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ななこの葬送【短編小説】

「これありがとう。家宝にするわ。マジで」
 狛馬こまばは手に持った本を掲げた。但野ただのは穏やかに微笑んだ。
「狛馬さんはそう言ってくれるだろうって思ってましたよ」

 狛馬は狭い会議室のドアを開け、但野を廊下へと通した。二人はそれ以上言葉を交わすことなくその場で別れた。
 但野は雑誌や本がそこここに積まれたフロアの端を歩いて編集部の出口へと向かう。そこに並べられた机にはどれも、漫画雑誌や本がぎっしりとひしめき、隙間を埋めるようにキャラクターグッズが飾られて、机の上には紙束の詰まった封筒が雑然と積み重なっている。

 出入り口に近づいたところで、パーティションから歩み出た樋口ひぐち真木まぎにぶつかりそうになった。樋口は慌てた様子で
「すみません但野さん、大丈夫ですか」
「樋口さん、どうも。問題ないです……あ、新人さんですか」
 樋口は頷くと、真木と但野を交互に見ながら
「そうっす、真木といいます。真木、こちらは但野さん。うちに前から出入りしてる、作家さん」
「はじめまして、真木です」
 慣れない様子で真木はポケットから名刺ケースを取り出すと、名刺を渡した。但野はそれを眺めると、丁寧な仕草で鞄にしまった。そして真木に向かって
「頑張ってください」と声をかけると小さく会釈し、CHAMP編集部を出て行った。樋口と真木は、その後ろ姿を見送った。

⭐︎ ⭐︎ ⭐︎

 フロアに並んだ机の列から外れた場所にある、ひときわ大きな机が狛馬の机だった。「編集長」と書かれたプレートがくっついている。積み上がった書類は机の上だけでなく、紙袋に詰め込まれたものがいくつも、机を囲むように置かれていた。背後の壁には連載漫画のポスターが貼られて、窓枠にキャラクターのフィギュアが並んでいる。

 狛馬は自分の椅子に座ると、抱えていた白い本を机の上に置いた。本をめざとく見つけたのは中野だった。本の表紙には、無地の白地にそっけなく黒い文字で“ななこ”と書いてある。中野は机の側まで近づいてくると、本を指差した。
「但野さん来てましたよね。編集長、それってもしかして……ななこの本ですか」
 狛馬は中野の顔を見ると、にやりと笑った。
「そっ、ななこ傑作選。但野さんが自分で金出して本にしたやつ」
 いつの間にか机の前に集まってきたCHAMP編集部の面々はざわめいた。
「えっスゲエ」「めっちゃ読みたいんですけど」「自費出版?何部くらい刷ったんすかねえ」
 編集部員たちは白い本を穴が開くほど見つめている。狛馬の許可がないと本に触れないためだ。狛馬は勿体ぶって本を取り上げると、パラパラとめくり、中野に手渡した。
「この世に一冊っきりの、超激レアお宝本だからな!絶対に汚さずに大事に読めよ」
 中野は受け取ると、少しだけ本を広げて中身を確認し、すぐに閉じた。そして視線を狛馬に投げる。
「一冊って言いました?えっ、これだけ?但野さんアナログ原稿ですよね。印刷所に入稿済みなら、何冊でも作れますよね」
「これしか作んないって。餞別だよ。家業継ぐために実家に帰るってさ。ここに来るのも今日が最後だって」
 部員たちは驚き「マジすか!!」と声を上げた。この中では比較的、年かさの千葉が悔しそうな顔をした。
「そんなあ。なんで俺たちには一言もないんですかー。声かけてほしかったなあ」
 狛馬は立ち上がると千葉の肩を軽く叩いた。
「寂しいのは但野さんも同じだって。ここに通った年月を思えば……な、わかってやれよ、長居するには辛すぎんだよ、きっと」
「まあ。けど、最後ならお話ししたかったです」
「来月頭までは今のとこにいるって言ってたから挨拶してくれば。喜んでくれると思うよ」
 中野は恐々、本を開いた。それは漫画で、吹き出しの中の台詞は手書きだ。但野の几帳面な文字で書かれたそれを眺めて、中野は一瞬、複雑な表情になり、そのまま無言で席に戻って読み始めた。周りで部員たちが「中野さん、次、おれ」「順番はアミダで決めんだよ」と言葉を交わしている。狛馬はメールをチェックすると、机の電話をとり、通話をはじめた。


 その一部始終を席で見ていた真木は、隣の席でノートパソコンにスケジュールを打ち込んでいる樋口に声をかけた。
「あの自費出版本って但野さんが描いた漫画ですよね?うちの作家さんって言ってましたけど、但野って聞いたことないっていうか、ペンネームはなんですか?」
 樋口は手を止めずに答えた。
「確か但野の名前で一冊出してるよ。紙の本。データベース検索してみ……けど、けっこう前だし全然売れんかったからなあ……あの人さ、狛馬さんが編集長になる前、駆け出しの編集だった頃、最初に担当した作家さんらしい」
「えっ!そんな古い作家なんですか?じゃあ、ここにいる社員とは全員、顔見知りなんですね」
「そ。ここでは有名人よ。一応デビューしてるし肩書きはプロだけど、出したのも一冊だけだし、あとはネーム持ち込んでひたすら連載目指して……ずーっとそんな感じで、何年になるんだろ、十年、いや十五年ちょい」
「ほんとに!?ええー……もうそれ、プロって言えます?」
 樋口は手を止めると、真木をチラリと見た。
「あの本、順番回ってきたら読ませてもらえ。んで、感想聞かせて。まーお前がなんて言うか大体想像つくけど」
「わ、その言い方、怖いっすね……けど、ある意味すごいですね。執念というか、打たれ強さ半端ないっつーか。いやだって普通、途中で心、折れるでしょ」
「なー。だからさ俺たち尊敬してんだよ、但野さんのこと。ほんっと今時のすーぐ辞めるだのなんだのゴネる若手に爪の垢煎じて飲ませたいわ」

 その時、樋口のスマホが鳴り、彼は瞬時に営業モードに表情を切り替えると声のトーンを一段上げた。
「樋口ですーすんませぇんお電話させちゃって、今日これから伺おうと……そう読み切りの件……ああなるほど……はあはあ、じゃあ見繕って持っていきます。いや大丈夫、新人連れて行くんで。じゃあ……十一時、には着くかと。よろしくですー失礼します」
 電話を切ると、付箋メモに“遊園地、遊具、今どきの子連れママ”と書き込み、それを剥がして、手帳の表紙に貼り付けた。そしてノートパソコンを閉じながら「行くぞ、名刺忘れんな。手帳とスマホ、あとなんかでかい袋、丈夫な。資料本入れるから。あとタブレット。電子でいけそうな奴は電子で」
 早口で指示を出すとノートパソコンを畳んで鞄に突っ込み、壁際のホワイトボードの自分の札と真木の札をひっくり返して『外出』にすると『14時戻り予定』と書き込んだ。真木は畳まれたエコバッグを二つ引っ張り出すと、自分の鞄に入れて、樋口の後を追った。
「ナカナカタ先生のとこですよね、十四時までかかります?」
 樋口はエレベータの前で立ち止まった。共有スペースにはエアコンの恩恵が及ばず、オフィスを出た途端に気温が上がる。暑さが苦手な樋口は、ハンカチを取り出して首筋を拭い、点灯する数字を眺めながら「そこ済んだら黒魔先生のとこ、ちょっと心配だし覗いておこう。一昨日から電話出ねえし。ったく、プロならどんな時でも連絡つくようにしとけってんだよなあ」と渋い顔をした。
 エレベータが着いてドアが開いた。二人はそれに乗りこみ、他に誰もいなかったので真木は口を開いた。
「樋口さん。但野さんの本、読みます?」
「当たり前。尊敬する作家の遺作だぞ、読まんでどうする」
「遺作って。まだ生きてるでしょ」
 エレベータが一階に到着した。樋口はドアをくぐり、真木の方を振り返った。
「諦めた時点で死んでるだろ、夢は」
 編集部が入るビルは周永社(しゅうえいしゃ)の第二ビルだ。二人はビルの従業員用出入り口から、日差しに灼かれ埃が舞う、アスファルトの歩道に足を踏み出した。


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎


 ナカナカタ、本名、中田一重なかたかずしげは「アッチョンブリケッ」と大声で叫ぶと両手で自分の頬をぐっと挟んだ。そして唾を飛ばしながら樋口に詰め寄った。
「いつよ!但野先生、いつ帰んのお」
 樋口は少しだけ後退りながら答えた。
「えーっと来月頭まではいる、って言ってたんで、その後でしょうけど、詳しくは知りませんよ。中田先生の方が仲良いじゃないですか」
 中田はよほど驚いたらしく、大仰な身振りで「あー」とか「マジかっ」とか呟きながら、部屋の中を大きな図体でのしのしと歩きまわり、寒いくらいに冷房が効いているにも関わらず、額を汗で光らせた。身につけたTシャツにプリントされたキャラクターの顔は、横に伸びきって別人のようになっている。彼は唐突に顔を上げると悲しそうな表情になった。
「ここ数年、忙しくて連絡とってなかったけど。来月?はあ、マジか。なあ連絡していいと思う?ずっと放置してたの、但野先生怒ってないかな?」
「それはないと思いますけどねえ。但野さん、うちに出入りして長いですけど、怒ったり大声出したりって見たことないですもん」
「そっか、そうだった。俺が但野先生のアシしてた時も、俺んとこにアシに来てくれた時も、いっつも穏やかで、修羅場でギスギスしても、うまーいことみんなを宥めてくれてさあ……漫画家諦めてもプロアシ(アシスタント専門の職人)でやってけると思うんだけど。実家って何やってんだっけ」
 樋口は思い出そうとして、目線を上にあげた。真木は後ろで漫画の下書きを見ながら、資料として使えそうなWebサイトを探して、ブックマークしている。
「なんか、旅館って聞いた気がします」
「旅館の跡取り息子?いいとこのおぼっちゃまか、どうりで。育ち良さそうだもんなあ。そっか旅館の主人とプロアシじゃあ、旅館だよな」
 中田は深いため息をついた。そして、ふと思いついた様子で「但野先生って、まだ編集部通ってた?」と尋ねた。樋口は頷いた。「毎月、最低でも一度は来てました。もっと来てたかも。狛馬さんが時間空いた時、みてたみたいで」
「ははあ、編集長みずから。なんかすげえなー絆。男たちの挽歌、カッけえ」
「ですね」
 樋口はポケットからスマホを取り出して、時刻を確認した。
「この後、黒魔先生のとこに行くんで、そろそろお暇します。あ、そうだナカナカタ先生にひとつお願いが。たぶん一時間くらいしたらLINEするんで、そしたら黒魔先生に電話してもらえません?但野さんのこと」
 中田は呆れ顔になった。
「黒魔っち、またお隠れあそばしてんの?ほんとしょうもないね、あいつは。いつまで素人気分でいるんだか」
 真木が慌ただしく撤収の用意をしている様子を眺め、中田はまたため息をついた。
「俺たちに逃げ場なんてないんだ。一度走り出したら、走り続けるか諦めるか、その二択なんだっちゅーに。連載枠を死に物狂いで守る気がないなら、とっとと悪霊退散してもらいたいね」


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 何度か呼び鈴を押しても応答はなかった。樋口はキーボルダーを取り出し、中のひとつを鍵穴に差し込んで解錠する。真木は驚いた。
「合鍵持ってるんですか?」
 樋口はドアを開けて、玄関に足を踏み入れながら「いざって時のためで、先生の許可はもらってる」と答えた。
 中は薄暗く、短い廊下の突き当たりにドアがある。外よりは涼しく、玄関に靴を脱ぎながら二人は息をついた。樋口はドアをノックし、声をかけてみる。
「黒魔せんせーい。いますよね?周永社の樋口です。下書き拝見に伺いましたぁ。進捗はいかがですかー?」
 樋口は何度かノックを繰り返し、スマホを取り出して、黒魔術子……本名、大石数子おおいしかずこの連絡先に電話をしてみる。相手のスマホの電源は切られていないようだが、ドアの向こうから着信音は聞こえない。
「いないんじゃないすか?」
 真木は声をひそめて囁いた。樋口は顔を顰めるとLINEを立ち上げ、中田に「先ほどお願いした件。今、電話お願いします」と打ち込んだ。すぐに既読がつき「了解」のスタンプで返答が返ってきた。二人は息をつめて、ドアの向こうの様子を伺う。

 かすかに声がする。樋口と真木は顔を見合わせた。しばらくすると、足音の後、ドアを解錠する音がして、ごく細い隙間が開いた。エアコンの冷気が隙間から外に漏れてくる。そして真っ黒な服に長い黒髪の、小柄な女が顔を覗かせた。
 女は樋口を見て、次に真木に視線を移すと、彼の姿をじっと見つめた。通路よりなお暗い、室内の闇から覗く目の不気味さに、真木は悲鳴をあげそうになったが、どうにかこらえた。樋口がそっと声をかけた。
「黒魔先生、新人の真木です。ついでに紹介しておこうと思いまして。入っても良いですか?」
 黒魔術子……大石は真木から視線を逸らさずに「但野せんせい、いなくなっちゃうってほんとですか?」と囁いた。真木が口を開こうとするのを横から奪い取るように、樋口が声を張り上げた。
「そのこともお話したいんです。先生、お願いします」
 大石は視線を真木に固定したまま、大きくドアを開けた。彼女は黒いフリルつきのワンピースを纏い、黒い手袋をつけタイツを履いていて、顔以外は全身まっくろだ。この部屋も効きすぎるほど冷房が効いている。地球環境問題に関心のある漫画家は存在しないのかと真木は密かに考えた。

 室内は黒いカーテンをきっちり閉め、唯一の光源は大きな机を煌々と照らす蛍光灯だった。樋口は慣れているのか部屋の様子には無反応で、机に置いてある下書きに素早く歩み寄ると、取り上げてチェックし始めた。樋口が紹介もせずに先に行ってしまったので、真木は恐々と、大石に二、三歩、歩み寄った。
「はじめまして、真木と申します」
 ぎこちない動作で名刺を差し出すと、大石はパッと取ってチラとも見ずにポケットに入れた。
「但野先生の話は?」
 真木は思わず樋口の方を見たが、樋口は我関せずといった態度のままだ。彼は仕方なく説明を始めた。「ご実家に帰られるそうです。但野先生は、来月の頭までは、こちらにいらっしゃるそうです。あと編集長のところに本」
 突如、樋口が遮った。
「黒魔先生!ほぼ終わってるじゃないですか、あーよかったあ。明後日にはアシさん予約してるでしょ?明日中に五割、できれば七割はペン入れ終わっておきたいですよね」
「……但野先生、帰っちゃうんだ……はあー凹む、無理。マナが尽きた。明日中に七割ペン入れとか絶対無理」
 大石は顔を悲しげに歪ませると、両手を握りしめて下を向いた。暗くてよく分からないが、ただでさえ悪い顔色が一層、蒼白になった気もする。樋口はなだめる口調で「最悪、ペン入れまで終わってればスキャニングしてパソコンで仕上げることもできますから、ね、その方が早」
「魔力が籠らないもん、CGなんて絶対ヤダ!」
 声を張り上げると、その場に膝を抱えてしゃがみ込んだ。樋口が困惑しきって頭を掻いた。「じゃあどうするんですか。先生しかいないんですよ『黒のドルチェ・ヴィタ』を描けるのは。先月のアンケート結果は一旦忘れましょう。ストーリーの山場はこれからだし挽回できますって」
「…………」
「このままだと次のシーズンで確実に打ち切りです。踏ん張りどころですよ、先生」
「…………」

 真木が突然、厳しい声をあげた。
「黒魔先生!連載取るのどれだけ大変だったか、樋口さんから聞きましたよ。但野先生だって、ずうっと没つづいても頑張って、何年も頑張り続けて、それでも本誌の連載枠取れなかったんでしょ。あなたは但野先生が望み続けた場所に立っているのに、あっさり手放していいんですか?ここで頑張れなかったら、先生に合わせる顔ないんじゃないですか」
「 ! ……」
 張り詰めた空気の中、エアコンの音が耳につく。真木は我に帰り、謝るべきか、もっとハッパをかけた方がいいのか迷った挙句、何も言えずに唾を飲み込んだ。樋口を見ると、彼の視線は大石に注がれている。大石は呆然と、座り込んだ姿勢のまま顔をあげて彼を見つめている。
 真木は、これで黒魔術子が連載やめるって泣き出したら僕も泣いちゃうかもしれないと目の前が暗くなった。そして、暗いのはカーテンが閉まっているせいだと思い至り、早足で部屋を横切ると黒いカーテンを引き開けた。

 光が溢れて、部屋の細部を照らしだした。物入れのキャスターの下で何かが煌めき、大石はそれに駆け寄って拾い上げた。
「見つけた!無くしたと思ってのに!」
 彼女は手に持っているそれを二人の男に見せた。3センチ位の透明な丸い石だ。
「なんすかコレ」思わず真木は呟き、大石は真剣な顔で「人魚の涙です」と答えた。そして両手で捧げ持つと、石を額に押し当て、目を閉じて囁いた。
「……ああ……悲しみで濁った私のジェムが浄化されて、マナが……マナが満ちてきます……但野先生の祈りが私を救ってくれたんですね。ありがとう、ありがとう先生……私、頑張れます」
 真木は憮然とし、いや但野先生じゃなくて僕と樋口さんの祈りだよなと思った。樋口の顔がぱあっと明るくなった。
「そうです!今こそ黒魔術子、復活の時です、下書きの詰めと修正、やっちゃいましょう。真木、お前なんか飲み物買ってこい。甘いやつな。あとコンビニ、こっから一番近いセ○ンじゃなくてフ○ミマで」
「あっはい。え、なんでセ○ン駄目なんですか」
 大石が呆れたように言い放った。「七は黒魔術的に縁起が悪いんですよ、当たり前じゃないですかっ」
 ……いや当たり前じゃない。絶対、当たり前じゃないから。と真木は思った。


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎


 編集会議が終わり、社員たちが会議室からフロアに戻って来た。彼らは自席に戻ると、それぞれ休憩や食事に出てゆく。外は既に暗かったが、空気には未だ蒸し暑さが残っている時刻だ。このビルに勤務する出版社の人間にとっては、まだまだ宵の口だった。“働き方改革”の波は、ここまでは届かない。

 樋口が席に戻ると、隣の机の真木は但野の本を読んでいた。本には、誰かが気を利かせて、二ノ国屋の紙カバーをかけている。樋口は真木に声をかけた。
「お前、飯、どうすんの」
 真木は本から顔を上げずに答えた。「……これ終わったら買いに行ってきます」
 樋口は口をつぐむと、共有スペースの給湯室に行き、編集部の冷蔵庫から自分の弁当とお茶を取り出した。昼は外に出ていることが多いので、妻が持たせてくれる弁当は、夜に食べることになるのだった。

 真木がため息と共に本を閉じた時、樋口は弁当を咀嚼しながら、同業他社の漫画雑誌を読んでいた。樋口は横目で真木の様子を伺ったが、声はかけない。
 ちょうど社員はほとんど外に出払って、少数の人間が漫画を読んだりパソコンを見たりしながら、自席で食事をしているだけだった。フロアはがらんとしていて、ゆるんだ空気が流れている。
「ななこ可愛いっすね。作画、人物も背景も丁寧だし」
 真木は、本を再び手に取ってゆっくりと捲りながら、口を開いた。樋口は「うん」と答える。真木は言葉を選ぶように、慎重に感想を語り始めた。
「温かくて、ひと昔前の懐かしい感じのホームドラマっすね。主人公のななこと、ななこの片想い相手の伊集院さんと。あとライバルキャラ。学校の先生。いつも味方してくれて、たまに困ったトラブルも運んでくる親友。血は繋がってないけど優しい両親と、ななこの産みの母親とのあれこれ……話の最後は、いつもなんとなくいい感じで……でかい事件は起こらないけど、いい話、が多いですね。安定してます」
「うん」
 真木は軽く息を吐き、数秒考えて、また口を開いた。
「ななこが伊集院さんと出会うエピソード、なさそうであるかもって感じがいいです」
「ハンバーガー屋でぶつかって、お互いのトレイのバーガーが入れ替わる。伊集院さんは海老アレルギーで、海老バーガーを食って救急車で運ばれる」
「あとは、ななこが料理をする話、わかるーって共感できます」
「大さじと小さじの意味を勘違いってやつ」
「ななこと親友のコマちゃんの会話、笑えるし勇気が出てくるっつうか」
「コマちゃん良い味出してるよな」
「伊集院さんも、憧れのプリンスって立ち位置なのに、意外と抜けてるところがいい」
「だな」
「……本当の母親とのこと……唯一のほろ苦エピソードですね。ひとりになってから、ななこが海を見つめて泣くとこ。グッと来ました。なんか、人生って感じで」
「……」


 真木は黙り込んだ。二人の間に沈黙が立ち込める。
 三十秒ほど黙ってから、樋口はボソリと言った。「で、お前のジャッジは?連載枠取れるって思う?」
 真木は即答した。
「少年誌より青年誌が向いてるかなって。ななこのエロいエピとか入れて、際どい描写とかも。もっと緩急、まったりの話もありつつ、動きが多めな話も欲しい。読者を飽きさせない要素がもっと……」
 樋口と目があって、真木は口を閉じた。そして、おずおずとした口調で「それで、樋口さんはどう思ったんですか?」と言った。樋口は目を逸らすと「まあ、そうなるよな」と言い、空の弁当を片付けて鞄にしまいこんだ。ペットボトルの茶をひとくち含み、ぼんやりと視線をモニター上のニュースサイトに向ける。だが目線は文字を追っていない。
「……ななこ、ほんと可愛いよな……この部署の男たちはみんな、嫁にするならこんなコ、そう思ってんじゃない。けど商品となると。今時の漫画はそれじゃ足りないんだよな……瞬発力。読んですぐ刺さるものがないとさ」
「……」
「ななこ、何度か編集会議に出てきたし、いっときは連載ほぼ決まり、まで行ったことあるんだわ。けどその時に、但野さん癌になっちゃってさ」
「ええっ」
「手術して通院しながら何年か闘病して、だいぶ落ち着いてきたかな、って時に今度は母親が倒れて介護しなきゃなんなくて」
「うわあ」
「なんだかさ、ななこって作品にチャンスが近づくと、作者のリアル世界にトラブルが起こるっていう。──でさ、青年誌勧められたりもしたわけ。けど、但野さん頑なに『それは嫌だ。ななこにエロは違う』って」
「なんでまた」
「時間が経ちすぎて、思い入れが深くなりすぎちゃったのかもなあ」
「ああ……」
 樋口は唇を歪め、真木に目を向けた。
「但野さんだけじゃない。俺ら編集部の人間も、もう“ななこ”を単なる消費対象と見なすことができなくなってたのかもね……客観的な視点を失うまいと焦るのは、つまり自分のジャッジに自信がないってことだし」
「だから、ななこは」
「特別になりすぎたんだ、ななこは。俺たちにとっても、描いてる人間にとっても……但野さん天才だったのかもな。決して世の中の目に触れないタイプの。だから、さ」
 樋口はため息をついた。「……ま……そゆこと」声がわずかに震えた。
 樋口はペットボトルをあおった。真木はしばらく、今の話を反芻するように考えこんだ。そして軽く息をつくと「樋口さん」と言った。
「おう」
「こういう作品って、他に会ったことあります?」
「ない」
「よかったっす。……飯、買いに行ってきます」
「いってら」


 樋口は真木が外に出て行ったあと、但野の本を取り上げて読み耽った。読み始めると、漫画であることを忘れて、自分自身が作品の中に入り込んで、隣で微笑むななこをまぶしく見つめ、彼女と一緒に青春を過ごしているような気分になるのだった。
 どうしてこう胸がしめつけられて、たまらない気持ちになるんだろう。随分前に無くした自分の心の透明さを思い出すのか……。

 樋口本人も一時期、漫画家を目指したことがあった。しかし早々に諦めて、雑誌の運営と若手育成のほうにまわったのだった。世の中に出る漫画家も、そうでない漫画家も、それぞれの青春を賭けて夢を追ってるんだ……その中のごく一部しか、報われることがなくても。

 生き生きと躍動するななこが好きだ。好きすぎて不特定多数の目に晒したくないほどに。俺個人としては、そう思える作品に出会えて幸せだ。この仕事をしていなければ、出会うこともできなかった。
 でも、至高の作品を生み出しながら世に出ることのなかった作家本人は。誰より作品の魅力を理解しながら力及ばなかった担当編集は、幸せなんだろうか?

 海を見つめて泣くななこの姿に、柄にもなく涙が滲んだ。
「キモ。いいおっさんが、なに泣いてんだ」
 樋口は小声で独りごちると、勢いよくティッシュを引き出して顔を拭い、もう一枚取って思い切り鼻をかんだ。

 ──ひとつだけ断言できるのは、この本の持ち主である狛馬さんが死ぬほど羨ましいってことだ。ああクソ。


︎ ⭐︎ ⭐︎ ⭐︎

 朝靄が漂う早朝のキャンプ場には、鳥の囀りだけが響き渡る。
 九月に入っても都会は相変わらずの暑さだが、ここは標高の高さもあり、別世界のような涼しさだった。少し寒いくらいで、狛馬は薄手のパーカーを羽織っている。

 狛馬は手持ち無沙汰に、目の前でテキパキと焚き火の設営をする但野の姿を眺めていた。狛馬のキャンプに関するスキルはゼロだ。彼は後ろを振り返った。氷と飲み物が入ったクーラーボックスがある。その隣のダンボール箱を見て、彼は憂鬱そうな顔になった。

 但野は、芝生の上に防熱シートを敷いて、その上に設置した焚き火台に薪と焚きつけを入れた。
「狛馬さん、お待たせしました。火を作りましょうか」
 狛馬は台に歩み寄って、二人で薪と炭を使い、火を熾しはじめた。炭に火が移った頃合いで、但野は金網をかぶせ、傍に置いてある容器から、タレに漬け込んで金串に刺してある肉と野菜を取り出して載せた。まもなく、煙と共に香ばしい匂いが漂い始める。
 狛馬はクーラーボックスから缶ビールを取り出した。彼は火のそばまで歩み寄ると、まったく飲めない但野にノンアルコールビールを手渡し、微妙な表情で缶を開けた。
「すげえ美味そう。めっちゃ豪勢やん、朝から」
「狛馬さんからの軍資金、目一杯使いましたからね。このタレ、うちのオリジナルっすよ。お客さんにも好評らしく」
「そういや旅館の敷地にバーベキューコーナーがあるって言ってたっけ」
「猫のひたいほどの、せっまいスペースですけどねー」
 二人は耐熱性のグローブを片手に嵌めて熱い金串を握った。肉の油がじゅうじゅう音を立てて滴り落ちる。但野は缶をささげ持つと、狛馬の顔を見た。
「狛馬さん、長い間お世話になりました。じゃ、乾杯」
「但野くんの新たな門出を祝って、乾杯」
 二人は缶を打ち合わせてビールを飲み、金串の肉と野菜を頬張った。

「うまっ……やばい。なんかちょっと楽しくなってきちゃった」
「どうせなら楽しみましょう。楽しんだ者勝ちですよ」
 但野はベーコンの塊とソーセージを取り出した。
「うちで作った燻製です。うまいっすよ」
「うちって?旅館、自宅?」
「自宅です。趣味で作ってて」
「そっか。……知らなかった。長い付き合いで分かってる気になってたけど、たぶん俺が知ってる君の側面なんてごく一部なんだろな」
「そうかも。けどたぶん、ものすごく重要な一部っすよ。車でいうならキーの部分みたいな」
「そういってもらえると嬉しい」
「そうですか?」
 狛馬は但野の顔を伺った。但野はトングでベーコンとソーセージをひっくり返している。狛馬はビールを一口含んだ。
「嬉しいよ、そりゃ。俺にとっても大事な年月だもん。大人の青春っていうか。但野くんと……ななこと過ごした時間は」
 但野は目線を手元に落としたままわずかに微笑んだ。「大人の青春かあ、たしかにそうですね」そして紙皿と割り箸を狛馬に手渡すと、皿の上にソーセージを乗せた。狛馬はかじりついた。炭火の香ばしい香りとともに、甘い肉汁が口に広がる。
「……くう美味すぎ……今まで食ったソーセージってこれに比べたら全部ニセモンだわ」
「炭火マジック。ベーコンもうまいですよー」
「最高じゃん」
 但野は頃合いをみて、ベーコンを金網の上で切り分けた。男二人はビールを飲み、ベーコンに舌鼓を打った。
 あたりの朝靄はすっかり消えて、薄い水色だった空が青さを深めてゆく。日差しが強さを増して、気温が少しずつ上がってゆくのを肌で感じる。狛馬と但野は上着を脱いで、Tシャツ姿になった。

「さて、腹も一杯になったし、そろそろ本番に掛かりましょうか」
 焼きおにぎりのひとかけらを飲み込むと、但野は金網を退け、薪を足して、本格的な焚き火を作った。オレンジ色の炎が次第に勢いを増す。それを見て、狛馬は情けない表情になった。
「なあ、もっかい考え直す気ない?今すぐどうこうはできなくても、原稿さえ残ってれば、いつか」
「だから、そういう未練を断ち切るための儀式です」
「儀式?」
「そうっす。葬式って、儀式じゃないすか」
 但野はダンボールの箱を抱えて、火の近くまで運んだ。狛馬は開けられた箱の中に視線を落とし、顔を歪ませた。
──ななこの原稿の束が入っている。

「これで全部ってことないよな?今まで描いたもの、下書きとかネームとか」
「そういうのはもう処分しました。これは本にした分です。これで全部です」
「完全に?これで最後?」
「そう」
 但野は言いながら軍手をはめると、箱の中から原稿を一枚取って火にくべた。みるみるうちに、原稿の表面は茶色から黒に染まり、炎が表面を舐めた。狛馬は「ああっ!」と叫んだが、但野はお構いなしに次々と原稿を燃やしてゆく。
「狛馬さんも、ほら。手伝って」
「あああ〜ちょっと、ちょっと待って、ああ、俺のななこが」
 狛馬は箱の傍らに跪くと、必死の面持ちで両手を広げて、箱に覆いかぶさった。但野は呆れ顔で狛馬を見下ろした。
「往生際が悪いっすね……仮にここで燃やさなくても、どうせ処分しますよ。もっと味気なく、ビニール紐で縛ってゴミ捨て場に捨てるって方法で」
「やめてくれえ」
 但野はため息をつくと、箱を抱えてうずくまる男のそばにしゃがみ込んだ。

 数十秒の沈黙が過ぎた。
「ごめん」
 そのままの姿勢で、不意に狛馬が言った。
「どっちへの謝罪ですか?僕か、ななこか」
「両方」
「……あなたには、感謝しかないですよ。知り合った頃からもうずうっと、僕を支えて励まして、編集長になっても変わらず、誰より親身になってくれて……あなたはあなたのベストを尽くした。僕も、やれることはやったと思います。でも力が足りなかった。それだけです。だから僕に引導を渡してくださいよ、狛馬さん」
「…………」
「あなたがそうやってななこを惜しんで、苦しんでくれることは分かってました。ななこは僕らが生み出したんだから……でも、だからこそ、最後も二人で送ってやりましょう、ななこを」

 狛馬は顔だけを但野に向けた。そしてゆっくり上体を起こすと、箱の中を凝視した。中の原稿を手に取って、ななこの絵を指差す。
「これ、このななこの服。水色のワンピース……俺さ、嫁に初めて会った時、出版関係者の合コンだけどさ、彼女が着てた服が水色のワンピースでさ、それでアッて思って。ジロジロ見てたら目が合ったっつう」
「ええっ!それ本人には言わないほうがいいですよ」
「当然。……こないだもらった本さ、編集部のみんなにも読ませた。独り占めしたい気持ちもあったけど、みんながななこをどう思うか興味もあって」
 狛馬は原稿を持ったまま立ち上がった。但野も立ち上がり、原稿と狛馬を交互に見た。
「結果はね、二極化した。俺と、部署でも古株の奴らは、ななこは唯一無二、最高のヒロインって思ってるけど、若い連中は、悪くないと言いつつ、年寄りがそこまで評価するのが、よくわからんって顔してたな」
「時代と共に変わりますからね、望まれる漫画も、ヒロイン像も」
 但野は狛馬の手から原稿を取り上げて、火にくべた。狛馬は苦悶の表情を浮かべた。そしてその顔のまま、箱から原稿を取り出すと燃やし始めた。

 二人は交互に、取り出した原稿を燃やしていった。狛馬は、気にいりのページを燃やすごとに「ううっ」とか「ああ」とか呻き声を上げた。但野は手を止めると、渋い顔で狛馬に言った。
「いちいち変な声出さんでくださいよ。怪しいプレイじゃないんすから」
「怪しいプレイってなによ。ああもうメンタルもたねえよ、つらい。すごく辛いんですけど」
「一番辛いのは僕です。この十ウン年、寝ても覚めてもななこのことばっか考えてたんですから」但野は息をついた。「けど……少し、ホッともしてる、かも。もう囚われなくてもいいんだって思うと」
「……」
「寂しいんですよ?それは間違いなく。けど夢追う時間が終わっても、人生まだまだ続くんで……父もずいぶん弱ってしまって。今まで好きにやらして貰ったから、できるうちに恩返ししないとなって」
「ほんと、今まで毎日、毎週、毎月、但野くんに会ってたからなあ。編集部に来てくれなくなったら寂しいなあ。これからも友達だよね?社交辞令じゃないからな、これ」
「もちろんっす。……僕、自慢します。CHAMP編集長が友達だって」

 ついに、残る原稿は、あと十枚になった。
 ななこが実母に会って、そのあと、ひとりになって涙を流す場面の原稿だ。狛馬も但野も、手を止めて原稿を読んだ。そして十枚目の原稿を見つめた時、但野が声を上げた。
「狛馬さん!見てくださいよ、あれ。空。おんなじ!」
「え?あっ、ほんとだ」
 原稿には、ななこが見つめる海と空に、ひこうき雲が描かれている。
 そして、彼らの上にひろがる現実の空にも、高く長く、白いひこうき雲が伸びてゆくのが見えた。
「ああもう、これは、あれしかない」
 但野はポケットからスマホを取り出した。そして音量を上げると、動画を再生し始めた。



「ええ、まじで荒井由美の『ひこうき雲』とか!やめてよ、泣けてきちゃうじゃんか」
 狛馬が慌てたように、但野のスマホを取り上げようと手を伸ばしたが、但野は笑って「いいじゃないすか。ななこを送るのに、これ以上ふさわしい曲があります?さあ、いきましょう。最後の十枚」と言った。狛馬は苦痛に顔を歪めた。

“白い坂道が 空まで続いていた 
ゆらゆらかげろうが あの子を包む
だれも気づかず ただひとり 
あの子は昇ってゆく”

「やめてくれよお……但野くん、もしかしてドMだろ」

 狛馬は辛そうに片手で顔を覆った。もう片方の手に持ったななこの横顔が、あっという間に炎に包まれて、黒い燃え滓になる。

“何もおそれない そして舞い上がる”

「こういうのは……ベタなくらいがいいんですよ……」

 但野は涙を拭うと、海を見つめるななこの後ろ姿を火にかざした。それは歪み、炎に溶けてゆく。

“空に憧れて 空をかけてゆく 
あの子の 命は ひこうき雲……”

 但野は一枚の原稿を掲げた。声を詰まらせ、狛馬に呼びかける。

「最後です狛馬さん。見て、よく見て。覚えてましょう僕らは。ななこのことを」

 火の中に投げ入れられた、ななこの最後の原稿は、涙するななこの顔のアップ。

「ななこ……」

 あっというまに炎に飲み込まれて消える原稿を見つめて、狛馬はつぶやいた。涙が頬を伝った。
 二人の男は、炎の熱気が白い煙と共に、ゆらゆらと立ち昇って、青空に溶けてゆくのを見送った。

“ほかの人には わからない”

“あまりにも 若すぎたと”

“ただ思うだけ けれど しあわせ”


(完)

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「ひこうき雲」
作詞・作曲/荒井由美
歌/松任谷由実


白い坂道が 空まで続いていた
ゆらゆらかげろうが あの子を包む
誰も気づかず ただひとり
あの子は 昇っていく
何もおそれない そして舞い上がる

空に 憧れて 空を かけてゆく
あの子の命は ひこうき雲

高いあの窓で あの子は死ぬ前も
空を見ていたの 今はわからない
ほかの人には わからない
あまりにも 若すぎたと
ただ思うだけ けれどしあわせ

空に 憧れて 空を かけてゆく
あの子の命は ひこうき雲

空に 憧れて 空を かけてゆく
あの子の命は ひこうき雲

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