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籠の中の鳥

※[囀る鳥は羽ばたかない 二次創作]
本編6巻 矢代と百目鬼。退院の日の早朝。

かーごめ かごめ かーごのなーかの鳥はー
いついつ出やるー

 闇の中で、か細い子供の声が歌う「籠女」の歌を聞いて胃が縮み上がる。あの夢だ。

 夢の中で矢代はいつも幼い子供だ。いつものようにおどおどと周りを見回す。いつものように必死に逃げ道を探す。もう見る事はないかもしれない……そう期待し始めていたが、忘れた頃にやってきては、彼を打ちのめす。

 夢の舞台となる場所は様々だった。自宅、公園、学校。見慣れた場所の筈だったが、夢の中では限りなく続く迷路のように複雑になった。
 その薄闇の世界に居るのは自分と義父だけだ。あの男はいつも自分を探している。見つけたら文字通り取って喰うつもりだ。夢の中で男は人間というより鬼のようで、輪郭は黒くぼやけて顔はよく分からない。

 鬼は決して諦めなかった。どこに逃げても隠れても、必ず見つけて追いかけてきた。いつも最後には捕まる。そして彼を暴行し蹂躙し、虫の息になった所を引き裂いて喰らう。
 痛みは無かった、気が狂いそうな恐怖があるだけ。何でもない、これはただの夢。いつか終わる。夢の中で必死に自分に言い聞かせる。見るな、感じるな、考えるな、ただ待て。これが終わるのを。

 ……そして闇の中で冷や汗に塗れて目覚める。そんな時は激しい動悸と震えが収まるまでじっと待つ。時には、身体をベッドから引き剥がすように起き上がりトイレや洗面所に駆け込んで吐いた。何度も胃液を吐いた後、目に涙を滲ませながら、ソファにくずおれるように座り込む。
 真っ暗な部屋の中、蒼い夜明けの薄明かりがさす窓を見つめる。腹の底に、恐怖の残滓と、どす黒い怒りを感じながら。

 大人になれば、強くなれば、無くなると思っていた。確かに成長するに従って頻度は減っていった。だが消えなかった。きっと死ぬまで消えないんだろう。囚われ続けている自分に心底ウンザリする。
 ……そして朝になると必ず、セックスできる相手を探した。

 今回の舞台は、病院だった。多分、今いる場所が病院だからだろう
(まんまホラー映画だ)
 僅かに残る大人の意識がそう思う。だが直にパニックが押し寄せ、パジャマを着た子供の彼は、靴下の足で駆け出す。薄暗い病院の中には誰も居ない。昼間に見た建物の構造はどうだった?病院なら隠れる場所はいくらでもある。

 扉は無限と思えるほど数多かったが、どれも開ける事が出来ないとすぐ気付いた。心に恐慌が押し寄せるのを必死で押し留めようとする。玄関は何処だ?下に降りていけば直ぐだった筈なのに、何度階段を降りても見つからない。

 ふと立ち止まり、自分の激しい動悸を感じながら耳をすます。
……まだ遠い。が……聴こえる。鬼の足音と獣のような息遣い。何方から聴こえる?落ち着け、息を整えろ、早く隠れる場所を探せ。矢代は何度か深呼吸し、出来るだけ静かに移動を再開する。廊下の角に辿り着く度に、慎重に行く手を確認しながら、進んでゆく。

 無人のナースステーションの側に、広場のような一角があり、大きな植え込みの鉢がいくつかと、細長い固そうなソファが3つ、並行に並んで配置されている。ソファと鉢植えの位置を変えれば隠れるスペースが作れるかもしれない。ソファに手をかける。

 ふいに、何者かに手を強く掴まれて矢代は叫び声をあげる。いつの間にか黒い大きな男がすぐ側にいる。矢代はパニックになった。男から離れようと滅茶苦茶に暴れる。
「嫌だ嫌だやめて! 助けて! やめてええー!」
男は片手を掴んだまま、もう一方の手で矢代の胴を捕まえて抱きしめ、物凄い力で締め上げてくる。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だああーっ」

「……です!」
「落ち着いて下さい、俺です! よく見て下さい、頭!」
 力強い声がようやく矢代の耳にも届く。矢代は暴れるのを止め、男の顔をよく見てみる。……あの鬼じゃない。大きな男は静かな目で矢代を見つめる。男は若く、黒い服は、よく見ると学生服のようだ。誰だった?これは……
「誰?おじさん」
男の口元が少し緩んで、優しい表情になる。
「ここでは、そうなんですね」
男はポケットからハンカチを出し、矢代の汗と涙に塗れた顔を拭った。
「声が聞こえたので助けに来たんです。……行きましょう。歩けますか?」
手を繋いだまま歩き出そうとして、矢代は自分の足に力が入らずその場にへたりこんでしまう。突然、足がスポンジになったかのようだ。
 男はその様子を見てしゃがむと、竹刀を矢代に掴ませる。
「これを持って、俺におぶさって下さい」
男は背中を彼に向ける。
「さあ早く。しっかり捕まって」
矢代を背負ったまま立ち上がると、男は静かに走り出した。

 子供の彼を背負いながら男は軽々と階段を駆け上がっていく。矢代はぼんやり思う。誰だか思い出せないけれど、この背中には覚えがある気がする。……やがて階段が終わり、扉が現れる。

 男はそっと矢代をその場に下ろすと、片手で手を繋いだまま、もう一方の手で取手に手を掛ける。扉は軋みながらゆっくり開いた。風が吹き込んできて、矢代と男の顔に吹き付ける。
そこは、屋上だった。

 外はまだ夜だったがほの明るい。夜明けが近いのだろう。風が矢代のパジャマをはためかせ、身体の汗を冷やす。彼は思わず身体を震わせる。

 10m程離れた場所に大きく禍々しい鬼が立ち、瘴気を撒き散らしながら彼と男を見ている。これだけ距離があっても、鬼がこちらに向けてくる邪悪な意志の力を感じる。矢代は怯えて、男の陰に隠れる。

「それをこちらに下さい」
男は彼の持つ竹刀を受け取ると、鬼を睨みつけ、身体の正面に構える。闘うつもりらしい。
「ま、待って。あいては、鬼だよ……負けたら食べられちゃうよ……」
矢代は声を震わせ男の上着の裾を握る。男は矢代と目を合わせる。
「大丈夫です。俺は強いですから。逃げるだけでは、多分、駄目なんです。闘わないと。……その為に俺は来たんです」
男は再び、鬼に顔を向ける。その貌がみるみる厳しくなり、鋭い気合を発すると勢いよく駆け出した。
両者が激突した時、強い閃光が走った気がして思わず矢代は目を閉じる。

 男の動きは戦っているというよりも、優美で、まるで踊っているかのように見えた。男は鬼の恐ろしい腕を躱しながら、竹刀を確実に叩き込む。素人目にも力の差は歴然としていた。
 打撃を受ける度に、鬼の姿が少しずつ縮んでゆくような気がして、矢代は目を凝らした。……気のせいじゃない。鬼が打たれて呻き声をあげるたびに、その身体に纏った闇が薄れて輪郭がはっきりしてゆく。

 いつしか鬼は人の姿になっていた。身体に刺青を入れた義父の姿に。義父は竹刀の一撃を額に受けると、ついにその場に崩れ落ちる。横たわった身体はさらに煙を発しながらみるみる縮んでゆき、風に吹き払われて跡形もなく消えてしまった。

 男は矢代の元にゆっくり歩いて来ると、目線を合わせてしゃがんだ。
「もう大丈夫です」
辺りの明るさが増し、青みがかったオレンジ色の光を帯びてゆく。
矢代は目の前で起こった事が俄かには信じられない。永く続いた恐怖は本当に消えたのだろうか?
「アレは、もう出てこないの?」
「どうでしょう。まだしばらくは出て来るかもしれません」
それを聞いて矢代は心底がっかりする。終わったと思ったのに……。朝日が雲間から差し込み、2人の顔を照らした。男は彼の目を真っ直ぐ見て、力強く言った。
「頭に手出しはさせません」
「そのカシラって何? 誰のこと?」
男は笑った。笑顔を見たのは初めてだと矢代は思った。


 矢代は病院のベッドで目覚めた。
「……百目鬼」
小さく呟く。
 部屋の中は青みがかった薄オレンジ色の光に満たされている。矢代はベッドから立ち上がると窓に歩み寄り、ブラインドの隙間から外を覗いた。朝日に照らされて群青色の雲の下半分が輝いている。

 (……初めて鬼から逃げられた。いや、助けられた)

まだ少しぼやけた頭で夢を思い返す。思い出そうとすればするほど、にわかに映像は色褪せて消えてゆく。

 (学ランって何だありゃ、なんで学生のあいつ? 見たことも無いのに。しかも竹刀って。特撮ヒーローかよ)

「……フッ……ククっ」
思わず笑ってしまう。

 今日は七原と杉本が来る筈だ。明日の退院の手続きと今後の話をする為に。ここを出たらしばらくは忙しくなる。事務所の所払い、次の事業の選定。マンションも引き払った方が良いだろう。当面やらなければならない事務作業を想像する。七原はこういう仕事では全くあてにならないし、杉本がどれだけ使えるかだな……。

 考えるべき事は山積している。今の彼にはそれがありがたかった。未来のことも、アイツの事も、考えずに済む。

 最後に見たのは、意識を失って横たわり、頬の傷から血を滲ませた顔。
『あの人が頭の大事な人なんですか?』
ベッドサイドのランプに照らされた顔。
撃たれた彼のベッドの横で立ち尽くし、声を殺して泣く姿。
『あなたという人に どうしようもなく惹かれてしまいました』
絞り出すような真摯な告白。……堰を切ったように、百目鬼のいろんな場面が目の前に溢れ出て、矢代は歯を食いしばる。

 ただアイツが来る前に戻るだけだ。またすぐ慣れる。アイツの不在に。1人で過ごす夜に。同じ空の下で生きていると思えるだけでいい……心からそう思えるようになるまで。

だから……

「……お前に会いたい」

口に出して言うのもこれが最初で最後だ。


 同じ頃、百目鬼は病室の窓の側で、同じように朝日を眺め、夢の映像を反芻していた。
 夢の中に出てきた怯えた子供は、すぐに矢代だと分かった。子供時代の彼を一度も見たことは無いが、何故だか確信があった。きっと笑えば可愛い顔なんだろう。恐怖に引き攣った泣き顔。震える手。
……夢の中では助ける事ができたんだろうか。

 最後に見たのは平田に首を絞められ、目を閉じ横たわる青い顔。撃たれて意識を失う直前、こちらを見ている顔を一瞬見た気もするが、よく思い出せない。
 七原曰く、駆けつけた時には2人共に意識を失い倒れていたらしい。幸い生き延びたが、運が良かっただけだ。守ると、側を離れないと言ったのに、守れなかった。

『あの人にとって男とヤんのは-----。タバコみてぇなモンなのかもな やめたくてもやめらんねぇ』

 七原のあの言葉を聞いた時、自分は大きな思い違いをしていたんじゃないかと衝撃を受けた。

『妹は、良かったな、お前がいて』
『……お前を見てると無性に壊したくなる』
『お前を、どうにもできない』

 まだうまく整理できない、でも何かが言葉の奥に見えた気がする。彼の奥底の凍てつくような孤独な心が。どうすれば良いのか分からない、でもこのままにしてはおけない。

 自分はこの後も彼の世界で生きていく。妹と母にもそう伝えるつもりだった。本当にやるべき事が何か微かに見えた気がするから。


……次に彼の手を取る事が出来たなら。
もう2度と手を離すまい。
それから暖かい風が吹く明るい場所へと、どこまでもどこまでも歩いてゆく。


<fin>



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