約束の秋桜【2000字ドラマ#あざとごはん】
「ぎゃああああ!」「うそおー絶対うそっ」
観光案内所で手に入れたロケマップを握りしめ、わめき散らした金曜日の秋桜畑。
“韓流アイドルグループ『少年時代』イ・ヨヌ 結婚を発表”
土曜日の朝、私は重い頭を抱えてゲストルームのベッドからのっそり這い出した。枕元のペットボトルを飲み干す。平日のオフシーズンで、ゲストルームはガラガラだ。ゆうべ帰ったとき、何人か客を見かけた気がするけど、今朝は人影がなく、宿の人の姿も見えない。
私はスマホと財布が入ったボディバッグをひっかけて、食堂に行ってみた。大きな長テーブルが二つ置いてあって、一つのテーブルに椅子が六脚、計十二脚並んでいる。あとは広いシンクと冷蔵庫があって、その中にはバターケースとジャムの瓶、持ち主の名前を書いた飲み物がいくつか。私のビールもあった。
私はそれを取り出して腰を下ろし、椅子の背に寄りかかると、冷たい缶を額に押し付けて、目を閉じた。
派遣先の契約が完了して、今がチャンスと、以前から行きたかった韓流ドラマの聖地巡礼に出発したのが木曜日のことだ。
昨日、衝撃ニュースを知った瞬間、居合わせた年齢も様々な五人の女達は、初対面にも関わらず、テレパシーのように完璧に心が繋がった。だって私も彼女たちも、旅のメインはイ・ヨヌが主演した大人気ドラマ「愛の結晶」のラストシーンだったわけで。ドラマと同じように、夕暮れのなか揺れる“約束の秋桜”は夢のように美しくて。その眺めに感極まってお互いに写真を撮影し合い、幸せいっぱいにその場を後にしようとした時、よりによってあのニュースを見てしまったわけで……。
その後、私たちは「信じられない信じたくない」を連呼しながら居酒屋になだれ込んで、スマホでwebに溢れる阿鼻叫喚を眺めながら、お互いのグッズを自慢したりツアーの動画を見せ合ったり、ドラマの感想を喋りながら泣いて、飲んで笑ってまた泣いて……。
私は深い溜息をついた。ふと、テーブルに置いてあるカゴが目に入る。緑色の葉っぱに包まれた細長いものが沢山積まれていて、カゴの下にメモが置いてあった。
『Eat freely ご自由にどうぞ。朝穫りとうもろこし。生でも食べれます』
ひとつ手にとってみる。ずしっとした手応え。端から褐色の繊細な糸の束がのぞいている。葉は幾重にも実を包みこんで、中身は全く見えない。濃い緑色の外側の葉を数枚、剥がすと、内側はあかるい薄緑色で、爽やかな香りが立ち昇った。
……茹でたて、食べたいな。
コーン缶は時々使うけど、とうもろこしを食べるのは、社会人になってから初めてかもしれない。私はスマホで茹で方を検索した。一番内側の葉っぱは残したまま茹でた方が美味しくなる、らしい。私はとうもろこしを二つ手にとって、糸の束を手で千切ると、葉っぱを剥く。薄皮ごしに黄色い実がうっすら見えたところで手を止めて、丸ごと茹でられる鍋を探した。
鍋に水を入れ、塩を大さじ二杯加える。
沸騰した湯に、薄緑色のとうもろこしをそっと入れた。湯気に青い匂いが混じる。レシピによれば、茹で時間は十分、蒸らしが十分。
菜箸で皿に取り出した。白く甘い湯気が立つ。からまる薄皮を菜箸で剥がして、みっちり詰まった黄色い実に歯を立てた。
熱い。甘い。
まるでジュースの塊みたい。半ばかじって半ば飲み込み、夢中でむしゃぶりついた。知っている食感よりも、瑞々しくて柔らかい。一本食べ尽くすのはあっという間だった。私は我に返って、口の周りをぬぐった。
……あんなに悲しくて、途方に暮れていたのに。私、いま、推しのこと全く頭から消えてたわ。そうかあ、この世の終わりかってくらいしんどくても、美味しいものは美味しく食べれてしまうんだな、私って。
気を取り直して、二本目はじっくり味わって食べよう、と私は冷蔵庫からバターケースを取り出した。添えられたバターナイフで掬い取ったひとかけを、まだ温かい黄金色の実の上に落とした。それから卓上醤油をとって、ひとたらし。バターと醤油の香りが堪らない。ひとくちかじりついた。あーこれ間違いないやつだ、生バター醤油コーン、うますぎる。
ポン、と音がして、手元のスマホにLINEが来た。昨日、知り合った女の子達のグループLINEから。
『おはよう。ヤンニョムチキンの美味しい店に行きたいけどひとりは怖い。今晩、一緒に行ってくれる?』
ドラマの中のヒロインの台詞だ。私はイ・ヨヌの返しの台詞『君は近づくと逃げるのに離れると追いかけてくる。まるで猫』と打ち込んだ。ほとんど同時に、他の三人も同じ台詞を返してきた。自然と顔がほころんだ。その返しは勿論、ヒロインのこの台詞。
『待ってるにゃん』
これはドラマごっこか、それとも本物のお誘いなのか?
私はどの台詞で返そうか、と考えながら、もうひとくちかぶりついた。
(完)