おばさんと電車と死体【リレー小説/⑫】
尻の下の、椅子の固い感触はいつの間にか消え失せて、ぼくはなすすべなく、冷たい闇の中を落ち続ける。
……落ち続けているはずだ。でも周囲は360度、果てしなく続く闇なので、自分の状況に確信が持てなくなってきた。耳元でうなる風切り音はまだ微かに聞こえているけれど、自分の目を開けているのか閉じているのか、それすらあやふやだ。
手先と足先から冷たさが伝わってきた。食べたスイーツと酒のせいだろうか。いやひょっとすると、まさに今、大場さんのなかで溶かされているのかも。闇が身体に染み込んでくる……
彼女のこころが流れ込んでくる。
──カフェ・アリスの店のシャッターは閉まっている……
……シャッターに貼られた張り紙はしわしわになっていたけれど、相変わらずそこにあった。
「しばらく休業いたします 店主」
私は中嶋に送ったLINEを確かめた。二カ月が経とうとしていたけれど、やっぱり既読になっていない。ため息をつくと、もと来た道を戻り始めた。
このままだと半年後には家賃が払えなくなる。店の再開を待つ間、別のアルバイトを入れるしかなさそうだ。彼はちゃんと食事や睡眠をとっているだろうか。心配でたまらないけど、自宅の住所は知らないし、電話にも出ない。向こうが連絡を取りたがっていないんだから、どうしようもない。
酷い結婚生活と、それ以上に酷い別居生活を経て、やっとのことで離婚したとき、身体もメンタルもぼろぼろだった私を助けてくれたのが中嶋だった。
元夫とのことは、まさしく人生の黒歴史だ。夫は一緒に暮らしていても、まるで私がいないかのようにふるまった。そのくせ家事や生活のこまごました雑用はぜんぶ私に押しつけた。私はショックを受け、必死に話し合おうとし、最後に呆然とした。そのころはまだ、言葉が通じるんだからコミュニケーションをとれば必ず理解しあえると信じていたのだ。世間知らずだったとしか言いようがない。結婚に反対していた私の両親は正しかった。ふたりともすでに鬼籍に入っている。
中嶋とは中学、高校を通じて同じ部活の同級生で、そこそこ仲の良い友人同士だったが、短大に進んでから付き合いは途切れていた。彼と当時の友人の名前はLINEに残っていたものの、会社に就職し、結婚するころには、LINE友達リストの一番下になっていた。再会した時には24年の歳月が流れていた。
中嶋はカフェ・アリスという洒落た店の店主になっていて、奥さんとふたりで店を営んでいた。おいしくて居心地の良いカフェは評判がよく、ランチタイムから昼過ぎまでは小さな店のまえに客の列ができた。私はスタッフとしてそこで働き始め、昼過ぎと夜に美味しいまかないを食べさせてもらった。身体を動かして働くことと人と話すこと、毎日おいしいご飯を食べることは、私の身体と心を癒してくれた。
居心地の良い空気を作っているいちばん大きな理由は、奥さんの有珠さんの存在だった。彼女は薄い水色のシャツと白いエプロンがよく似合う、どこか妖精みたいな人だった。小柄で、かるく握っただけでぽきんと折れそうな細い手足をしていて、話し方も声もはかなげなのに、どんなトラブルにも決して動じなかった。彼女が不機嫌になったり対応が雑になったりしたところを見たことがない。
中嶋と有珠さんははた目にも仲が良くて、仕事の息もぴったりだった。カフェで働き始めた当初は、軽い男性不信に陥っていたこともあり、世の中にはこんな夫婦もいるのかと驚いた。人間の理想的関係の見本を見ているようで、うらやましいというより憧れの対象だった。
アパートに戻る途中で駅前を通ったとき、ふと、このまま隣駅まで行こうかという気持ちが起こった。以前によく行っていたドリームダイブ施設があるのだ。夫との仲がこじれていた頃と、離婚したばかりの頃、ほとんど毎日のように仕事帰りに寄っていた。その時の勤め先を辞めてカフェに移ってからは行っていない。
どうせ帰っても鬱々とするのは目に見えているし、久しぶりに気晴らしをするのもいいかもしれない。私は改札を抜けた。
隣駅の商店街を通りぬけ、大通りの広い歩道を施設に向かって歩いていると、向こうからくる男に気がついて衝撃のあまり声をあげそうになった。中嶋だ。
カフェで働いていた頃の、いつも生き生きとして身綺麗だった男の面影はほぼない。垢じみたぼさぼさの髪には白髪が目立ち、無精ひげが顔を覆っている。ボディバッグを斜め掛けした背筋は丸くなり、以前に比べて十は老けて見えた。どろんとした目つきで斜め前をみている。近づいても目線が合わない。
「中嶋!」
呼びかけるとようやく目があった。彼は怪訝な表情になった。
「誰だ?」
「は?なに言ってんの……ねえ大丈夫?」
彼は何度かまばたきし、うつむいてぎゅっと目を閉じると指でまぶたを揉んだ。以前にはなかった深い皺が眉間に刻まれている。私は重ねて言った。
「千鳥だよ。大場千鳥。いままでどうしてたの?連絡つかないから心配したよ。ちゃんとご飯食べてるの?ここで何してるの?」
あまり畳みかけちゃいけないと思っているのに、苛立ちからか気が緩んだのか、言葉が止まらない。中嶋は「ちょっと待って……」と手のひらをこちらに向けた。眼を開けると私の顔をじっと見る。
「ちどり、千鳥……大場千鳥。……思い出した。千鳥か」
「やだあ、本当に忘れてたの?」
「いやなんか。現実になじむのに時間がかかって……やばいなーダイブし過ぎかも。頭がグラグラする」
とりあえず、駅方面へと並んで歩きながら話を聞いた。どうやら中嶋は、有珠さんの葬式と納骨、それに行政手続きが終わってからずっと、この辺りのドリームダイブ施設をハシゴしているらしい。ドリームダイブの上限時間は3時間と法律で決められているので、複数の施設をまわって、日中はほぼずっとダイブし続けているそうだ。昼間にダイブインして半強制的に睡眠を取るので、夜は家で寝ないで過ごしているらしい。
私はショックを受けた。二ヵ月の間、ずっとそうやって過ごしていたなんて。絶句していると、中嶋はぼんやりと言った。
「家ではまあ、買ったもん適当に食って、ときどき風呂沸かして入って、あとはなにもしてない……昼間みた夢を思い出したりしてると、朝になる……」
声は頼りなく細くなり、消えた。目は焦点があっておらず、まだ半分くらい夢の中にいるような様子だった。手際よく料理をしていた姿からは想像できない変わりようだ。
店の運営とかお金のこととか、訊きたかったことが全部ふっ飛んだ。それどころじゃない。このままでは彼は、自力で生きていけなくなるかもしれない。私は必死に考えた。恩を返すなら今しかない、どうすれば助けられる?
私が黙り込んでいるのをどう解釈したのか、中嶋は「これから夢留駅までいくけど。一緒に行く?」と言った。このまま彼を放っておけない。私は頷いた。
夢留駅の駅ビル内にある、ドリームダイブ施設の受付で、キーワード入力端末を前に立ち尽くした。隣のブースにいる中嶋に小声で話しかける。
「ねえ、いつもどんなキーワードでダイブしてるの?」
普段なら教えてくれないだろう。けど今の彼は、請われるままに入力画面を見せてくれた。
“妻 パレード 港 観光地 祭り アリス”
「この“アリス”って?」
思わず指さして尋ねると、中嶋はぼんやりした目つきのまま呟いた。
「個人の名前は入力できないじゃない。けどキャラクターとか歴史上の人物ならできる。“妻”が入ってるし、要らないかもしんないけど……なんていうか、おまじないみたいなもんかな……」
胸がぎゅうっと締めつけられるような気がした。やっぱりそうなんだ。彼は有珠さんに会うためにダイブし続けてるんだ。受け入れられないんだ彼女の死を──。叫び出したい衝動に駆られたがぐっとこらえた。施設内で大声を出すのは禁じられている。堪らない気持ちのまま、同じキーワードを自分の端末に入力した。
第⑬話へつづく→