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羽根が降る駅で〜空中庭園2〜【短編小説】

「空中庭園」の続編です


 イライラとかヤキモキって言葉は擬音語だろうか、それとも擬態語……と、あえてどうでもいいことを考えてみる。俺は盛大にタバコの煙を吐き出した。
 自分が苛立っている、という事実そのものが少しだけ気に入らない。ほんの少しだけ。

 客観的に見ればたいしたことじゃない。

 二十一時を過ぎても飲み会終了のLINEが来ないあたりで、迷った挙句に「おつかれ。明日はどうする?」とこちらから送信した。が、いつまでも既読がつかない。二次会にでも行ったのか。彼女らしくないけど、場のノリで断れなかったかもしれない。同じチームの後輩、みのりちゃんが失恋したとか何とか言ってたので、愚痴を聞いてあげているのかも。それでもLINEを見ることくらい出来るんじゃないか?

 二十三時を過ぎても既読にならず、俺は自分の心にさざなみが立つのを苦々しく感じながら「なんかあった?心配なので連絡ちょうだい」と送信した。あくまで彼女に悪いパプニングが起こっていないか心配だ、という態で。
 とはいえ相手は大人の女で男と付き合った経験もそれなりにある。こっちはイラついてんだ連絡ぐらいよこせ、て内心は伝わってしまうだろう。スマホを見る暇が一瞬もないとは考えにくい、何か余程、連絡したくない状況……

 ……例えば、酔った彼女にできた隙を見逃さない男といい感じになってるとか。

 と、彼女が俺のそばにいる時だけ見せる脆い顔を思い浮かべ、椅子から立ったり座ったりと落ち着きなく動揺してる自分が、我ながらめちゃくちゃキモい。こんなん俺のキャラじゃない。本庄刹那ほんじょうせつなって男はいつも余裕があって、仕事でもプライベートでもピンチに動じず冷静に対処する、そういう人間であろうと努力してきたし、あの出来事を乗り越えた今この程度でグラついたりしない── はずだ。

 ミシミシと家鳴りが響いて、一瞬、足音かとぎくりとする。夕方から次第に風の勢いが強まって、今はかなり強く吹いているらしい。窓のそばに寄ると、ひゅううと細く響きが聞こえる。
 吸っていたタバコを吸い殻で溢れそうな灰皿に無理矢理ねじ込んだ。目の前には仕事関連のメールが表示されたノートパソコン。その後ろにビールの空缶が三本。もう一本タバコを取り出そうとして、空になっていることに気がつき、大きなため息が出る。ああクソ。
 俺はスマホを引き寄せてLINEを立ち上げた。相変わらず既読がつかない自分の送信を眺める。

◇◇◇


 今日の夕方、部署の若い連中で飲みに行くと言っていた。俺にも声はかかったけど、適当な理由をつけて断った。別に行ってもよかったけど飲みメンバーの男達が俺に来て欲しくないと考えてることは伝わってきた。
 バツイチのおっさんは場違いというか、ガツガツしてないぶんそれに安心した女たちが俺に寄り付いて来る、ということが予想されて……つまり邪魔だからだ。読む必要がないほど明白な空気。

 今の会社はまだ若くて、社長や幹部も四十代から五十代前半だし社員も未婚の連中が多い。仕事はそれなりに忙しかったが全体の雰囲気は穏やかで、自分の評価や出世に目の色変えているような奴は殆どいない。
 最近のワカモノはそういう奴らが多いと聞いていたけど俺がそれを実感したのはここに入ってからだ。前の会社は入社直後から上のポスト争奪戦に巻き込まれ、中でも外でもヒリついたバトルが至る所で繰り広げられていて、同僚=競争相手だった。俺はそういうのも嫌いじゃない。要はどこに価値基準があるか、というだけの違いだし。

 この会社に来て、嫉妬で足を引っ張られることも、熾烈な成績争いで誰かを蹴落とすこともない呑気な空気の中で流れに任せて気がつけば、俺は中途入社五年目にしてそこそこ上のポストにいた。人を査定する側に。それでも評価目当てで擦り寄って来る相手はおらず若者(とはいえ俺も齢三十五で年配ってほどじゃない、一般的には)ばかりの飲み会では、財布をあてにされることはあっても歓迎されることはない。

 ただ、少しだけ状況が変化した。
 三ヶ月前、いろいろあって同じチームの女子社員と付き合うことになり、それを職場では何となく隠していた。相手は七つ年下で、俺と同じ時期に入社して今は部下だ。
 彼女は新人の頃からクールなしっかり者で仕事の覚えも早く、オフィスでも飲みでも周りに面倒をかけずに、むしろ先輩や同期の世話を焼く側だった。私生活でも妹と二人暮らしで親とはソリが合わないとか何とか。以前の俺と似た状況だ。彼女に言わせるとキャラクターや人間関係上のポジションも俺たちは似ている、と、いうことらしい。
 そんな二人がちょっとした偶然と、ことのなりゆきで付き合い始めて、大きな諍いも盛り上がりもなく、さほど互いの温度感が上がらないまま今に至る。

……温度感は上がっていない。はずなんだけど。

◇◇◇


 ここぞとばかりに仕事を片付け、片っ端から関係各所にメールしまくった。明日、明後日に休日出勤する奴らの仕事が増えたが早めに片付けたんだからむしろ感謝されて然るべきだろう。
 うちのチームの連中が見るのは月曜になってからだろうし、その中に彼女……永久とわちゃんもいるはずで、それを見てどう思うだろうかと、ぐったりした気分になる。

 二十四時を過ぎても既読つかず。
 この時間まで全く音沙汰がないのは流石におかしい。
 連中はどこで飲むと言ってたっけ、いや既に二次会か三次会。飲みじゃなくてカラオケとか。この際、思いきって電話してみるか。真面目に深刻なトラブルかもしれない。俺は彼女に電話してみた。

『……おかけになった電話番号は電源が入っていないか電波が届かないところにあるため……』

「くっそ」
 スマホを切った。電波が届かないところだと?この東京にそんなところあんのか。どこか地下の店?風に飛ばされた看板が直撃して病院……いやまさか。

 心配は次第に濃い憂鬱の色を増して、気分が急激に落ちてゆくのを感じる。俺は自分の胸元に手を当ててシャツをぎゅっと掴んだ。
 強烈な既視感。懸命にもがきながらも、なすすべなく底なし沼に沈んでいくような。部屋がどんどん暗くなる錯覚……これには覚えがある。

 (──おいていかれた──おれだけが──)

 じわりと冷汗が滲む……暗い部屋。時生と遥が、もしかしたら帰ってくるかもしれないと。最後ののぞみをかけて一年弱、ただ二人を待って、息をするためだけに生きた日々……朝が来て昼が来て夜が来て……やばいこれ以上考えるな……苦しいだけの短い夢のあと、また朝が来て昼が……考えるな。深呼吸。ゆっくり深呼吸……。
 俺はスマホを取り上げるとよろよろと居間を歩み出て、テレビ前のローソファまでたどり着くと、膝から崩れ落ちるように座り込み、そのままゴロリと横になる。手からスマホが滑り落ちて床に音を立てて転がる。

 ゆっくりと吸って……吐いて……吸って……吐いて……


◇◇◇



「大丈夫?」

 はるかの、そっと柔らかく触れてくるような声。
 俺は返事をしようともがき、やっとのことで、低い呻き声をあげた。このまま、彼女の優しい匂いと温もりに包まれて丸一日眠れたら一万円、いや十万円払ってもいい……ここに居続けようと抗う身体を意志の力で覚醒させて、まぶたをこじ開ける。体から布団をひき剥がすようにしてベッドを抜け出すと浴室に入り、熱い湯と冷たい水を交互に浴びて、手足にしつこく絡みつく、スライムみたいな眠気を振り払う。

 始発で帰宅して、ベッドに倒れ込んだ次の瞬間に、三時間経った。一昨日とその前は徹夜だったので、実に三日ぶりの睡眠だ。身体はまだまだ眠りを欲しているけど、それもいつもの事だった。最後にアラームなしで目覚めたのはいつだったか、思い出せない。

 浴室から出て、慌ただしく身支度をしていると、コーヒーの香りが漂ってきた。俺は彼女に呼びかけた。
「時間ないから、いいよ」
 遥は浮かない顔でマグカップにコーヒーを注いでいる。
「ねえ、少しでも食べて。食べれるだけでいいから。すごく疲れた顔してるよ、刹那」
 そう言われて、俺は洗面所の三面鏡を覗き込んだ。目の下に濃い隈がある……まずいな。
 思わず顔をしかめ、髭を剃りながら仕事の内容を反芻した。朝イチで営業の打ち合わせ、それからチームミーティング、そのあと挨拶まわりを二件、いやできれば三件。十五時までに報告書を片付けて……髪を手早くとかしつけ、洗面所を出る。

 食欲はなかったけど、テーブルに歩みよるとフォークを取り上げ、立ったまま皿からスクランブルエッグとベーコンを口に放り込んで、咀嚼しながらコーヒーで流し込んだ。ピザトーストには手をつけずに、急いで歯を磨いた。
「──だよ?」
 遥の言葉が耳に入ったのは、何度か呼びかけられてからだった。「え?」俺はタオルで口元を拭いながら聞き返した。
「今週末、時生ときおさん、来ることになってるけど、覚えてるって言ったの」
「そうだっけ」
「来週の旅行に必要なものとか、服とか見にいこうって話してたよね」
「ああ」
 くそ、イベントってのは忙しい時に限って重なるもんなんだよな。身体の底に溜まった澱のような疲れのせいもあってか、苛立ちが込み上げる。が、俺はそれを顔には出さずに、彼女に微笑んでみせた。
「旅行のときは絶対に、有休ぶん取るから大丈夫。けど今週末は厳しいかも。ごめんだけど時生と行ってきて。でさ、あいつの分も払ってやってよ」
 遥は諦めたような、寂しそうな顔でうっすら笑みを浮かべた。
「……一緒に買い物、久しぶりだったけど、しょうがないよね。わかった」
 その表情を見て少し胸が痛んだものの、痛みは一瞬、閃いただけですぐに消えた。俺はスマホを充電ケーブルから抜き取ると鞄に放り込み、早足に玄関へ向かう。

「刹那!」
 ドアを開けたところで聞こえた声に、咄嗟に振り返った俺の顔を見て、遥は驚いて立ちすくんだ。俺は慌てて表情を取り繕い、口角を上げた。
「なに?」
「……ほんとに大丈夫?」
「大丈夫だって。俺がそう言って大丈夫じゃなかったことある?」
「そう……行ってらっしゃい」

 今度こそ、俺はドアを閉めると、大きくため息をついた。そして、思い切り苛立ちを剥き出しにした顔で駅へ向かった。
 会社でも家でも、表情を取り繕っている俺が、油断して感情を面に出せるのは、通勤の時だけだ。まだ目覚めきっていないのか、足にうまく力が入らない気がして、歩幅を短めにする。
 心のなかで蓋をしていた昨日の出来事が、意識の表層に浮かびあがってくる。取引先への移動中に、畠山はたけやまが言ってきたこと。
「ここだけの話、菅田すがたさん、本庄さんが枕で女社長から仕事取ってる、イケメンは得だよな、とか陰で言ってるみたいで。いや俺は信じちゃいません。つか、んなこと言う方がダサいっすよね。ああこれが負け犬の遠吠えってやつか、みたいな」

 畠山はいかにも忠実な後輩のような、控えめな態度で、だが眼は好奇の光を湛えて俺の表情の些細な変化も見逃すまいと観察している。俺は適当にはぐらかす。腹芸は、俺の方がうわ手だ。
──無能な不細工はせいぜい吠えてろ。どういう手を使おうが仕事を取ったもん勝ちだ。
 相手の関心、弱み、欲しがっているもの。的確に捉えて応えることができれば、仕事の受注に結びつく。それが強欲そうな歳上の女なら、普通より近い距離感と、偶然を装ったさりげないボディタッチで様子を見るだけで充分、効果はある。

 回想の糸はズルズルと、思い出したくもない情景まで引きずり出した。女社長の、ヒビが割れそうな厚化粧に顔を近づけて、その首筋から体臭混じりの香水の匂いを嗅いだとき、込み上げた吐き気。コーヒーと今朝食べたものが胃の中で波打ちひっくり返る感覚に、歯をグッと噛み締めた。
 俺はよほど険しい顔をしていたらしい。改札ですれ違ったどこかのおっさんは目が合うと顔に恐怖を滲ませ、そそくさと駅を出て行った。俺は自動改札を抜け……

◇◇◇

 唐突に場面は切り替わる。ゆるんだ午後の空気のなかの、薄暗い板張りの床。
 狭い廊下の先に俯いた女の背中が見える。白いシャツに紺色のスカートは高校の制服だ。爪が濃いピンク色に彩られた裸足の足。そのさらに奥には小学生の時生。
 女が時生に話しかけているんだ、と気がつくと、ざらついた怒りが急激に俺のなかで膨らむ。女が時生に手を伸ばすのが見えて、俺は目が眩むような衝動のままに、後ろから女の頭を掴むと髪の毛を強く引っ張った。女は頭をそらし悲鳴をあげた。
「痛ったあ!ちょ、やめてよっ」
「汚ねえ手で触んなっ」
 女は首を巡らせ俺を見て、顔をひきつらせた。「はなっ話してるだけじゃん、なんもしてないってば」
「部屋から出るなっつったろ、勝手に他人ん家うろつくとかジョーシキねえのかよ。もういいわ、お前とは終わり。今すぐ出てけ」
 女は泣きそうに顔を歪ませる。視界の端に時生の怯えた顔を捉え、俺は恥ずかしさと気まずさで頭が沸騰しそうになる。時生に見られた、よりによってこんな場面を。
「ごめんってばぁそんな怒んないで。だって刹那、寝ちゃうしぃ、のど乾いたからっ」
 俺は髪の毛から手を離すと、わめいている女を押し退けて時生の前にかがんだ。できるだけ優しく話しかける。
「ごめんな、喧嘩してるわけじゃないんだ。このお姉さんすぐ帰るってさ。大丈夫だから、ちょっとテレビの部屋に行ってて。おやつ、冷蔵庫にシュークリームあるからな」
 時生が頷き、居間に向かって歩き出すのを見届けると、俺は女の腕を掴んで自分の部屋へと強引に引っぱって行った。床に転がる丸まった靴下と、ベッドの上に放置されていたブラジャーを投げつける。
「持ってけ。ほら鞄、早く出ろって」
「勝手なことしてごめんなさい、ねえ終わりとか言っちゃヤダからあ」
「うるせえんだよバカ!」
 女は座りこんで泣き出した。俺は焦りと怒りに息を詰まらせ、急激に狭まる視界のなか手をあげた。振り下ろす直前で腕を掴まれ、驚いてそっちを見ると、大人の男が静かな表情で俺を見つめている。

「誰かをまもるために、誰かを傷つけるのは違う。そういうやり方は、みんなを損なうんだ。あなた自身のことも」

 彼の眼差しは、どこまでも静かだ。俺はいつの間にか、現在の、大人の俺になって、信じられない思いで名を呼んだ。

「時生」


◇◇◇


 俺たち二人はいつの間にか、青い空の真ん中にぽつんと浮かんだ駅の、ベンチに並んで座っていた。
 目に映るものは、ほぼ全て水色と青のグラデーションだった。空から雪のような白い羽がゆったりしたペースで降り注ぎ、目で追うことができないずっと下まで落ちてゆく。
 ゆるく風が吹くと、空気の動きにつれて羽は渦を巻き、うねって、まるで生き物のようだった。ホームの床に触れた羽は、ふわりと溶けるように消えた。

 彼は俺の手を離すと顔を線路の方に向けた。目の前の線路も空中に浮かんで、両端は空に溶けて見えない。
「あなたは、ずうっと、必死になって僕をまもってくれた。親の分まで、いや、その十倍も強い想いで。ヤマアラシみたいに棘だらけになって……小さい頃からそうしていたから、兄ちゃんの愛し方は、そういう形になっていったのかもね」
 時生は悲しげな表情で手を前方に伸ばすと、青い空からゆっくりと降ってくる羽を、手のひらで受けた。羽は手に触れるとすうっと消えた。
「僕はあなたを傷つけた。ものすごく卑怯な、いちばん残酷なやり方で……僕は、自分にも他人にも言い訳ばかりしている、ずるくて弱い人間だ。かっこ良くて何でもできる兄ちゃんが自慢で、あなたに特別扱いされていることがほんとに嬉しかった……でも……息が詰まりそうだった、ずっと。だから逃げた。僕と良く似た彼女をあなたから奪って」
 時生は何度か瞬きし、目を伏せた。
「僕らに必要なのはもっと……話すことだったよね。ごまかしも偽りもなく、お互いの気持ちを。僕には時間がないって思い込んでたんだ。今となっては言い訳にしかならないけど」

 時生は視線をこちらに向けた。俺はずっと、彼の顔から目が離せない。彼の瞳は空の青さを写して、深い山の中の湖のようだと思った。
 もし会えたら、俺はどうするだろう。殴るのか、罵るのか。泣くのか。それとも抱きつくのか。分からなかった。今もやっぱり分からない。ただ圧倒的な懐かしさだけが大波のように押し寄せて、俺のなかの何もかもを攫うようだった。子供の頃からそばにいる事が、あまりにも当然だった弟。こんなに間近で顔を見たのはいつぶりだろうか。

 彼の口が開き、スローモーションのように、ゆっくりと唇が動く。

「あなたは、ぼくを許さなくていい。憎んでいい。忘れていい……ぼくが、ぼくたちが、最後まであなたを愛することをやめないから。ずっと想ってるよ。兄ちゃんのこと」

 俺は怖くなって、彼の腕を掴んだ。

「待って、なあ、もう会えないの?お前を憎むことも忘れることもできるわけない……なんて言ったらいいか、俺は、ただ……お前にさ、会いたい。会いたいよ時生」

 時生は俺に掴まれた自分の腕を見下ろして、悲しげに微笑んだ。

「ねえ兄ちゃん、弟離れしなよ。そうさせたのは、僕かもしれないけどさ……あなたは、抱きしめたい相手じゃなくて、抱きしめられたい相手を探した方がいいのかもね」

 そしてまた俺の顔に視線を戻すと笑った。初めて見る、とても優しい笑い方で。なぜか遙の面影が半透明に重なって見えた。

「いつか会いに行くよ、刹那」

 彼の笑顔は眩しく輝き、その光は白い羽毛の塊になって、ぶわりと空気に拡散した。羽は渦を巻きながらあたりに舞い散って、床に吸い込まれるように溶けていった。

 俺は手のなかに、なぜか消えずに残った一本の羽根をじっと見つめた。


◇◇◇

 インターホンが鳴り響いて、びくりと目を覚ました。慌ててローソファから起き上がって、よろめきながら玄関に向かう。そして外を確認もせず、ドアを開けた。

 ごおっと音を立てて風が勢いよく室内に流れ込み、大きな白い翼をはためかせた天使から、たくさんの白い羽が廊下に舞った。俺は夢の続きかと目を見開いて、ドアを開けた体勢のまま動けずにつっ立っていた。

 天使は「あー栞が」と言いつつ慌てて玄関に入ってくると俺に向かって「ごめんなさい!」と頭を下げた。
「スマホ会社に忘れちゃって!気がついたの店に着いてからで、けど取りに帰る暇がなくて、もー今日はすごく荒れて、田島くんは絡みまくるしみのりちゃんは泣くし、立花くんが笑子さんに告白し始めるし、木戸も瀬戸内もまずい酔い方のまま二次会に向かっちゃって、ほっとけなくて。スマホあったら本庄さんに助け求めてましたよ絶対。もーなんでこんな日に限って忘れるかな殴りたいっす自分を。とりあえず、みのりちゃんをタクってそのままこっちに直行しました。だってこんな時間まで連絡できなかったから。ありえませんよね、ほんとごめんなさい」

 俺が無言のままじっと立っているのを、永久ちゃんはどう勘違いしたのか、目の前で手をひらひら降った。
「本庄さん?あのー起きてます?私がわかりますか?あの、入っていいですか?」
 俺はのろのろとドアを閉めると玄関から廊下へ入り、落ちている白い羽を一枚、拾い上げた。20センチくらいの細長い白い紙で、羽の形になっていて、良く見ると小さく会社のロゴが入っている。
「マーケティング部で販促用に作ったの、もらったんです。かわいい栞ですよね。『サラ天』のイベントで配るらしくて。おかしいな、輪ゴムで留めてあったんですけどね」
とぶつぶつ言いながら、永久ちゃんは散らばった栞を拾い集め、居間に入った。
「ああっ風で吸い殻が大変なことになってるっ。やばーい缶も散らかって、ちょっと大変っ、パソコンにビールかかってないかな」

 俺は、まだどこか、現実から薄い膜一枚で隔てられているような気分で、居間の入り口にぼんやり立ったまま、鞄を居間の床に放り出して吸い殻と空き缶を片付けている永久ちゃんの姿を目で追った。ヒラヒラした長くて白いワンピース。風に煽られて羽根に見えたのか。
 夢の中の情景が蘇った。青い駅に降る羽根。遥、時生。

(あなたは、抱きしめたい相手じゃなくて、抱きしめられたい相手を探した方がいいのかもね)

 永久ちゃんはゴミを袋に入れ終わり、机を布巾で拭くと大きく息をついた。そして俺の目の前までくると、顔をしげしげと眺め、笑いを堪えるような様子で片手を口に当てた。
「えっ、と……泣いてました?もしかして。え、まさか心配で泣いちゃった、とかじゃないですよね」
「…………」
 俺は顔をしかめるとゴシゴシ目を擦った。
「悲しい夢、みちゃって」
「あら。ぜひ聞きたいです」
「……教会の絵の前で寝てたら天使がいっぱい降りてきて、俺とパトラッシュを連れて天に登っていく夢」
「じゃあ嬉し泣きだ」
「違う。もう永久ちゃんに会えなくなるって泣いた涙だから」
「パトラッシュが一緒じゃないすか」
「パトラッシュなんてどうでもいいっつの」
「さっきから本庄さん、えらい怖い顔してますねえ」
「なんで君、ちょっと嬉しそうなの」
 永久ちゃんは片手を押し当てた口から、ふふ、と笑いを漏らした。
「いやだって、本庄さんがそんな顔すんの、かなりレアっていうか、初めて見たから。思ったより愛されてるんだなあ自分、って……喜んじゃダメか、怒ってますよね、ごめんなさい」
「怒ってるね。普通怒るだろ、この状況」
「本庄さんも怒る顔できるんですねえ。職場では怒ってる時でも、タバコ休憩の回数が増えるだけで、顔に出さないでヘラヘラしてんのに。惜しい、スマホがあったら写真撮れたのになあ」
「ふざけんな」
「もーさっきから謝ってるじゃないですかー」


 永久ちゃんは俺に歩み寄ると、ぎゅっと抱きついた。
「……真面目に今日は変ですよ。大丈夫ですか?」
「全然、大丈夫じゃない」
 俺は彼女に腕をまわして、強く抱きしめた。そして彼女の肩に額を押し付けた。

「大丈夫だったことなんかない」

「……うん、そっか。大丈夫じゃないんですね……私がついてます。パトラッシュも」

「心配した」

「ごめんなさい……ねえ怒っても、キレてもいいんですよ。どんな本庄さんも、本庄さんである限り、私は好きですから。ずっと離れないから、安心してください」

「ずっとって、いつまで」

「永遠?」

 俺は思わず、小さく笑った。 
“永遠”なんてありえない。人のこころは変わるものだ。彼女だってよくわかってる筈なのに、すらっと言葉にできるのは、やっぱ若さ、なのかね。

──けど、そうだな。
 俺はずっと、そう言ってもらいたかったのかもしれない。

 完璧じゃなくても。怒ろうがキレようが、たとえ大丈夫と言えなくても。そのままのあなたでいいんだと。そんなあなたが好きなんだと。

 一度くらいは信じてみてもいいかもしれない。

 その言葉を。君の名前を。
“永遠”を軽やかに語る、いまここにいる君のことを。


(完)

※この作品は↓  の、続編になります。

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