子供は居ない。彼女は驚いていたけど、僕の父親のことはある程度話してあったので、どうにか事態を飲み込んだ様子だった。
紀子はサラダの皿から揚げた蓮根をつまみ、口に放り込みながら
「じゃあ、ご遺体はもうあっちにあるのね。お通夜もお葬式もしないの?」
僕はハヤシライスをスプーンで掬う。
「そういうプランで契約してるって。あの人らしく最後まで自分勝手だよ。けどまあ、葬式やる予定だったとしても、身内以外で呼ぶ人がいるかどうか、僕には分からないけど。とりあえず今週末、火葬だから、立ちあって来る」
「私も行くよ。ナオの叔父さんにも連絡しないとだよね。私の方は……連絡はするけど、来てもらう必要はないよね」
「うん。親戚はウチの方だけでいいと思う」
紀子は僕をじっと見つめてきた。
「ナオ、大丈夫?」
「なにが?」
「だって……色々あったとはいえ、お父さんだし……」
「大丈夫だよ。親子の縁はとっくの昔に切れてる」
僕の返事は早すぎたかもしれない。自分でもよく分からないモヤモヤが胸にわだかまっている。僕は悲しいのか?たぶん違う。じゃあこれは何だ。……僕はそれから目を逸らした。
「そう」
紀子はそれ以上、この話題を追求しようとせず、喪服出しとかないとね、と言った。
火葬場は山の上にあった。施設は広くて小綺麗で、パッと見、シンプルで感じの良いホテルのようだ。シックで洒落た玄関から入るとスタッフが出迎えた。
「四ツ谷様ですか」
「はい」
スタッフは僕と紀子、そして叔父夫婦を父の棺のある部屋へ案内した。叔父は棺の中を覗き込み、複雑な表情で弟の死に顔を見つめた。
「……まあ、次に会う時はこうなってるかもしれないと、何となく思ってはいたけど……こんな顔してたっけなぁ」
僕は頷いた。
「見覚えがある気もするけど、確信できないって感じですよね」
叔母の気遣わしげな視線を感じる。その時、いきなり部屋に綿貫が入ってきた。彼は慌ただしく僕らに挨拶し、名刺を配った。
「いやあ四ツ谷さんは一時期、仕事でご一緒しましたから。知らない仲ではないといいますか。最後にご挨拶を、と思いまして」
綿貫はそう言いながら、父の顔を除き込んだ。彼の顔を常に覆っているオーバーな営業スマイルがすっと凪いで、穏やかな、いたわるような表情が浮かぶ。
「お疲れさまでした」
綿貫は静かに言葉をかけると、僕らの方に顔を向けた。表情は瞬時に営業スマイルに戻っている。
「大変申し訳ございません。なにかと立て込んでおりまして、私はこれで失礼させて頂きます。この後のことは、斎場の皆さんがご案内いたしますので。ではっ」
綿貫はせかせかと部屋を出ていき、僕らはポカンとしながら彼を見送った。紀子が小さな声で「本当に顔だけ見にきたんだ……」と呟いた。
火葬が終わると、僕らは部屋に案内された。焦げ臭いツンと鼻を刺すような匂いが漂う。狭い部屋の真ん中に棺大の枠があり、そこに人の骨格標本のような骨が横たわっている。骨は漂白されたように、うっすらグレーがかって白く、よくできた石膏細工にも見えた。
さっきまでこの世に在った男の肉体は、もうどこにも存在しない。そして目の前の骨とほぼ同じものが、自分の中にもひと揃いあるのだ。僕は思わず自分の顎に触れ、皮膚の下にある骨の感触を確かめた。
スタッフの説明に従って、僕らは幾つかの骨を長い箸で摘んで浅葱色の骨壷に入れた。僕は指示されるまま、喉仏の骨をつまみ上げ壺に収める。骨壷は白木の箱に入れられて、白い布に包まれた。
残りの骨は、これから特殊な方法で圧縮加工され、30cm四方の立方体になるのだという。
骨壷の入った包みと埋葬許可証を持ち、僕らは斎場を出た。予約していた料亭で、精進落とし用に整えられていた料理を囲む。僕は叔父のグラスにビールを注ぎながら、この後の手順について話をした。
「葬儀は早くても二ヶ月位先らしいです。夏頃でしょう。けど、その時の気象条件が整わないと延期になるそうです。何度か延期になるのが普通らしくて」
「流星葬ねえ。どんなもんなんやろなぁ。予定が早めに分からないのはちょっと困るかなぁ」
「僕と紀子は、割りと融通が効くんで大丈夫です。叔父さんと叔母さんは、無理しないで下さい」
叔母が申し訳なさそうに
「ごめんね、ウチは夏が特に忙しいんよね。定休日に当たってくれると助かるんやけどねぇ……」
と言った。叔父夫婦は蕎麦屋を営んでいて、サラリーマンで賑わう夏場は書き入れ時だ。
だけど、そうでなくても、僕は父の為にこれ以上、周りを犠牲にしたくなかった。父の思い出は、僕の心の触れたくない陰の中に沈めてあって、目を逸らすことに慣れすぎ、改めて見つめる事は難しい。
紀子と叔母さんは父に会ったことが無かったし、僕と叔父は嫌な思い出しかなかったので、その後は何となく父の話題は避け、当たり障りない世間話に終始した。その後、叔父夫婦を自宅まで送り届け、父の火葬は終わった。
七月。前日まで降った雨が嘘のように晴れ渡り、流星葬の予定は確定した。ギリギリまで分からなかったので、僕らだけで行くことになった。
僕と紀子は会場となる高原近くの駅まで三時間かけて移動した。駅から送迎バスに乗り、昼過ぎには山頂付近にある高原ホテルに到着して、チェックインを済ませ、ようやくひと息つく。
「やっぱり涼しいし、空気が綺麗だよね。天体観測にうってつけって感じ」
紀子は部屋の窓から景色を眺め、少し嬉しそうに言った。目の前には広い草原がどこまでも広がり、緩い下り勾配のずっと先は森で途切れている。目的を思えば浮かれることは憚られるが、どうしても観光気分になる。
こじんまりとしたホテルは、僕ら同様、流星葬に参加する人々でほぼ貸切状態だった。宿泊費用は代金に含まれている。
綿貫の話によると一度に行う流星葬は三十組だそうだ。流星が三十個ではあっという間に終わってしまうので、特殊なブロックを一緒に落として、約五分の間、途切れる事なく流れ星が見えるようにするらしい。五分の天体ショーの為にひとり分だけで数百万円の費用がかかることを思えば、かなり贅沢な話だ。
葬儀が始まる時刻までに、ホテルのビュッフェで夕食を取ることになっていた。
皿の上のローストビーフをつつきながら、僕の気分はどんどん下降していく。一体なぜ、こんなに気分が落ち込むのか……?僕にとっては、ほとんど他人も同然の男のために。
父には短気な処があって、職場でもよく揉め事を起こしていたらしい。そんな時、父は家に帰ってくると、僕と母に言いがかりをつけて、怒鳴ったり殴ったりした。
機嫌が良い時には明るい会話もあった気がするけれど、何がトリガーになって怒り出すか分からず、僕も母も、いつもビクビクしていたように思う。
父が居なくなった時、僕は、母への裏切りに怒りもあったけど、これで怯えずに済む、という安心の方が大きかった。母は自分の気持ちは、言葉を濁してハッキリ答えなかったけれど、僕が父の悪口を言うと悲しそうな顔をした。
父が多くない稼ぎのほとんどを注ぎ込んで拘ったという自分の葬式。父が母の死を知っていたなら、流星を見せたい相手は僕と叔父しか居ない。僕の中の身勝手な父の像と、今の状況が結びつかない。父は本当はどんな人間だったのか?
……もう知る事はできないし、知りたくもない。
遺された者の務め。そう自分に言い聞かせてきたけれど、違和感は大きくなるばかりだ。どうして今更、目を逸らし続けた心の暗い片隅に光を当てなくてはいけないんだろう。
「ナオ、食欲ない?」
紀子の声で我に帰る。
「……ちょっと気分が悪い。時間まで部屋で休むよ。紀子はゆっくりしてて」
「ううん私も、もうお腹いっぱい。部屋に戻ろっか。朝が早かったし、疲れが出たのかも」
僕らは部屋に戻った。僕は軽くシャワーを浴びて、時間まで横になることにした。
僕はまどろみ、途切れ途切れの浅い眠りの中であの夢を見た。バイトの帰り道、夕暮れの赤い光の中で、離れた場所から僕を見つめて立ち尽くす黒い男のシルエット。男が何者か、僕は一瞬で悟ってしまう……そして気付かないフリをする。
式の出席者は玄関前に集合した。式といっても皆、普段着だ。綿貫はしきりと電話をし、関係者と連絡をとりながら、僕らの前に立って引率を始めた。
空は一面の星で、その美しさに感嘆の声が上がる。目的地はホテルのすぐ近くに広がる草の緩い斜面だった。家族毎に小さなメガホンと、一枚のレジャーシートを渡されて、僕らは適度に間隔を取りながら、そこに座った。
綿貫は拡声器を取り出し、まじめくさって挨拶を始めた。
「あーあーテステス。えー皆さま、お忙しいところ、遠い会場までお越しいただきまして、ありがとうございますー。株式会社ながれぼしの代表、綿貫と申します。
いやあ昨日は気を揉みましたが、今晩は絶好のお日和でホントーに良かった!
現在、我が社のドローンは上空200km地点で、秒速数キロというスピードで軌道上を回りながら待機中です。地球は自転してますんで、それに合わせて位置を調整する必要があるんですねえ。
地上からベストな状態で見る為には、落とす場所とタイミングが重要です。さらに、より大きく明るく燃焼させるように、特殊な繊維で遺灰の塊を覆ってます」
綿貫はごほん、と一回、咳をした。
「落とされた遺灰は大気中で全て燃え尽きて気化します。気体になる、つまり地球を覆う大気の一部になるわけです。皆さんの吸っている空気、その一部になって世界と一体化する、そう言えるでしょう。
それが素敵だという理由で、流星葬を選ばれるお客様も多くいます。ですが最も大きな動機は『遺される皆さんの中にきれいな思い出として残りたい』という気持ちです。ご自分の式に流星葬を選ばれるお客様は、特にその気持ちが強い方が多いようです。
……見方を変えると、ご家族と良い関係を築くことが出来なかった、と、いう方が多いようなんですね。で、その場合、ご遺族の方も気持ちが整理しきれなくて、お式をドタキャンしたり、ここにきて悪態をついたり泣き喚いたりすることも珍しくないんです。
それは悪いことじゃありません。むしろ良いことだと思います。わだかまりは解消するに越したことはない。ですが、これから流れ星になって地上に戻ってくる方からしたら、じっくり皆さんに見てもらって、心に焼き付けて欲しい、そう思っている筈です。……なので」
綿貫はいったん言葉を切り、大きな笑顔になった。
「今から十五分の間『故人に言いたいことを思いっきりブチかまーすタイム』を儲けます。皆さんのお手元にメガホンがありますよね! それを使って、今のうちに言いたい事を言っておいて下さい!
ほら『愛してるー』って奥さんとか彼女さんとかに高い所から叫ぶイベントあるじゃないですか。あんな風にね、思いのたけを叫んで欲しいんですよ。私は残念ながら愛を叫ぶ相手は今のところ居ませんけどね、常時募集中ですけどね、まあそれはいいです。故人に何か文句言える機会はこれで最後だと思って、思い切りブチかまして下さい! さあ! 後悔のないように!」
キィン、と拡声器に小さくハウリングが響き、あたりはしーんと静まり返った。僕らは突然の展開に戸惑っていた。夜の闇の中、お互いに顔を見合わせる気配が辺りに満ちる。
故人に文句? 言いたいことを言う? ……僕は心の底にグツグツたぎる何かを感じる。そうだ、父への文句なら腐るほどある。今、いま言わないと。でも苦しい。僕は自分の胸の辺りをギュッと右手で掴んだ。動悸が激しくなり、何度か深呼吸する。
突然、隣の紀子が勢いよく立ち上がり、僕は驚愕した。紀子はメガホンを口に当てると、すぅと大きく息を吸って
「じゃあ一番、四ツ谷紀子、いきまーっす! 生前にお会いしたことないですけどお義父さん、あなたの息子の嫁ですーっ。
ナオはめちゃくちゃ良い夫です。私、いますごく幸せです。でも、ナオはあなたの事で長いこと苦しみました! 高校からの付き合いなんですけど、話が父親の事になるといつも苦しそうでした。今も凄くしんどそうです! お義母さんはとても優しい方でした。二人を苦しめたあなたには怒りしかないです!
けど、ナオの半分はあなたから受け継いだもので、ナオと会えたのも半分はあなたのお陰なんです。それだけは感謝してます!ナオをこの世に生み出して下さってありがとうございます!
お義母さんに会えましたかあ、もし会えたら土下座して謝って下さい! 許してくれるまで永久に謝り続けて下さい。いいですねーっ! 」
紀子は息をきらして言葉を切り、すとんと座って、僕を伺うように見た。僕が何か言う前に、ダッハハハと綿貫の大きな笑い声が聞こえた。
「いいです! いいですねーっ素晴らしい! 旦那さん、今の奥さんの心の叫び、愛が溢れてますよね! いやあ羨ましいなあ」
紀子は勇気づけるように笑って僕にメガホンを渡した。僕は立ち上がった。
「僕はぁー! ずっと考えないようにしてきたっ! アンタのこと! 母さんは一度もアンタを悪く言わなかった。あんなに優しい人をなぜ裏切ったりしたんだ!? 母さんが許しても僕は許さない、これからもずっと、死ぬまで許さない!
出てってから一度だけ、会いに来たよな。僕に。遠かったし五年経ってたけど一瞬で分かった。あんなに頭の中から追い払って、写真も全部捨てて、なのに何で僕は分かってしまうんだろう。いい思い出なんてひとつも思い出せないのに。
どうしていいか分かんなくて気づかないフリをした。けど後で後悔した。駆け寄って殴れば良かった。顔が分からなくなるくらいボコボコにしてやれば良かった。そうしてたら、もしかすると許す気になったかもしれない。あれが、そう出来るたった一度のチャンスだったのに。
僕にそう思わせたアンタを憎む。アンタが僕に出来ることは憎まれることだけだ、たかが葬式ひとつで許せるもんか。いい思い出になんて絶対にしてやらねぇぞクソったれ! 地獄に堕ちろっこのヤローっ!!」
叫んでる途中で声が割れて涙が出てきた。僕は息を切らせて座り、涙を拭った。またもや綿貫の爆笑が辺りに響き渡った。
「ワッハッハハハ! いーです、いいんですよ! 許さなくてもいいんです!家族に迷惑をかけたまま責任を取らずに死ぬ人は、言うなれば逃げ得みたいなモンですからねー。我々は、まだこの先、長い時間、生きてかなきゃならないですからね!
死人の気持ちを推し量ってこっちが苦しくなることないんです!そう、たった五分の天体ショウごときで全部チャラになるわけなんてないです。けど、できればここでね、荷物をいくらかでも下ろして下さい、そのための時間です! さードンドン行きましょう」
僕らの隣のレジャーシートに座っていた女性が立ち上がった。
「あんたがぁ、あたしに隠れてフーゾクに通ってたのも、会社の女と浮気してたのも、ぜーんぶ知ってたんだからねぇ! バレてないって思ってたでしょ! それでも最後まで面倒みたんだから、残ったあんたのお金、好きに使わせてもらいますーっ。夢だったバリに行ってエステ三昧してやる。今までの分、思いっきり楽しんでやるからねーっ」
女性が座ると、また次に立ち上がる人が居た。次々と人々は立ち上がって、メガホンに思いの丈をぶつけている。暗くてよく見えないけれど、叫んだ後はきっとスッキリした顔をしてるんだろう。今の僕みたいに。僕は紀子の手を取り、握りしめた。
皆んながメガホンに向かって大声で怒鳴り、かなり空気がほぐれたところで綿貫がひときわ大きな声を出した。
「はぁーい皆さん! ひっじょーに素晴らしい心の叫びでした!! さあ、そろそろ頃合いですわ。空にご注目下さぁい。沢山流れますんでね、願いごとをする良い機会ですよ。まあ流れるのは星じゃないので、願いが叶うかは分かりませんが」
再び辺りがしんと静まった。まさに降るような星空。光り輝く白い煙のような天の川の辺りに、僕らは視線を彷徨わせる。
こんなに沢山の星を見たのは初めてだった。大きなカメラを構えている人も何人かいる。
その時、星がスッと長い尾を引いて流れ、すぐに消えた。「見えたっ」「流れたぁ」「今のがそう?」人々はざわめいた。
またひとつ流れた。
また星が流れた。
流れる頻度が高くなって、視界一面の巨大な夜空から、壮麗な星の雨が降りそそぐ。歓声が上がる。僕は言葉を忘れ、すっかりその眺めに魅せられた。
「すっごーい……」
紀子は瞬きを忘れて空を見つめている。僕は繋いだ手に力を込めた。紀子は僕を見て笑った。僕も笑い返した。
「どれがお義父さんなんだろね。あっ今の凄く大きい! 見た!? きっとあれだよ」
空に視線を向ける。探す必要がないくらい、次々と星が流れる。死者の涙、いや違うな。泣くことができるのは生きてる人間だけ。許すことができるのも。今は無理でも、許そうと思える時が、いつか来るかもしれない。
生きている僕らは進み、変わっていく。さながら一人乗りのボートのように、川の流れに逆らい、時に押し戻されながらも、オールを握る手を決して離すことはない。
そうしていつかたどり着く、必ず。そう信じて。
(完)
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