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死が二人を分つまで

※[囀る鳥は羽ばたかない 二次創作]
本編4巻+ヤング矢代&七原①

<矢代>

 矢代(やしろ)にとって、人間を二種類に分けるとすれば『支配するものとされるもの』だった。
 支配は、コントロールと言い換えてもいい。人をコントロールするものは何か。その視点に敏感であればあるほど、全ての人間関係にも、もちろん仕事にも役に立った。
 人には『握られると逆らえない尻尾』が必ずある。見極めがコントロールのキモであり、上手く利用すれば思う方向に操作できる。対象は様々だ。多くの場合は金。次に多いのは性欲。その次は自尊心。そして家族や親しい人間。
 効率よく事を進めるためには人を観察し、相手の欲求をする能力が必要だ。幼い頃、ヤクザの義父に虐待され抑圧されてきた彼が、生き延びる為に必死に身につけたその力が、自らヤクザになってから役立つとは皮肉なものだ。
 彼の尻尾を握っているのは現在の所、三角(みすみ)だった。支配力において三角は矢代より圧倒的に上だ。三角には矢代に無い、男女問わず相手を惹きつける強烈な魅力があった。矢代がその容姿で相手の性欲や支配欲をコントロールするのとは根本的に違う。三角は自ら何もしなくても、周りの人間を傅かせる天性の力がある。

 そして、三角に握られている矢代の尻尾の名前は『影山』といった。

<酒巻>

 酒巻(さかまき)にとって、人間とは『騙す者と騙される者』だ。
 彼にとって人を騙す事は相手に勝つことであり、騙されるのは負ける事だ。人生は勝ち負けであって、相手を信じる事は負け犬になる事だ。
 頭も容姿も悪くなく、口と要領とで世間を渡って来た彼は、人を信用させ、その後で裏切る事を繰り返して現在に至る。それに関して彼は悪びれなかった。騙される方が悪い。人間は嘘をつく生き物だ、そんな事は子供だって知ってる。少しでも相手を疑う知恵があれば、騙される事は無いはずだ。
 彼は、真誠会に身を置きながら、いざとなればいつでも仲間を切り捨て、出し抜くつもりでいた。いつまでも下っ端ヤクザのままではいない。いずれ大金を手にして、貧乏人を騙して端金を稼ぐ生活とおさらばしてやる。既に金の目星をつけていた。後は機会が巡ってくるのを待つだけだ。

<七原>

 七原(ななはら)にとって、人を二種類に分けるとしたら『良い人か悪い人か』だった。
 この場合の『悪い人』は、犯罪者ではなく自分に悪意を持ち傷つけたり貶めたりする人間の事で『良い人』は善意を持って自分に接する人間、居場所や食べ物を提供してくれる相手の事だった。
 彼は持ち前の運動神経で一時期はプロボクサーを目指し、一旦はデビューしたものの、致命的な怪我をしてボクシングを諦めざるを得なかった。
 そんな彼にはアスリート特有の『努力を信じる』精神が根本にあった。努力を信じるという事は人間を信じるという事に繋がる。色んな人間が居ても根っからの悪人は居ない。最後には、強い人間は弱い人間を助けるものだと無邪気に信じていた。
 現在はチンピラの境遇にまで落ちぶれたが、フトしたキッカケで真誠会の酒巻に拾われ、いずれ正式な組員にしてやると言われていた。七原の中の単純な世界では、腕力と愚直さだけで世の中を渡っていくには、それしか無いように思えた。ヤクザになることがどういう事か、あまり深く考えず、当座の食べ物とねぐらと、それに女が居れば満足だった。

 その行き当りばったりな無思慮は、力と暴力の世界ではただ、周囲から食い尽くされるだけだと彼が知るのは、そう遠くない先だった。

________________________________________

 酒巻は苦々しげに男に声をかけた。
「他人のシノギの邪魔して楽しいか?」
名簿屋との待ち合わせ場所に向かう途中であろう若い男は、酒巻を見て足を止めた。男は二十代半ばだろうか、ごく薄いグレーのスーツに濃紺のシャツが映える。
 先程の鉄板焼き店での会話で話題に出た、矢代というホモのヤクザだ、と七原は思い当たる。酒巻の後ろに停めたアウディの、そのまた後ろに立っていた七原は、数メートル先の男の顔を見て呆然とした。

 生まれて初めて、こんな綺麗な男を見た。モデルか俳優、と言われれば、すんなり納得するような容姿だった。とてもヤクザには見えない……が、どことなく堅気には無い、崩れた雰囲気もあった。男は煙草を燻らせながらうっすらと微笑んだ。
「名簿屋と寝たくらいで怒んなよ」
声音も張りが有り涼やかで、思わず七原は聞き惚れた。矢代は言葉を続ける。
「それとも酒巻ちゃんホモなの? あの人狙ってた? ちょっとシャブったらすぐその気になったから、酒巻ちゃんでも勃つかもよ?」
酒巻は不機嫌に応える。
「軽口は要らねえ。シノギの邪魔したらタダじゃおかねえぞ、ホモ野郎」
「安心しろよ、そっちの『コールセンター』のお客とは被ってねぇから」
組員同士のヒリついたやり取りを後ろで見ていた七原は、我に帰った。
(うおおっクソ……っホモに見惚れた!!)
男に見惚れるなど初めてで、そんな自分に酷く焦った。自分にはその性癖は無いはずだ。
(つーかあの名簿屋のオヤジ、しっかりやっといて、よくもまぁとぼけやがったな……)

 何か言おうとした酒巻のポケットでスマホが鳴り、彼はそれを取り出して応答し、矢代に背を向けた。
 そのまま立ち去るかに見えた矢代は振り返ると、今度はしっかりと七原に視線を留めてじっと観てきた。
矢代の視線に『ホモ』『男好き』の文字が七原の頭に浮かぶ。動悸が俄に激しくなり、変な汗がどっと吹き出した。
(!?……なっ……まっ、まさか。おっ……
俺に一目惚れし)
「お前、人見る目、無いね」
矢代は言い放った。

 数秒遅れて、七原は言葉の内容に頭が追いついた。顔を真っ赤にして目を吊り上げる。
「あ……ああ?!」
「普段、何も考えてねーだろ」
「なっなっ」
「脳みそマシュマロ並みに軽いだろ」
七原は我を忘れ、車の脇を歩いて矢代に近づいた。
「てってめえに俺の何が……っ」
「いやぁあいつはねぇ、ないと思うよー」
矢代は、ないないと言いながら手を振り、また歩き始めた。矢代の背中に向けて七原は中指を立て怒鳴りつけた。
「あ……あの人は良い人だ! あんたと違ってちゃんと人情あんだっ」
矢代は愉快そうに笑った。
「人情! 久々に聞いた! そのうちいいように捨てられるぞー」
「んだと……」
酒巻の声が二人のやり取りを遮った。
「七原!」
七原はハッとして、酒巻を振り返った。酒巻はスマホを片手に
「ちょっと頼みがあるんだが聞いてくれるか」
と言った。七原は頷いた。


 酒巻が都心のマンションの一室に消えて一時間程経つ。部屋に入る前に酒巻は、ドア前の廊下から見下ろした位置にある平置きの駐車場を指差して言った。
「下の五の位置に黒のセンチュリーが停まったら知らせてくれるか?」
七原は頷いた。
「分かりました!」

 下の駐車場に時々視線を落としながら、七原は手持ち無沙汰に溜息をついた。元々身体を動かす方が得意で、何かをじっと待つのは苦手だった。彼は廊下の手摺りの上に両手を組み、その上に頭を乗せた。
(って言ったものの、センチュリーってどんなだっけ……)
玄関で酒巻を出迎えた女の顔を思い出す。華やかで艶っぽい美女だった。
(いい女だったなぁ。亭主持ちか —— パトロン持ちだな)
そのまま数刻。……七原は、ウトウトしかかって、ハッと我に帰った。
(ヤベ……ッ寝るとこだった!)
慌てて下を見た。五の位置に車は停まっていない。胸を撫で下ろす。眠気ざましに、廊下でシャドウボクシングをしていると、酒巻がドアを開けて出てきた。
「悪い、遅くなった…… 何やってんだ?」
「あ、えーと。シャドウっす……」
「お前、ボクサー?」
「そっす、元っすけど」
「どうりで腹筋割れてんだな」
二人はエレベーターに向かって廊下を歩き出した。

 その後も酒巻のマンション通いは毎週続いた。七原は、その度に駐車場を見張るよう命じられ、廊下で待たされた。いつの間にか季節は移り、最近は、夕方になると気温がかなり下がる。
「うーさみ……」
(毎週、お盛んだな)
「七原!」
 珍しく酒巻がドアから出てきて、七原を呼んだ。その手に暖かいコーヒーを淹れたマグカップを持っている。
「悪ィな、もうすぐ帰るから。これでも飲んで待ってろ」
「あざっす!」
差し出されたマグカップを七原は満面の笑みで受け取った。

「……っと、ちょっとアンタ!」
 荒っぽく揺さぶる手と女の金切声で七原は、眠りの底から無理矢理引き戻され、地べたに座り込んだまま寝ぼけ眼をうっすらと開いた。酒巻と会っていた女だ。七原の手元近くにマグカップが転がり、飲み残しのコーヒーが溢れてマンションの廊下を黒く染めている。
「……あ……?」
女は鬼の様な形相で、両手で七原の襟首を掴むと引っ張り上げて揺さぶった。
「起きなさいよっ! 酒巻どこよ!? アンタ、グルだったの!?」
「……は……え?」
「金庫が無いの!!」
女の言葉が頭の中にようやく届く。七原は愕然とした。女は取り乱してヒステリックに喚いた。
「あの人の隠し金……っ、現金も時計も宝石も全部無いの! ねぇっ聞いてる!? 何か知ってるんでしょ!?」
「……しっ知らねぇ……俺は何も……」
女は七原の左手首に目を止め、声を低くした。
「ちょっと……それ、何よ」
「は?……」
「その腕にしてる時計!」
「!?」
見覚えのない、高価そうな時計が七原の手首に巻かれている。慌てて七原は時計を外そうとしながら
「な、んだこれ!?これ俺んじゃねぇ……って!」
「当たり前でしょ!?それあの人の時計よ、返して!」
「返してって、盗ってねえし……っ」
何がなんだか分からない。七原は震える手で時計を外そうとするがなかなか外れない。パニックになりそうだった。女は片手で七原の襟首を掴んだまま、強く揺さぶった。
「アンタやっぱあいつとグルなんでしょ」
「ちげーって、俺はただここで見張ってろって」
「見張るって何を!?」
「だから……」
男の野太い声がびいんと辺りに響き渡った。
「何の騒ぎだ?」

 革靴の足音をマンションの廊下に響かせながら、スーツ姿の大柄な男が現れた。一目でその筋と分かる、凶暴な空気を纏っている。
真誠会の若頭、平田だ。腹心を一人連れている。平田は七原を睨みつけた。
「誰だてめぇは」
気温が数度、一気に下がったような感覚。七原と女は気圧され、凍りついたように黙り込んだ。女は七原から手を離し、一歩下がると彼の耳に口を寄せ、小声で早口に囁いた。
「酒巻と私の事、平田には黙ってて」
「は!?」
「私、殺されるから」
 次の瞬間、平田は素早く歩み寄ると七原の襟首を掴み、力任せに引き起こした。昏い眼が間近に迫り、蛇に睨まれた蛙のように、七原はただ、無抵抗でその顔を見つめ返した。胸中がまっ黒い絶望で塗りつぶされてゆく。
 黒のセンチュリーに乗っていた男が何者か、気づいた時には全てが遅すぎた。

 空きテナントの看板と廃ビルが目立つ、人気のない街の一角に、雑草に囲まれた大きな倉庫があった。
 昨日の夜、七原は連れ込まれ、両手を後ろ手に柱にくくりつけられて、一晩中、苛烈な暴行を受けた。元ボクサーで打たれる事には慣れているはずの七原でも、悪意と殺気の籠った暴力は全く別物だと身をもって実感した。身体中の肉が、骨が、軋んで悲鳴をあげる。

 暴行がエスカレートしたのには理由があった。七原は『自分は何も知らない』の一点張りで、他には何も話そうとしなかったからだ。酒巻の事も、彼と通じていたらしい平田の愛人の事も。

 夜通しの暴行で、流石に尋問者も根を上げ、休憩に入ったのか、昼には七原を放置したまま、男達は立ち去った。七原の身体は痣だらけで青黒く染まり、肋骨にヒビが入ったのか、息をするたびに激痛が走った。顔は血まみれで腫れ上がり、左目は殆ど開かない。意識が朦朧とし、トロトロと眠りに落ちては痛みで目覚めた。

 そんな激痛の最中、すりガラスの窓から差し込んだ光が顔に当たり、閉じた目の瞼の裏を赤く照らした。七原は赤く染まった意識の中でボンヤリ考えた。
 ……俺、このまま死ぬのかな。

 酒巻の顔が浮かんだ。
『ついでに美味いモン食わしてやる』
あれは、七原を懐柔するためだったのか?いずれ切り捨てるつもりで?
『これ飲んで待ってろ』
差し出されたマグカップ。……認めたくはない。でも、恐らく自分は嵌められて、見捨てられた。
『私、殺されるから』
あの女が酒巻と通じていた事を話していれば、ここまで痛めつけられずに済んだのだろうか。でも、それで女が酷い目に遭わされるのも絶対に嫌だ、絶対に。
『お前、人見る目、無いね』
涼やかな声と共に矢代の顔が浮かんだ。今となっては、ぐうの音も出ない。あいつがここに居たら、何て言うだろう。俺は、あいつに、何て言うだろう。
 ……いや、このまま誰にも会えずにここで死ぬ確率の方が高いのかな……どうせ死ぬなら早くしてくれ……。

 七原は発熱していた。身体が燃えるように熱い。どこもかしこも痛い。息をする度に苦しくて、一分一秒が耐え難かった。物心つく頃から数えきれないほど喧嘩をし、ボクシングでは毎日のように殴り殴られた。それでも、今のように死を願った事は一度もない。

……時間を少し戻して。

 七原が倉庫で暴行されていた頃、見守る平田に近づく組員の姿があった。吉武(よしたけ)という中堅の組員だ。吉武は平田に耳打ちした。
「親父、さっき、組から連絡がありました。金の行方に関して、姐さんから目を離さない方が良いとタレコミの電話があったそうです」
「タレコミだと?」
平田は険しい顔になった。
「何かで声を変えてあったそうで」
「……女はどうしてる」
「数名が自宅を見張ってます」
「……」
「あと、これは関係があるかまだ分かりませんが、昨日から酒巻が行方不明です。ずっと連絡が付きません」
平田は吉武に視線を向けた。吉武は言葉を続ける。
「あのガキ、酒巻と一緒に居るのを複数の組員が見てます。何も吐かないのは、奴を庇っているのかもしれません」
「……そうか。……女は引き続き見張れ。動きがあったら後をつけろ。あのガキが朝まで何も吐かなかったら、そのままにして組の奴らは引き上げさせろ」
平田は怒りで顔をどす黒く染め、七原を眺めて低く吐き捨てた。
「馬鹿なガキだ……おい、酒巻の地元と実家に何人か張り付かせろ。捕まえたら生きたまま連れてこい」
「はい」
吉武は組員に指示を出す為、その場を離れながら、内心、密かに酒巻に同情した。怒り狂った平田に捕まる位なら、とっとと死んだ方が何百倍も楽だろう。

 倉庫内に響く足音に、七原は顔を上げた。埃が煌めき踊る光の筋の中、矢代が彼に向かってゆっくり歩いて来るのが見えた。七原は目を凝らした。現実?それとも幻?
……矢代は七原の目の前で立ち止まる。その姿は消えない。

 暫く沈黙があった。七原は口に溜まった血を吐き出し、苦労して口を開いた。
「……笑えよ」
「にやっはっはっはっ!」
わざとらしい笑い声が七原の神経を逆撫でする。
「笑うな!!」
「どっちよ」
七原は顔を歪めた。先程までの絶望から一転、矢代の顔を見た途端、急に悔しさが込み上げてくる。
「くっそ……アンタ知ってたのかよ……」
「いやぁ?平田の女と寝てんのは知ってたけど。まさか隠し金狙いとは知らなかったわ」
矢代は「GARAM」と書かれた鮮やかなグリーンの箱を懐から取り出し、煙草に火をつけた。
「あの女と酒巻のこと喋っちまえばぁ?このタイミングでヤツは雲隠れしてんだ。じき犯人てバレんだろ」
「んなこと言ったからって俺が助かる見込みあんのかよ……それに……」
七原は俯き、言葉を続ける。
「女の頼み事ひとつ守れねぇなんてカッコ悪ィ……」
 矢代は目の前の男を見下ろしたまま、煙を深く吸うとゆっくり吐き出した。煙の中に光の筋が浮かび上がり、癖のあるガラムの甘い香りが辺りに漂う。

 流石にコイツも、自分が嵌められたってコトは気づいているだろう。なのにこの後に及んで、何故、自分とは関係ない女を守ろうとする?男としての義侠?何らかの信念?……死を前にしても。
 本当は何を考えてる?こんな時、人間は、何を思う?恨み。後悔。悔しさ。期待。それとも最後に会いたい誰か。

——— ここが運命の分かれ目。

 矢代は指で軽く煙草を弾いた。
「本音、言ってみな」
俯いた七原の頭に向かって言葉を落とす。
「一回だけ聞いてやるよ」
七原は幾らか頭を上げた。視線はまだ、下に落ちたまま。ゆっくり口を開く。 

「……俺は」

七原は大きく息を吸い込んだ。

「悔しいっ、死にたくねぇ……っ 助けて欲しい……っ、もう痛えのは嫌だ!!……でも」

視線を上げて矢代を睨みつける。

「アンタに助けは求めねえ」

———ふっ。
矢代は心の中でニヤリと笑った。
そうかよ。

 矢代は心を決めた。無言で踵を返すと、七原に何もせず、その場を後にした。

 博多駅で新幹線から降りた後、平田の愛人だった女は、スマホを確認しながら地下鉄に乗った。サングラスに目立たない薄手のトレンチコートで、周りを気にしている様子だ。

 目的の駅に着くと、タクシーに乗り込み、大型スーパーの駐車場の前で降りた。スマホで誰かと連絡を取り合いながら、目当ての車を探す。
 とある車に近寄ると、車のドアがスライドした。女はようやく気を緩め、車に乗っていた誰かと言葉を交わした。荷物を車に乗せ、自分は助手席に乗り込もうとした、その時。

 周囲に停まっていた数台の車から、素早く男達が降りてきて、女を車から引き剥がした。そのまま女は口を塞がれ拘束される。他の男達は、女が乗ろうとしていた車に乗り込むと、運転席にいた男と格闘したあげく、男を車外に引きずり出した。酒巻だ。彼も拘束され、男達の車に押し込められた。

 酒巻が乗っていた車の後部スペースに、大きなトランクが二つあった。男達はトランクの鍵を壊して中身を改める。中の現金類を確認すると、それぞれがまた数台の車に分かれて乗り込み、駐車場を次々と出て行った。

 都心から離れた郊外にある、真誠会の持ちビルのひとつ。そこには特別な地下室がある。

 壁も床も剥き出しのコンクリートで、床には排水溝があり、汚れを洗い流せるようになっている。家具はステンレス製の戸棚とテーブル、シンク、壁際に並んだスチールの棒、幾つかのパイプ椅子。窓は無く、出入り口はひとつだけ。
 部屋には防音加工が施され、床に水の入った大きなポリタンクが一つ置かれている。ステンレス製のテーブルの上には、鋸やメス、大小様々なナイフ、太い釘と金槌など、見ていて気の滅入るような道具が整然と並んでいる。
拷問、または処刑の為の部屋だった。

 壁際の棒の一つに、手錠で繋がれ、床の上に座り込んで居るのは酒巻だ。捕まった時と同じ服装で、暴行の跡か、シャツのボタンは飛んで所々に血がついている。顔は殴られて腫れ上がり、口には猿轡を噛まされている。
 部屋の中には四、五名の男たちが、薄暗い照明の中で、無言のまま平田の到着を待っていた。その中に矢代もいた。

 ふいに廊下に複数の足音が響くと、部屋のドアが開き、平田と吉武、ほかに二人の組員が入ってきた。平田は部屋の中央にゆっくり進み出ると、腕組みをして酒巻を眺めた。酒巻は目を上げ、平田を見た。目が恐怖に揺れている。

 緊張に張り詰める部屋の空気の中、控えめな口調で、矢代は平田に呼びかけた。
「すいません、頭。こいつの預かりのガキなんすけど、まだ堅気なんで。あのまま、あそこで死んでるのがサツに見つかると面倒です。どこかに移すか、逃すかしても良いですかね」
平田は矢代を睨んだ。
「あのガキが、この件に関係無い確証があるのか」
矢代は無表情のまま、平田の獰猛な視線を受け止めた。
「始める前に、酒巻と少し話をしても良いですか?」
平田は舌打ちをし、数歩下がった。
 矢代は酒巻に歩み寄った。酒巻は力無く矢代を見上げる。矢代はしゃがむと、小声で話しかけた。
「あの犬っコロ、どんなにボコられても、お前の事を話さなかったってよ。泣かせるわぁ、何にも言わないモンだからもうボロボロ。あいつ、お前に嵌められただけで無関係なんだろ?だったらそう言え。最後に一つ位、良いことしとけ」
「……」
酒巻は、変わらず矢代を見つめるばかりで何の反応もしない。矢代は薄く笑うと、酒巻に顔を寄せた。
「長く苦しまずにさっさと死にたいだろ? 俺がそのコツを教えてやってもいいよ。これならどうだ?」
酒巻に反応があった。目付きに縋るような色が混じる。矢代は手を伸ばして猿轡を外した。矢代は後ろを振り返ると、三好という組員を一人、手招いた。三好が二人に歩み寄る。酒巻は何度か空咳をした後、しゃがれた声を出した。
「……ガキは……無関係だ。俺が、嵌めただけ……何も知らない」
矢代は三好と目を見交わした。三好は立ち上がると平田に向かって声を張り上げた。
「ガキは無関係だそうです」
「分かった。三好、ガキを逃してこい」
三好は頷くと、速足で部屋を出て行った。矢代はそれを見送り、酒巻に向き直ると、ますます声を潜めた。
「……平田はな、三角に惚れてる。平田のホモ嫌いは同族嫌悪ってヤツだ。こう言え。『頭、ケツに親父のを挿れてもらったんですか?』あとはな『親父のイチモツをシャクった事あります?頭は下手そうですよね、俺が教えてあげましょうか?』……ま、このセンで行けば、必ずヤツは激怒する。上手くすりゃサクッと殺して貰えるかもだ」
矢代は立ち上がった。優しいと言ってもいい口調で、最後に男に呼びかける。
「行き着く果てはどうせ同じだ、お前も俺も。……先に行ってろや、酒巻」
 矢代が離れると、入れ替わるように平田が酒巻に歩み寄ってゆく。平田は右手にナイフを握っている。酒巻を見下ろす位置に三脚が有り、カメラが設置されている。平田は今から始める陰惨なショーを動画に撮り、見せしめに使うつもりらしい。
 ヤクザにとっても、元組員の処刑は決して楽しい見世物とは言えない。平田に忠実な数名を部屋に残して、矢代は廊下に出、静かにドアを閉める。そこで、ようやく胸糞悪そうに顔を歪めると長い溜息をついた。

 自分が括り付けられていた縄が乱暴に引っ張られる感覚で、七原は目覚めた。首を回すと、三好が縄を緩めようと四苦八苦している。七原は信じられない思いでそれを凝視した。
「え……あ……あれ……」
三好は七原の意識が戻った事に気づき、声をかけた。
「解放してやんだよ」
「え……何か、あったんスか?」
「タレコミがあって、福岡の方で酒巻が見つかった。金も持ってたし、姐さ……平田さんの女とも合流してやがった」
「!?」
(あ……っあのアマ〜っっ)
女は酒巻とグルだったのか。あの取り乱しようも演技だったわけか、すっかり騙された。
三好は作業を続けながら
「何も知らないお前を嵌めて、あそこに置いて来たことも認めやがった。良かったな、最後に情、見せてもらえてよ。……根性あるなお前」
 三好は縄を解くとそれを纏めて拾い上げ、重い倉庫の戸を開けて、そこから出るとどこかに消えた。外から冷たい風と、雨の匂いが吹き込んで来る。

 七原は柱に寄りかかりながら立ち上がると、よろめき歩いて、出口まで来た。身体を押し込むように戸の外に出る。まだ助かった事が信じられなかった。
(一生あのままかと思った……)
倉庫の周りの雑草の中に数歩歩み出すと、膝を付き、倒れ込んだ。雨がその身体に降り注いだ。水の感触。頬に当たる土と草の感触。七原はゆっくり深呼吸して、世界の匂いを吸い込み、味わった。
(生きてるーー……)

 そのまま暫くじっとしていた。三好の言葉を反芻する。……酒巻と女は捕まったのか。タレコミがあったと言っていた。
『このタイミングでヤツは雲隠れしてんだ、じき犯人てバレんだろ』
何故だか分からない。でも、考えれば考える程、そうとしか思えない。
……タレコミをしたのは。酒巻が証言したのは。俺が助かったのは。
『本音、言ってみな』
ガラムの煙の香りと共に浮かんだ面影。無言のまま遠ざかってゆく背中。
俺は助けを求めなかった。なのに、何故、あいつが。


 二週間が過ぎた。七原は、身を寄せていたスナックのママが頼み込んだ医者に手当てしてもらい、数日間、身体を休めた後、以前に矢代と会った、名簿屋のねぐらに向かう途中の道で、毎日待った。

 そして、ようやく待ち人が現れた。今日はブルーグレーのスーツに、黒いシャツを着ている。
「タレコミ、アンタじゃないんすか?」
包帯と絆創膏だらけの顔で、七原は矢代に呼びかけた。矢代は薄笑いを浮かべた。
「だったら? 何? 礼に尺八でもしてくれんの?」
「だっだれがするかっ」
「なーんだ」
七原は、矢代の目を正面から見ると、口を開いた。
「……なんでだよ。俺は、あん時……」
そこまで言ってから、どう続けていいか分からず、言葉が途切れる。

『アンタに助けは求めねえ』

 矢代はあさっての方を向き、片手の指で耳の穴をほじりながら
「んーそりゃまあ、あれよ、真理でしょ。正直どうするかは、あん時まで決めてなかったし、どっちでも良かった」
言いながら七原に視線を向ける。
「……けどあれを言われちゃあ、俺以外が助けんのすら許さねーと思ったね」
その答えに七原は呆れた。
(……な、なんつー天邪鬼……)
矢代は小指の耳垢を息で吹き飛ばす。七原は緊張してきた。矢代の顔をまともに見る事が出来ず、下を向いて早口で言葉を続ける。
「俺はよ……その……礼する金も何もねぇから、かと言ってこの体でアンタに奉仕とかいやアンタは男だけどキレーだしイケなくもねぇけどよ」
「何なの?お前さっきから」
「そ」
七原は矢代に勢いよく頭を下げた。
「側に置いてくれ……下さい!」


 矢代は数秒間、七原をじっと見つめた。七原は上体を折った姿勢のまま、静止している。
 次の瞬間、七原は自分の右から来る蹴りを予測したが敢えて動かず、蹴りはまともに七原の右側頭部に当たって、そのまま吹っ飛ばされ、頭から地面に叩きつけられた。
「いっ……」
ってえ、と言いながら頭を抱え、身体を起こそうとする七原に矢代は
「気付いたなら避けても良かったのに律儀な奴だね」
と言葉をかけると同時に再び七原に蹴りを入れた。矢代は立て続けに、容赦の無い蹴りを何度も繰り出し、七原は全て無抵抗で受けた。
 一方的な暴行は数分間続いた。地面に額を擦りつけ、うずくまって痛みに耐えている七原の肩を、矢代は強く踏みつけ、地面に蹴り転がした。軽く息を弾ませ、口元には笑みが刻まれている。
「お前ってホント、人見る目ないね」
七原は地面に手をついた。
「……俺」
震える膝にぐっと力を込め、ゆっくりと身体を起こす。
「何も考えてないっす。どうせバカだから考えるだけ無駄っす」
「あんな目に遭っても?」
「そっす」
七原は深々と上体を曲げたまま、足を伸ばして、再び最初のポーズに戻った。
「どうか。頼みます」

 矢代は、今度は数十秒間、七原を見つめて沈黙した。
……根っから犬っコロなんだな、コイツは。
人から裏切られようと、酷い目に遭わされようと、その為に死ぬ事になったとしても……まだ人を信じる、と。

「俺を」信じる、と。

俺は?俺はコイツを信じられるか?もしかすると、どちらかが、先にくたばるまで。最後に行き着く果てまでも。

コイツのあの目。
裏切られ、死を前にしてもなお、人間を信じ続ける真っ直ぐで綺麗な目。

———コイツ、地獄だろうと何処だろうと、くっついて来んだろな。んでウッカリ自分が先にあの世に行っちまったら入り口でずっと待ってんだろな、俺が来るのを。ハチ公みてーに。目に浮かぶわ。

 矢代は空を見上げた。夕暮れの雲間を、数羽の鳥が戯れるように飛んでゆく。
「まぁ……お前くらいバカな方がいっか」

 七原が喜び勇んで顔を上げた時、矢代が放った車のキーが顔面に直撃した。

 その半年後。
影山の自宅で、七原は左腕の傷を治療されていた。傍には矢代が不機嫌な様子でブツブツ文句を言っている。
「……口程にもねぇ、何が元ボクサーだ。喧嘩して怪我して上納金上乗せされて、イッコもいーことねえ。無駄にも程がある」
「うるせえぞ矢代、気が散る」
 影山は七原の傷を縫いながら一喝した。七原は申し訳なさそうに大人しく手当てを受けている。
影山の専門は内科だ。外科的処置は正直、あまり得意ではない。何度そう言っても、この二人は怪我をする度に、しょっちゅう影山家に押しかけ手当てを受けていた。

「終わったぞ。……鎮痛剤を渡しとく。二日ほど風呂は控えた方がいい。あと酷く化膿するようなら、ちゃんとした外科医に診せろ」
「先生は……ちゃんとした医者じゃないんすか?」
七原は首を傾げた。矢代は七原に向かって
「こいつは研修医だ」
「ケンシュウイ?」
「医者の卵だろ」
影山は語気を強めて訂正する。
「卵じゃない。研修医は正式な医者だ」
「んじゃ新人の医者か」
「まあ……そうだ」
七原は困ったような顔をした。
「新人って言われると何か心配になるっすね」
矢代は吹き出し、影山は憮然とした。七原は慌てて
「あ……っと、俺、車取って来ます!先生、ありがとうございました、言って来まぁす」
と、言い置いてドタバタと廊下を走り、玄関から出て行った。

「いつも悪りぃな影山。ホント助かるわー」
「くどいようだが俺は内科医だからな!内臓が傷ついてる時は外科に行けよ」
「いやぁ、上等上等。治療を断られる事もけっこーあんのよ。社会の嫌われもんだからねぇ、ヤクザは」
矢代は畳の上に仰向けに寝転がった。影山は矢代を眺める。
「それが分かってて、あんな若いやつを仲間にするのはどうなんだ?」
「仲間って……あいつの方から頼み込んで来たんで仕方なく世話してやってんだよ、俺が」

 影山は立ち上がると台所に行き、缶ビールを二つ持って戻って来た。矢代は上体を起こすと、片方を有難く受け取り、二人は軽く缶を打ち合わせてビールを煽った。
「お前達は一緒に住んでいるのか?」
「ま、ね。基本的に給料貰えないから。シノギで稼げるようになるまでは、預かりっつって俺ん家に居候させてる。だから今んとこ、アイツは俺の召使いで、パシリで、用心棒で、運転手で、サンドバッグで、えーとそれから……」
影山は呆れた。
「人を便利づかいするにも程があるだろう」
「下っ端若衆ってそーゆーモンなの。その代わり、アイツがピンチになったら俺が助ける。どっちかが先にくたばったら、残った方は仇を討つ。……前時代的だよな。まぁヤクザなんて万事が前時代的なんだけどさぁ」
「死が二人を分つまで、てコトか」
矢代はビールを吹き出しそうになった。
「は!?……キッモっ!キモい事言うなよ」
「どっちかがくたばるまで一緒にいるんだろ?」
「その言い方は語弊があるって。なんか夫婦みてぇじゃんか」
「今時の夫婦は対等が基本だろ。お前は亭主関白すぎる。もっと女房を尊重しないと愛想尽かされんぞ」
「ちっげえよ!そもそも夫婦じゃねえ。いいとこ、飼い主と犬っコロだ!」
「なるほどな、確かに前時代的だ」
矢代がさらに何か言い募ろうとした時、廊下にドタバタと馴染みの足音がして、七原が居間に顔を出した。
「兄貴、お待たせしました!んじゃ帰りますか……て、アレ?どうかしました?」
「どうもしねえ、行くぞ」
矢代はブスっとした表情で缶ビールの残りを煽った。影山はニヤニヤしながら矢代に薬を渡すと、肩を叩き、声をかけた。
「矢代、大事にしてやれよ」
「……」
矢代は溜息を堪えた。他の誰でもない、影山に言われるからこそ、何とも複雑な気分になるのだが、それを説明できるはずもない。二人のヤクザは影山家を辞し、車に乗り込んだ。


「……すみませんでした、兄貴」
先程から矢代が不機嫌に黙り込んでいるので、七原はいたたまれずに、運転をしながら矢代に謝った。矢代は視線を車窓から七原に移したが何も言わない。
 そもそも今回の怪我は、七原が矢代を庇って負ったものだったのだが、だからといって素直に礼を言うような矢代ではなかった。しかし謝るのも違う。七原の立場なら矢代を庇うのは当然だ。こういう時はどう振舞えばいいのか。常に身近に親しい人間がいるという状況に、未だ矢代は慣れていなかった。

 出し抜けに矢代はボソっと言った。
「痛むか?」
七原はチラッとルームミラーを見て
「……まぁ少し。帰ったら薬飲むんで。心配かけてすみません」
「アホウ、心配なんかしてねーよ」
「すみません」
「すみませんは聞き飽きた。つうか何で謝んの? 無意味にペコペコ謝んな」
「す、……えっと、分かりました」
「……」
矢代は眉間に皺を寄せたまま、視線を車窓に戻した。車内に微妙な沈黙が満ちた。

 矢代のアパート前に車が停まると、ふいに矢代が口を開いた。
「やきにく」
「……は?」
「そーいやまだ行ってねーな、焼肉」
「はあ」
「行くか、明日。肉食って血を補充しろよ、お前」
「えっ」
七原は驚き、顔を輝かせた。矢代は七原の方を見ようとせず、そそくさと車を降り、先にアパートの階段を登ってゆく。七原は車を再び発進させ、駐車場に移動する。

 七原は車を施錠し、矢代のアパートに歩いて向かった。部屋には灯りがついている。春も半ばとはいえ、夜はまだまだ冷える。歩き出しながら七原は頬を緩めた。矢代が側に居ると、どやされるので、今のうちに思いっきりニヤケておこう。
 彼の主人は気難しく横暴で、複雑で、気分屋で、行動の予想がつかない。この半年、何度、怒鳴られて殴られたかも、もう思い出せない。

———-でも。
俺はこれでいい。彼に付いて来て良かった。これからも付いていく、行き先が天国だろうと地獄だろうと。そこに迷いも後悔もない。

その確信こそが、俺の幸せだ。


 七原は、洗濯をこれからするか、明日にしようかと、家事の事を考えながら、灯りのついたアパートの部屋に向かって階段を軽やかに駆け上がった。


<fin>

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