見出し画像

また、会うぜ。きっと会う。桜の下で【後編】

 ※[囀る鳥は羽ばたかない 二次創作]
 綱川と天羽 大学時代 & 
 七巻以降 矢代、百目鬼、七原

 時間は、華と綱川と天羽、そして小百合が食堂で会ってから数日後に遡る。

 とあるアーティストのファン繋がりで、二階堂 華と付き合いのある有馬奈々(ありまなな)は、華と天羽と三人で、某コーヒーショップの、奥まったソファ席で顔を合わせた。

 有馬奈々は、個性的な形のワンピースを上手く着こなしている。華とは別のベクトルで、服装に拘りがありそうなタイプだ。
 華から小百合の名前を聞いて、昔のクラスメイトと確信したという。

「越智さんとは、二年の時、同級生になったけど親しくはなくて。その頃から綺麗で目立ってて、でも同性の友達は居なくて。……どうしても、隣に居ると比べられちゃうし、女子は嫌がってて。あまり喋らないから男子も近づき難いっていうか」
 有馬奈々はケーキをプラスティックのフォークでつついた。
「彼女、同い年の兄弟が居たんですよ。男の子。二卵性の双子だって。目鼻立ちは似てなかったけと、二人とも綺麗で、雰囲気は良く似てました。二人は凄く仲が良くて。だから余計に、周りが入りにくかったっていうのもあるかもしれなくて」

 双子の兄の名前は「健(たける)」と言った。小百合とは違い、穏やかで社交的な性格で、男女共に友人が多かった。
 ある時、奈々はたまたま、近くにいた小百合と健の会話を漏れ聞いた。
「今週末、本田とライブに行くけど、小百合も行こうよ。ほら『北風と旅人』ってバンド。前座で出るって」
 健が小百合を遊びに誘っているようだ。
「ライブハウスは嫌い。知ってる癖に。健、本田君と仲が良いよね。最近、家でも彼の話ばっかりだし」
「そう?……そっか、気をつけるよ。本田は小百合と話したいって。なあ、一度くらいちゃんと話して」
「私は話したくないの!それより、今日は朗読の日でしょ。帰ったら部屋に行ってもいい?」
「分かったよ。今日は何」
「三島由紀夫」
 そこで予鈴が鳴り、奈々は席に戻ったが、会話内容に関心を持ったので、それを覚えていた。
「『北風と旅人』は私も好きで。ライブがあるなら行きたい気持ちもあったけど、週末に他の予定があったから、ちょっと残念に思っただけで、すぐ忘れたの。……その時は」

 次の月曜日、健と小百合は学校を欠席した。そのまま、二人は欠席を続け、木曜日に小百合だけが登校してきた。
 大まかな事情を教師が説明した。健は週末に大きな怪我をして、今も入院しているという。小百合は両親と共に付き添って、病院にいたらしい。
「みんな心配して、越智さんに色々聞きました。でも、彼女も凄くショックを受けてたみたいで。殆ど何も聞けなくて。退院後も自宅で療養してるとかで、学校にはずっと来なかった……」

 その月が終わる頃、健が自殺した。駅の近くの雑居ビルの屋上から飛び降りて。健の自宅からビルまでの防犯カメラには健の姿しか映っておらず、自殺という判断になった。

 健の通夜と葬式の後、小百合は見るからに憔悴し、誰とも話そうとせず、学校を休みがちになった。

 さらに数週間後、今度は本田が自殺した。健が死んだビルの近くで、やはり屋上から飛び降りて。立て続きに起こった男子生徒の自殺に、警察も前回より力を入れて捜査した。

 ビルの防犯カメラに本田と短髪の男子生徒が出入りするのが映っていたが、男子生徒が誰かは特定出来なかった。本田はとりわけ健と仲が良く、健が死んでからは酷く塞ぎ込んでいたらしい。
 最終的には、自殺という事で捜査は終了した。

「……生徒の間では密かに噂になってました。本田君と越智君は付き合っていたみたいだ、ライブハウスの人から聞いたって言う人がいて。……だから本田君は越智君の後を追ったんだって」
 奈々は一旦、口を閉じた。そして再び開いた。
「……けど、もう一つ噂があって。越智君の自殺の原因が本田君にあって、その復讐で越智さんが本田君を殺したって。……私……それを聞いても驚かなかった。越智さんが本田君を見る目……怖かった。凄く。だから」
 唇が震えている。手元のケーキは粉々になり、皿の上に粉状の小さな山を作っている。一口も食べていなかった。
 華は横に腕を伸ばすと、俯いた奈々の背中をゆっくりとさすった。


 有馬奈々が改札を抜けるのを二人は見送った。
 そこから数メートル先、他路線に乗り換える人向けに、広いホールになっている場所まで移動すると、華は壁にもたれて天羽の方を見た。
「どう思う?」
 天羽は行き交う人々、改札の方を見るともなしに眺めながら、腕組みをした。
「さあ。……仮に二番目の自殺は殺人で、カメラに映っていたのが変装した越智小百合だったとしても、もう三年も経ってる。映像の他に証拠があってもとっくに隠滅してるだろうし、警察が特定出来なかったなら、映像も決め手にならないんだろう」
 天羽は考え込んだ。華は天羽に尋ねてみた。
「綱川君に言った方が良いかな?」
「お前はどう思う」
 質問に質問で返されて、華は唇を噛んだ。
「……私はさ、越智さんが何者でも、綱川君と今、幸せなら……もしかすると、時間が経てば全て丸く収まるかも。越智さんも、もう過去を忘れる気になったのかもしれない。だから……」
 天羽は華の顔を見つめた。
「疑わしきは罰せず。俺達に彼女を断罪する権利はない。綱川の女が人殺しだろうと何だろうと、俺らは関係ない。そういうことか」
 華はますます表情を険しくした。
「そんな言い方……証拠は無いんでしょ。何?訳ありは幸せになっちゃいけないっての?」
「お前がそもそも、噂について俺に話したんだろ?今になってどうした」
「……」
「愛する者を失った悲劇のヒロインに、同情の気持ちが沸いたか」
 華は天羽を睨みつけた。
「だったら何。アンタのそういう上から目線、めっちゃムカつく。訳ありでヤバイ女を切りたい?ならそうすりゃいい。天羽君ってさ、いっつも自分は関係ないって顔してるよね。そういうトコ、三角さんとは大違い」
 天羽と二階堂 華は睨み合った。数秒後、華の方から目を逸らし、俯いて謝った。
「ごめん」
 天羽は華を見つめ、ふと、悲しそうな顔になった。
「……分かってる」
 華はハッとし、顔を上げると天羽の腕を掴んだ。天羽の身体が壁側に引き寄せられ、彼は片手を壁についた。
「お前は本気で綱川も、越智小百合も心配してるんだな。……そういうところを尊敬する、二階堂」
 天羽は身を屈め、二人の唇がごく僅かに触れ合い、離れた。
 天羽は彼女の手をそっと外すと、華の顔から目を逸らし、改札に向かって振り返らずに歩み去った。
 華は、改札を抜ける天羽の後ろ姿を呆然と見送り、唇に手を触れた。


 開店したばかりで、まだ人の少ない居酒屋の一角。
 天羽は携帯の写真を綱川に見せた。
 石に刻まれた『昭和六十四年四月八日没 俗名 健 行年 十七才』の文字。墓石の間から見える小百合の後ろ姿。置かれた一輪の花の包み。

「『たける』は、双子の兄貴だってのか?……信じらんねえ。それってつまり……」
 綱川は渋い顔をして写真を眺めた。天羽はその様子を見つめながら
「二人の関係の本当のところは分からない。彼女が、本田という生徒を殺したのかどうかも。……ただ、健の実在はこれで裏取りできた。本田と一緒に通っていたらしいライブハウスでも話を聞いてみた。そこで二人が同性の恋人同士だったという話も聞けた。
……健が怪我をした日、ライブハウスか、そこから帰ってからか、何かが起こった。ポイントはそこだろうな」
 綱川は半ば呆れて天羽に携帯を返した。
「お前なんでそんなに前のめりなの?」
「疑問は明らかにしないと気が済まないタチで……いや。正直言って、興味があった。雪の女王の意外な過去とその素顔。ワイドショーさながらだろ」
「……らしくねえな。そんなにゴシップ好きとは思わなかった」
 綱川はジョッキを飲み干し、空になったそれを置くと俯いた。卓に両肘を付くと手で頭を抱える。天羽は無言で唐揚げを口に放り込み、ハイボールを煽った。

 綱川が少し顔を上げた。苦い物を飲み込んだような顔をして、視線は卓の上から動かない。
「……知らなきゃよかった……なあ、これから俺は、どうすりゃいい」
「普通ならドン引き案件だが、お前にとっては、朗報かもしれない」
「あ?どういうことだ?」
「彼女が普通の家の堅気の女なら、ヤクザの息子との付き合いは卒業までだろうな。でも、脛に傷持つ女なら話は変わってくる」
「……人殺しで、兄貴とヤってたかもしれない女を女房にしろと?」
「案外、目の前で小指が飛んでも動じない、出来たヤクザの女房になるかもな」
「冗談でしょ……」
「最中に呼んでたって『たける』は、同じ名前の別の奴かもしれないぞ」
「……それもこれも、本人に聞いてみるしかない、か」
 綱川は酒臭いため息を盛大に吐き出し、眉間に皺を寄せた。
「俺が聞いても、まともに答えないかも……あーそうだ、華ちゃんから聞いて貰うって手もあるな、その方が」
「それはやめとけ」
 天羽の強い口調に綱川は顔を上げた。天羽は綱川と目が合うと、顔を赤らめて気まずそうに目を逸らす。綱川は驚いた。
「まさか……惚れたか、その顔は?!へええ、お前がねえ〜」
「違う!酒で酔ってるだけだ」
「照れるなよ、良いじゃん華ちゃん、しっかりしてるし明るくて優しいし」
「だからだよ!!」
 天羽は怒ったような、困ったような、何ともいえない顔をして言い募った。
「もう巻き込むな。ただでさえ彼女はコッチに近すぎる。これ以上踏み込んだら戻れなくなるかもしれない」
「それならそれで」
「絶対駄目だ!卒業したら店を辞めて、堅気の世界に戻って貰う。俺達は、もう関わるべきじゃない」
「……決めるのは彼女だろ。でもまぁ、お前の言う事もわかるわ。見たとこ脈ありげなのにさ。いーのかよ、お前はそれで」
「むしろ今すぐに店を辞めて欲しいくらいだ」
「お前さぁ、そんな調子でいると一生童貞だぜー。……冗談だよ、睨むなって。ゼロか百か、しかないのかよ」
「幸せになって欲しいんだよ……」
 天羽の目が据わっている。彼は次第に前に傾きながら言葉を続けた。
「覚悟しろよ。死人相手は……厳しいぞ。死人には……勝てない……」
 天羽はついに卓に突っ伏した。

 綱川は興味深く天羽を眺めた。
 いつの間にこんなに飲んだんだ。鉄の自制心を持つ男かと思っていたけれど、人並みに誰かに惚れたり狼狽えたりするんだな。

 ……酔い潰れて寝ている天羽の姿に、ふと、去年見た彼の父親の面影が重なる。
『真誠会の鬼神』三角。全てを包み込む器量と同時に、底知れぬ闇のような凄みのある目。
 見た瞬間に思った。絶対に敵に回したくない。こいつがウチの組にいない事は、俺にとっては幸いだった。でなければ、組長の跡目はとうてい望めなかっただろう。

 目の前の天羽に何度か言葉をかけたが返事はなく、綱川は苦笑した。携帯を取り出して、組の人間に迎えを頼んだ。
 その時、メールに着信がついているのに気付く。……小百合からだ。
『今、なにしてるの?最近、会えないね。明日、大学で会える?』
 綱川は気分が沈み込んでいくのを感じる。
「たける」は、もう死んでいるらしい。俺はどうする。
 ……しかし分かってもいた。自分はこのまま何も聞かずに彼女と向き合う事はできない。


 季節は初夏に入りつつあった。
 綱川家は古い平屋で、棟を繋ぐ長い板張りの廊下は古民家の風情だが、現代の技術で耐震断熱の工事を施してある。
 先々代から続く日本庭園では、季節の花々が絶えず美しさを競い合っている。

 綱川が気に入っている一角は、広い客間に隣接する縁側から、見事な枝垂れ桜を見ることが出来た。今は葉桜になり、しなやかな枝を揺らしている。
 越智小百合と綱川は縁側のすぐ内側、座敷内に向き合って座り、冷えた緑茶を飲んでいた。微かに蒸し暑さを感じる午後、予報は夕方から雨、となっている。      
 厚い雲の下、薄闇に包まれた座敷から見ると、窓際に座る二人のシルエットは緑の背景に浮かぶ四角い絵のように見える。

「……本田君を殺したのは私」
 綱川の疑念に対して、小百合はあっさりと自身の犯行を認めた。綱川は内心、驚いた。やけくそでも、居直っている訳でもない。全く平静な態度で彼女は静かに話を続けた。
「でも直接、手を下したわけじゃない。ある人にお願いしたの。本当は私が自分の手で殺したかった。でも警察も、二度目の自殺となると、一度目より慎重に捜査する可能性が高いし、私は関係者だから、どうしても危険を犯せなくて」
 小百合はお茶を煽った。綱川は水差しから、彼女のグラスに冷茶を注いだ。
「ある人ってのは『ブラックマンバ』の生嶋(いくしま)、だよな?」
小百合は僅かに目を見開いた。
「凄い。どうして分かったの?警察は彼らが関わってる事すら分からなかったのに」
「半グレの情報は、警察とか堅気連中には難しいけど、意外と裏のネットワークなら入手しやすい。越智小百合は、半グレリーダーのオンナだった。……俺と付き合うまで」
「それも、天羽さんの入れ知恵?」
 綱川は無言で茶を啜った。
……生嶋経由の情報で、俺と天羽の親父の事も先刻ご承知ってワケか。

 小百合は穏やかに言葉を続けた。
「大物ヤクザの息子と付き合う事になった。そう言ったら素直に別れてくれたの。嫌な男だった。何かと昔の事を持ち出して脅してくるし。だから綱川君には感謝してる」
 小百合は微かに首を傾げて微笑み、綱川は苦笑いした。
「奴が別れなかったら、俺に『お願い』して、始末してもらうつもりだった?」
 小百合は口元に笑みを残したまま無言で目を伏せた。綱川は小百合の、グラスを持つ手を見つめる。

 空の雲は暗さを増し、空気はじっとり湿り気を帯びて来た。
「たけるって双子の兄貴を殺したのもお前か?」
 綱川は思い切って尋ねてみる。小百合の顔から笑みが消えた。沈黙の時間が過ぎ、数刻の後、小百合は口を開いた。
「……私達は一心同体。私には、とても明快で当然の事なのに、健は私との関係に悩んでた。……男って馬鹿みたい。出す前は触れるとすぐその気になる癖に、出した後はおかしなぐらい悩み出す。だったら欲しがらなきゃいいのに。ホント、しょうもない生き物」
「……」
「どのみち、成人する前に私達は一緒に死ぬつもりだった。双子として生まれてきたことが間違いだったから。生まれ変わって、今度こそ、誰からも非難されない恋人同士になるの。
 ……なのに、高校に入って、健は変わってしまった。私とはただの兄妹に戻って、お互い他に恋人を作るのが普通だなんて言い出した。あの頃は、いつもそうやって最後には喧嘩してた……」

 小百合は悲しげに俯いた。以前にも見た表情だ。まだ付き合う前、栞を失くしたと悲しんでいた表情だ……。
 何度も読んだ台詞が口をついて出た。
「また、会うぜ、きっと会う。桜の下で」
 小百合はハッとしたように顔を上げた。綱川と目が合う。
「……あの、栞は。私が健に贈ったものだったの。あの人は桜が好きだったから」
 小百合は顔を歪め、目を伏せた。
「わたし、は……先に死のうとした。健が他の人のモノになるのを見たくなかった。包丁で自分の頸を切ろうとして健と揉み合いになって。気がついたら、血塗れになった健が目の前に倒れて。……よく憶えてない。病院に行った気もするし、学校に行った気もする。まわりで大人が色々言ってて……」
 小百合は両手で耳を塞いだ。目は畳を通り抜けて、どこかを見ている。綱川は身を乗り出し、小百合に近づいた。
「本田君に言われた。『お前が健を追い詰めてる』って。……健は私のものだったのに。生嶋に『本田を殺せば俺のオンナになるか?』って言われて、受け入れた。あいつさえ居なくなれば。なのに、健は……一人で。一人で先に。どうして。……私を止めたくせに、ずるい。健はずるい」

 小百合は耳を塞いだまま、前屈みになった。見開いた目から大粒の涙が溢れて、彼女の膝に落ちた。
 綱川は複雑な気分でそれを眺めた。
「……本田が先に死ぬ筈だったのに、その前に健が自分で死んじまったってわけか。それでもオンナを手に入れる為に、生嶋は自分の駒を使って本田を殺した。それがたまたま……なのか、狙ったのか知らんが、警察の捜査を撹乱する結果に繋がった訳か」
 小百合は同じ姿勢で、涙を零し続けている。
 辺りは暗くなり、座敷は闇に沈んだ。遠雷が低く響いている。ポツポツと降り出した雨が、庭の草木を叩く。

 雨は次第に勢いを増していった。
 小百合はぼんやりした顔で虚空を見つめている。綱川は苦々しい表情で言葉を投げた。
「アンタさ、自覚あんのか?そのガキっぽい、厨二じみた妄想で、男二人を死に追いやったっていうさ。……それともアレか、兄貴が生まれ変わって会いに来てくれるってマジで信じてるとか?」
 小百合の視線は強さを取り戻し、綱川を見据えた。
「いけない?……健が死ぬ前に、私の机の上に本を置いて行ったの。そう、あなたが拾ってくれたあの本。あの台詞の所に栞が挟んであった」
 小百合の声は震えた。
「朗読する時に、いつも『滝』の処を『桜』に変えてたの。生まれ変わった時に再会するなら、絶対、桜の下がいいよねって……」

 ふいに綱川の中に映像が蘇った。青空の下で舞い散る桜。
『やっと会えた!』……俺は確か、彼女にそう呼びかけた。……彼女の驚いた顔は失望の表情に変わる。

……そうか。あれはそういうことだったのか。

『覚悟しろよ。死人相手は……厳しいぞ。死人には……勝てない……』

最初からずっと。彼女の心は。

 縁側に激しく叩きつける雨の飛沫が二人を濡らす。雷の音が響き渡った。
 綱川は辛さを堪える顔で手を伸ばし、小百合の片手を握った。彼女はどこか疲れたような表情で
「私をどうするの?……別れる? 警察に引き渡す? それとも、あなたが殺してくれる? ……あなたなら殺せる。……殺して欲しい」
 小百合は、握られた自分の手に、もう一方の手を添え、彼の片手を両手で包み込むと、それを持ち上げて自分の首に持っていった。小百合の目は痛い程に必死だ。綱川は、泣きそうな顔で女の首を握った。

握る手に力を込める。
小百合は目を閉じた。

一瞬、辺りが白く輝き、二人の影を座敷に刻む。
雷鳴が大きく轟いた。

 綱川の手から力が抜けた。首から離れた手はダラリと下がり、綱川の脇に戻った。小百合は目を開けると綱川ににじり寄り、両手で綱川の肩を掴んで、揺さぶった。
「お願いっ!!」
 綱川は小百合の熱に圧倒された。何度も身体を重ねた彼女と初めてまともに向き合った気がした。
「綱川君、お願い、お願いだから……こんなに頼んでるのに。私が……頼んでるのに……」
 小百合は顔をくしゃくしゃにして泣き崩れた。

 綱川はやるせない気分で女を眺めた。
 他の男を想って泣く彼女は、びしょ濡れで化粧も何もかも雨と涙でぐしゃぐしゃで。でも綺麗だ、本当に……。
 綱川は身を乗り出すと両手を伸ばし、子供のように激しく泣きじゃくる彼女をゆっくりと引き寄せて、そっと抱きしめた。


 その後、綱川は小百合と別れた。殺人の件ではない、彼女の中に他の男の影がチラつく事が耐え難かった。
 それから間もなく、小百合は大学を中退した。学内の噂では、街中で一眼惚れされ、熱心にアプローチされたらしい。相手は若手の官僚で、両親の強い勧めですぐに結婚したらしかった。
 それを聞いても綱川の心は不思議なほど凪いでいた。むしろ嫌な予感がしていた。何事もなく彼女が幸せになれればいいが。

 綱川と天羽が卒論に追われていた頃、小百合は死んだ。自殺だった。自宅マンションから飛び降りたらしい。


 卒業を控え、綱川は天羽を祝杯に誘ってみた。自宅で夜桜を眺めながら飲もう、との誘いに、珍しく天羽は応じた。卒業すれば、今までのように気軽に会うのは難しくなる。それが頭にあったのかもしれない。

 既に綱川は『家業』を継ぐための修行と称し、組員と共に投資詐欺に手を染めていた。天羽は大手企業の内定を受けている。まずは就職し、奨学金を返す。その後に改めて、三角に、彼の元で働く事を認めて貰うつもりでいた。

 ライトアップされ、闇に浮かび上がる見事な枝垂れ桜の横で、日本酒の入ったグラスを縁側に置くと、綱川はあぐらの上に頬杖をついた。
「……俺さ、彼女の事はなんも知らねんだ。好きな食べ物とか欲しいもんとか、行きたい場所とか。聞いてもはぐらかされたし、付き合いも短かったけど……そういうの後で気がつくと地味に堪えるっつーか」
「そういうものか」
 天羽はウィスキーの水割りを飲みながら、ポテトサラダを口に運んだ。綱川は焼いたホッケを箸でつつきながら
「意地はってないで華ちゃんとくっつけよ。今ならまだ間に合うって。華ちゃんから時々メール来るけどさ、何気ないフリしてお前の事を聞いてくんの。まだ気があんの見え見え。勿体ねえ」
「俺のキャパはもう一杯で、他を入れる余地がない。器の小ささは自覚してる」
「マジでお前、ヤクザとか……やめとけよ。お前なら堅気で充分、結果出せるだろうに」
「お前こそ、下手打って警察に目を付けられるなよ。こっから十年が大事だ。ムショに入ってる暇なんかないぞ」
「ご忠告どーも。……あ、そうだ」
 綱川は立ち上がると、部屋を出てゆき、数分後に何かを持って戻ってきた。腰を下ろすと、天羽にそれを渡した。水色の紐の着いた栞だ。
天羽は驚いた。
「これ、あの時の栞か?」
「似てるよな、けど別もんだよ。彼女が別れる時にくれたんだ。以前に惚れた男にやったもんと似た物を、次の男にもやるって。その心理、分かるか?」
「……理解不能だ」
「ホント。女は分からんね」
 綱川は灰皿を縁側に置き、その上に栞を置くとライターで火を着けた。栞は木の燃える独特の香りを放ち、炎が闇を照らす。
 ボソリと綱川が呟いた。
「ここの桜、見せてやりたかったなぁ……」
 花びらが一枚、灰皿の中に舞い落ちて燃え上がった。二人は栞が燃え尽きるのを無言のまま見守った。


 そこから二十年以上の時が経った。

 綱川は桜一家の組長を襲名し、現在では妻と一人娘がいる。毎年、桜一家では、最初に綱川の客人を招いて、次に組員だけで、年に二回、花見が催される。舞台はもちろん、あの枝垂れ桜だ。年月を経てますます美しく、見事な桜を咲かせている。

 今日は昼から、矢代と天羽、ついでに七原を招いて、昼食会を兼ねた花見が催されていた。
 天羽は三角の代理だった。三角は外せない用事があって天羽に代理を言いつけたが、三角の右腕として、同時に道心会の事務トップとして多忙を極める天羽に、たまには友人の家でゆっくりしてこい、という親心であったかもしれない。
 天羽にとっては大きなお世話だったが、代理という名目では断る訳にもいかなかった。

 庭に桜を臨む座敷内の長テーブルに酒肴が並べられ、綱川の隣には矢代と七原、向かいには天羽が座り、連と組員の接待を受けている。いつもは運転があるために酒が飲めない七原も、今日は運転要員に百目鬼をあてにして、酒と肴を楽しんでいた。

 綱川は、矢代の盃に日本酒を注ぎながら
「……ナンバーワンキャバ嬢で、同級生の美女に『あたしのファーストキス、返せ!』って学食で派手にビンタされてたよな。なあ天羽」
 矢代は笑って言った。
「天羽さんも、昔は女を泣かせてたんですねえ」
 天羽は露骨に不機嫌な顔をし、綱川に向かって小声で言った。
「お前のネタもバラすぞ」

 こちらに近づく妻の姿が視界に入り、綱川は思わず口を閉じる。綱川の妻は肴の大皿をテーブルに置くと、天羽に話しかけた。
「天羽さん、ご無沙汰しています。皆さん、どうぞごゆっくり。ウチで作っているので簡単なものばかりですけど、お口に合いますか?」
 天羽は微笑んで応えた。
「ありがとうございます。美味しいです」
 矢代と七原は驚愕した。二人ともそれなりに天羽とは長い付き合いだ。なのに笑顔を見たのはこれが初めてだった。

 七原と矢代はヒソヒソと話した。
「普段、笑わない人の笑顔って、破壊力抜群っすねぇ」
「二十年の付き合いだけど、この二時間で印象激変だわ」
 若頭の連は、さりげなく皆に酒を注ぎつつ、空いた皿を下げるように組員に指示し、矢代に話しかけた。
「矢代さんと七原さんは、昔からの兄弟分と聞きました。気心の知れた仲という感じですね」
 矢代は答えた。
「確かに長いですねぇ。その割には使えない、まぁパシリ兼サンドバッグですかね。俺も相当おかしな人間なんで、出来る部下は皆んな逃げちまって、この程度の奴しか手元に残らない。悩みどころですよ」
 七原は酒に酔ったのか、赤い顔をして頷いた。
「そーっすね、やっぱ部下は上に立つモン次第……」
「あ?今なんつった」
「いやー俺の上司は出来る人で良かったっつー……イッイデデッ」
 矢代は七原の耳を引っ張った。
「最近調子に乗りすぎだテメーはっ」
 ブフッ、という音がして、皆の視線が天羽に集まった。天羽は横を向いて、咳をしているフリをした。綱川はニヤニヤしながら
「まぁ色々あっても、まだ五体満足で極道やれてんだから、それだけで上等ってモンだろう」
 それを聞いて七原から笑顔が消え、誤魔化すようにビールを煽った。矢代は綱川に返杯しようとし、酒を溢してしまった。
「すみません、手元が狂って……少し、酔いました」
「いや、構わねぇ。おい、茶を用意しろ」
 七原は気遣わしげに矢代の方を見た。その様子を観察し、天羽は僅かに目を細めた。連は組員と共に、手ぬぐいと茶の用意をするため席を立つ。

 酔い覚ましに、と矢代は庭に歩み出て、見事な枝垂れ桜の間近に立った。矢代は明るいグレイのスーツで、花見に合わせて桜色のネクタイを締めている。
 良く晴れた昼過ぎ、春の若葉色が溢れる庭の四方には、さりげなく見張りの組員が立っている。その中には百目鬼もいた。

 百目鬼は、桜を見ている矢代の後ろ姿をじっと見つめる。
 その視線にこもる想いは、綱川にも見て取れた。いつも無表情な百目鬼の切なげな顔に綱川は密かに驚き、心の中で苦笑した。
(やれやれ、ダダ漏れじゃねーか……。聞いてる以上に色々と曰くがありそうだな、コイツは)

 綱川は盃を口に運び、天羽に話しかけた。
「……いやあ、絵になる男だねえ。しかも中々面白い。変わりモンの上司には変わりモンの部下が集まる。三角さんが気に入る訳だ」
 天羽は綱川を見た。
「そうだな……」
 そのまま視線を巡らせて、桜とその下に立つ矢代、そしてそれを見つめる百目鬼を眺めた。

 一陣の風が吹きつけ、桜の花びらを一斉に散らした。
 少し離れた所から見ると、矢代は花びらの渦の中に立っているように見えた。彼の髪や肩に花びらが降り積もる。

 その一瞬、花びらの降りしきる中にグレイのワンピースを着た女の後ろ姿が見え、綱川は盃を取り落とした。
 テーブルの上に盃が転がり、酒が飛び散る。天羽は驚き、綱川に声をかけた。
「どうした?」
 綱川は青い顔で桜と、その下にいる人物を凝視した。

 その人物は、ゆっくりと振り返る。

 一歩、踏み出した時に足元がよろけ、それをとっさに側で支えたのは百目鬼だった。
「大丈夫ですか」
 矢代は焦点の定まらぬ目つきで百目鬼を見た。
「……ああ。悪い」
 百目鬼の腕の中から抜け出そうとし、空中に舞う花びらの一枚が、百目鬼の鼻先にくっついたのを見咎める。
 矢代は指先でそれを摘むと、口を開け、紅い舌先にそれを載せて、そのまま口を閉じ、飲み込んだ。
 呆気に取られた百目鬼の顔を見て矢代はニヤリと笑い
「甘え」
 と、ひとこと言うと、座敷の方へと歩みを進めた。百目鬼は矢代の後ろ姿を見送り、綱川と天羽の視線に気付くと慌てて顔を背け、その場から離れた。
 彼の耳たぶは濃い朱色に染まっている。

 矢代が身体に付いた花びらを払いながら座敷に戻ると、綱川は俯き、右手の人差し指と親指で、両目を押さえていた。
「どうされたんですか」
 矢代の声に綱川は顔を上げ、どこか苦しげな笑顔で
「ちっと目が、かすんで。歳かねえ」
 矢代は穏やかに答えた。
「分かります」
 彼はつっかけを脱ぐと座敷に上がった。トイレから戻ってきた七原と言葉を交わす。

 綱川は天羽の視線に気づき、桜を見ながら言った。
「ヤクザの家の庭に昔からある桜……てえと、根元に死体が埋まっててもおかしくねぇよな。……あの時、女をここで殺していたら、俺はあそこに埋めたかもな。したら、桜の時期にはここに化けて出てきたかね。それともとっくに生まれ変わってるかな?お前、どう思う?」
 天羽も桜を眺めた。
「……仕事が山積みなんだ、まだ死ねない。死者に会うのは地獄に行ってからで充分だ」
「そうだな」
 綱川は座敷の奥、開け放ったドアの向こうの廊下で、組員と何か話をしている娘の仁姫(にき)を見やった。

 ……まだ、やることがある。まだ死ねない。無事にジジイになれるとは思っちゃいねえ。だが娘が大人になるまで。
 ……せめて二十歳になるまでは。
 綱川は桜を、挑むように睨みつけた。

 澄んだ青い空の下、満開の桜を重そうに吊り下げた枝間に陽が差し、光の筋を作った。
 舞い落ちる花びらは光に照らされた刹那、キラキラと煌めき、地面に降り積もる。

春の雪のように。


いいなと思ったら応援しよう!