ラビリンス【掌編小説:カラスver】
小さな息子は、ひとりぼっちで泣いているに違いない。
早く帰ってあげないと、と気持ちは焦るものの、両足に鎖が巻き付いていて、とても重く、ゆっくりと引き摺るようにしか歩けない。
重いのは、一歩ごとにジャラリジャラリと耳障りな音を立てる足首の戒めのせいだけじゃない。錆びた鎖がずっしりと腰回りにまつわりついて、身をよじる度に重たげに鳴った。私は、せめて少しでもそれらを取り除こうと手を伸ばし、その手を掴まれて、掴んだ主の方を見た。
そこには若い青年が立っていて、優しく微笑んだ。
「それ取っちゃダメですよ」
私は憤慨して「どうして?」と尋ねた。青年は「決まりです」と答え、私の裸足の両足を見下ろして首を傾げた。「どこに行くんですか?」
私は青年の身なりを観察した。白いシャツに同色のズボン。パジャマみたいに見える。思わず「その格好ってパジャマ?」と口にしてしまった。青年は笑い声を上げた。
「あは、パジャマか、なるほど。さあハルカさん、戻りましょうか」
「……嫌です」
青年の手を振り解こうとして抗った。彼は穏やかな表情を変えずに、私の腕を強く握って離さない。このままだと、迷宮の中に連れ戻されて、閉じ込められる。息子の泣き顔が頭に浮かび、私は泣きそうになりながら青年に懇願した。
「お願いだから離して。息子が私の帰りを待ってるんです。泣いてると思うんですよ、まだ小さいので。早く戻ってあげないといけないんです」
青年は、ごく僅かに眉をひそめた。
「そうなんですね。じゃあ、貴女を部屋に戻してから、息子さんが無事でいるか、確認してみます。大丈夫だと思いますけどね」
私は彼の顔をまじまじと見た。違う。心配なのもあるけど、私はあの子の顔が見たい。柔らかな頬に触れて、小さな躰を抱きしめて、もう大丈夫だよと囁いてあげたいのだ。私は絶望的な気分になりながら首を振った。
「お願い……ねえお願い、私を帰して。ここのことは、誰にも喋ったりしません。秘密は守ります。ぜったいに」
青年が僅かに目を見開き、何か言おうとして口を開いた時、金属製のベルを打ち鳴らしたような音が聞こえた。彼は顔を横に向けて表情を引き締め、こちらに向き直ると「そうだった。もうすぐ食事の時間でしたね」と言った。私は自分の顔がひきつるのを感じ、必死で身をよじったが、青年はがっちりと腕を掴んだまま離さない。
迷宮の通路はどこまでも滑らかな無機質さで、薄暗い。
私に残された時間は長くはない。ご主人の食事のための犠牲は、次こそ私の番かもしれない。青年は私の腕を引っぱって、ゆっくり歩き出した。私は引きずられながら、なおも抵抗を試みた。青年は少し慌てたように私を宥めようとする。
「ちょっとハルカさん落ち着いて。順番がありますから、あなたが食堂に行くのはもう少し後です。一時間したら行きましょ、僕もご一緒しますから」
「離してくださいっ」
突然、通路の角から大きな図体の黒い人影がぬっと現れた。人影は茶色いエプロンを身につけ、下半身は真っ黒な剛毛に覆われた牛で、太い首には牛の頭が載っている。私は恐怖のあまりすくみ上がった。青年が、その牛男に「ミノタさん」と呼びかけた。
ミノタさん……お話に出てくるミノタウロスような人影は、大きな眼で私をじっと見つめると、太い声で言った。
「どしたの。ハルカさん、またここが怖くなっちゃった?うーん困ったねえ……じゃあね、今から息子さんに電話してみましょう。声聞いたら落ち着くよね?息子さんね、遠いところに住んでるから、すぐここには来れないけど。近いうちに来てもらうことができないか、私からお話してみますから、ね、所長室行きましょ」
牛男は、白い青年の反対側にまわりこむと、私の肘を大きな手で握った。そして、青年と自分の間に私を挟むようにして、通路を進み始めた。
ああ、もう駄目、抵抗しても無駄だ。私は観念して目を閉じ、項垂れた。そのまま暗い通路の奥へと連行されてゆく……。
☆ ☆ ☆ ☆
介護グループホーム「埴生の宿」は、もうじき夜間体制に代わる。
入居者の食事が済んで、18名全員がレクリエーションルームか個室に入ったことを確認してから、僕は時計を見あげた。やれやれ、ようやく今日の勤務が終わる。身体の芯に溜まった疲労と解放感を感じて、大きく息をついた。夜間担当の看護師が出勤したら交代だ。
僕はこのホームに日中勤務する看護師だ。白衣を着替える前に所長と話しておこうと食堂に入った。片付け作業をしている職員の中に、所長の姿を認めて声をかける。
「美濃田さん」
テーブルの間で立ち働くふたりのうち、美濃田さんが顔を上げた。
「おう台田くん、時間まだいいの?」
「いや帰りますけど、春香さんのことで話しといた方がいいかなと。ちょっといいですか?」
美濃田さんは「おお」といい、もうひとりの職員に声をかけてから、大きな図体のわりに敏捷な身のこなしで、厨房の奥にある冷蔵庫からビールの缶を二つ取って来るとテーブルに置いた。僕は「酒、飲めません、バイクなんで」と言うと椅子に浅く腰掛けた。美濃田さんは自分の缶を開けた。
「大丈夫よ、ノンアルだからこれ」
そう聞いて、僕も自分の缶を開け、飲みものをひと口含んだ。美濃田さんは片手で首を揉み、笑みを浮かべながら「ふう」と言った。彼が動くにつれ椅子が軋んだ。縦にも横にも大きな身体に、癖のあるモジャモジャの髪の毛と豊かな口髭、つぶらな瞳が熊を連想させる。
所長に暗いところで会うと、巨体の迫力に一瞬ギョッとするけれども、笑うと一気に可愛らしくなって、さながら巨大なテディベアという感じだ。
美濃田さんはパチパチと瞬きをして、眉を八の字にした。まつ毛も無駄に長い。
「春香さん、徘徊の頻度上がってるよね。認知症進んでるなぁ」
僕は頷いた。
「春香さんが担当してる廊下の掃除と洗濯の補助。毎日は厳しくなってきましたね」
「まあねえ、認知症対策に家事やってもらって薬も飲んでもらって、それでも限界があるからなぁ。こればっかりはね……今月のお掃除担当は、えーと立川さんと、江藤さん、賢太郎さんか。明日、みんなに話そうか」
「それがいいと思います」
僕らは向かい合って、ノンアルコールビールの缶を傾けた。美濃田さんが息をついた。
「ここ最近、春香さんの中では、息子さんが子供になってるみたいだね。幼稚園とか小学一年生くらいの。泣いてるから早く帰らないとって。でも電話で息子さんと話してる時は、相手が大人でも違和感なく話してるんだよな。不思議なことに」
「電話の声を聞いた瞬間に、スイッチが切り替わるのかも。周りは矛盾だと感じても、本人には整合性があるっていう……。春香さん、しきりと『重い、重い』って言いながら服を脱ごうとしてました。止めましたけど。圧迫感があるのかもしれません」
「息苦しいのかな?薬、ちゃんと飲んでるかな」
「そのはずですけど……しばらく注意して見ます」
「うん。ボクも意識しとくわ」
僕は頬杖をつくと、思わずため息を漏らした。
「お年寄りの皆さんって『帰りたい』って言い出す人多いですよね。帰らなきゃ、会社行かなきゃ、アレやんなきゃ、って。なんか見てると切ないですよ。人間ってこんな風に一生、仕事から解放されないんだろうかって」
美濃田さんは優しく微笑んだ。
「あのひと達は人生の殆どの時間を『やんなきゃ』って過ごしてきた訳だから。けど、ボクが思うに人間、仕事してる方が幸せなんじゃないかな。あ、この場合の仕事は家事育児、生活維持全般を含んでるからね」
「僕だったら、もし一生遊んで暮らせる金が手に入ったら、仕事なんてソッコー辞めて遊びますよ。遊びまくりますよ」
美濃田さんはにやりと笑った。
「一年くらい遊んで過ごしたら、台田君、たぶん飽きちゃうと思うよ。遊びってのはさ、仕事の合間にやるから楽しいんであってね。そればっかりってなると楽しくなくなるよ。賭けてもいい」
「そうですかねえ」
「そういうもんだよ。……皆さんの話を聞いてると、こんな仕事やってた、大変な仕事だったって言ってる時、すごく懐かしそうなんだよね。長い間、頑張ってくれたんだから、堂々とゆっくりして欲しいとこっちは思うけど。自分と社会の繋がりが切れたように感じてるのかも……なんか道に迷ったみたいに、心細くなるのかなってさ」
「迷うといえば。春香さん、ここを迷宮って呼んでましたよ。閉じこめられてるって」
「ああ、よく館内をぐるぐる回ってるよね。やっぱ方向が分かんなくなってるんだろね。そんな広い建物じゃないのになあ」
「で、美濃田さん見て『ミノタウロス』って言ってましたよ」
美濃田さんはびっくりしたのか、ゲホッとむせた。
「ええっ!?えー……ミノタウロスって牛、のバケモンだよな?」
「頭が牛で、上半身が人間で、下半身が牛……じゃなかったでしたっけ」
「熊って言われたことは何度もあるけど、牛は初めてだなあー」
美濃田さんは、たっはっはと笑った。僕も苦笑した。
夜間担当の看護師、瀬川が来たので、申し送りをした。春香さんの薬のことも報告して、ついでに彼女の妄想……「迷宮」と「ミノタウロス」発言についても話した。瀬川はにやにや笑った。
「名前からの連想なのかもよー、ほら美濃田からミノタ。ミノタ、ウロス。ここが迷宮ねえ。いいよなぁ、退屈しなさそうで」
「楽しんでる感じじゃなくて……閉じこめられてるとか、秘密は誰にも言いませんとか、被害妄想に近い感じ」
「当たらずと言えども遠からずってトコじゃね?実際、閉じこめてる訳だし」
「別に閉じこめてなんか」
「俺らは爺さん婆さんを保護するって名目の檻を見張る看守、でもある。もっと言うなら……そもそも自由なんて幻想で、元からどこにもない。俺らも似たようなもん」
「それ、哲学の話?」
「うんにゃ、ただの詭弁。お疲れっす」
瀬川は欠伸をすると、持参したペットボトルの水を電気ケトルに注ぎ入れた。彼は仕事始めに、いつもコーヒーを淹れるのだ。僕は鞄を取り上げて救護室を出た。すれ違う職員の人たちに挨拶して、建物を出ると、駐輪場のバイクにキーを差し込み、エンジンをスタートさせた。
すっかり暗くなった道をバイクで走る。
この時間が、一日の中でいちばん好きな時間だ。バイクの心地よい振動と風を感じながら、とりとめのないことを考える。
晩メシどうするかな。溜まった洗濯もの片付けるか。そういや家賃の更新のお知らせ来てたっけ。今週末、田舎から荷物が届くって電話があったな。DVD借りて帰ろうか、いや撮り溜めたドラマを先に観ないと……。
(そもそも自由なんて幻想で、元からどこにもない。俺らも似たようなもん)
瀬川の台詞を思い出した途端、道のずっと先までひろがる暗闇が、この先の人生の、見通せない膨大な時間のイメージと重なって、僕はごくりと唾を飲み込んだ。
やらなきゃならない瑣末な事を、ただこなして行く自由。
何もしなくていい代わりにどこにも行けない自由。
……自分の意思で、そういう現在の状況に至る選択をしてきたこと、これからも選び続けること、それこそが自由なんだ。その筈だ。
春香さんも、入居者の人たちも、彼らが今いるところが人生の終着点であって、今まで人生を縛り付けていた『何かになって、何かをやらなきゃ』ってプレッシャーから、ようやっと解き放たれたんじゃないのか?
(息子が私の帰りを待ってるんです。早く戻ってあげないといけないんです)
人生どういう道を辿ろうと、いずれは“やらなきゃ”に囚われてしまうのかな。同じところをぐるぐる回って……人生は迷宮そのもの。うわ、雑で嫌なまとめ方だ、我ながら。赤信号でバイクを停車する。
……帰ろう。
どこまででも行ける自由が幾らあったって、結局は安心できる家があること、それがまず幸せのベースだ。だからみんな帰りたい、世界のどこかにある我が家に。
スーパーに寄って、ちょっといいビールと惣菜を買って、うち帰って洗濯しながらドラマを観よう。Home sweet home.
信号が青になった。バイクの前進するエネルギーを感じる。ライトが照らすのはすぐ近くだけだ。その先はただ──
──行手に広がる膨大な闇。
地球の上を、僕は進む。
そして想像する。いまこの瞬間にも、同じ地球の上で、誰かが死に、誰かが生まれていることを。
(完)
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