
しょうしゅ君、どこから来たの【③タムタム氏の受難とはたらく細胞編】
とりま、紹介された病院に行くまで時間があったので。私はふたつの事に取りかかった。
①神経鞘腫について調べる
②保険の相談をする
「神経鞘腫」のキーワードでググってみると、めちゃくちゃ沢山ヒットする。
私は初めて聞いた名前だけれど、どうやら比較的メジャーな病気であるらしい。(そういう病気ってきっとものすごく多いんだろうな)
わかりやすくまとまっているな、と感じた記事はこちら。
・神経鞘腫しんけいしょうしゅは、脳や脊髄からなる中枢神経と体全体をつなぎ情報伝達を行う末梢神経を取り巻く膜(シュワン細胞)から生じる良性の腫瘍。シュワン細胞は末梢神経を取り囲み、主に神経線維を守ったり、栄養を与えたり、傷ついた神経の再生に関わったりする重要な役割を持つ
・腫瘍の発生する部位によって症状は異なる
・原因は分かっていない
・画像検査を行う
・生検が検討されることもある
なかでも私に該当するのかな、という項目はこちら。
[軟部組織に生じた神経鞘腫の場合]
ほとんどが良性腫瘍のため、症状がない場合や治療によって重篤な神経障害を生じる可能性がある場合は経過観察をすることもあります。
[末梢神経に生じた神経鞘腫の手術]
症状があり、手術で摘出可能と判断された場合には手術を行います。手術では、被膜を切り開いて神経線維を残した状態で腫瘍のみを摘出します。
……私は頭の中に、背骨沿いに細く伸びる管を思い描いた。管のなかは髄液で満たされていて、その液のなかを神経繊維が束になって走っている。その束に埋もれるようにして浮いている、白くて丸いかたまり。そのかたまりを仮に”しょうしゅ君”と呼ぶとして。いつの間にか発生して、宿主を困った状態にしているしょうしゅ君は、いったいどこから来たのか。映像のなかの彼は戸惑った表情をしている。癌と比べると悪意がないような感じもする。

しょうしゅ君の存在は私が入っている医療保険の対象になるだろうか?
と、いうことが気になったので、相談してみることにした。本来なら保険会社の相談窓口に連絡すべきなんだろうけど、相談先として私の頭に浮かんだのは、隣駅にある「保険の窓口」の、担当者の顔だった。
顔見知り人の方が相談しやすい。仮に適切でなかったとしても、相談するだけなら(相手に時間を割いてもらうことになるけど)無料だし、適切な手順を教えてもらえるだろうし。
連絡してみると、私を担当したタムタム氏は保険屋さんを辞職しており、後を引き継いだミズミズ氏が『私でよろしければ喜んで伺いますよ』と言ってくれた。
『介護離職といいますか……まことに申し訳ないのですが、その、致し方ない事情がありまして』そう聞いた時、それはホントだろうか、それとも客を不快にせず追及を逸らすための、必殺の言い訳だろうか、という思いが心によぎった。おそらく困難な状況にあるだろう人に向かってなんと心無いことを私は思うのか。
言っても仕方ないことなんだけど、保険の契約をしてタムタム氏の元を去る時に彼は『私はいつでもここにおりますので、病院で治療することになったとか気になることがあったらすーぐにご連絡ください!もうホント些細なことでもなんでもいいんで遠慮なく』くらいの勢いだったのだ。そしてそれを鵜呑みにした私は真っ先に彼を思い出したのだった。なのに実際に相談しようと思ったらもう居ないという。ミズミズ氏に文句を言ったりはしないけど微妙にモヤモヤしてしまった。
困った時の神頼みというやつで、心細くなっている私はタムタム氏に甘えたかったのに、それができなくてブータレてる子供みたいな気持ちなんだろな、と自分自身で分析してみる。我ながらやくたいもない。
そんな感じで保険の窓口を尋ねて初めて会ったミズミズ氏は、ちょっぴり寂しくなった頭髪がチャーミングな丸顔のおじさんで、雰囲気がタムタム氏とそっくりだった。たちまち安心した私は、勧められた椅子に座るなり怒涛のごとくに喋った。ミズミズ氏はプロの傾聴術を遺憾なく発揮して聞き終わると、こう結論を出した。
「入院して、詳しく検査もして、手術が終わって退院するまで100%確実なことは言えませんがまあ、入院一時金も、手術一時金も、たぶん出ます」
「そうですか!」
「はい。たぶん出ます。ええと対象になるのは保険適用内のものに限るんですけど、今のお話を聞く限りでは三割負担の範囲だと思いますので、ほぼほぼ一時金は出ると思います。が、注意しないといけないことがありまして」
ミズミズ氏の温和な笑顔が曇った。
「ええと、とても言いにくいんですけどその、腫瘍が、ですねその良性か、悪性かで病名が変わって、金額も変わるんですよね」
「あ、良性です。ドクターはそう断言してました」
「いやあ、実際にその腫瘍の組織を取って調べてみないと100%の断言はできないはずです。どのドクターでもそう仰ると思いますよ、生体組織診断っていう検査なんですけど。いわゆる生検というやつです。病理っていう、顕微鏡で組織を観察して、癌細胞を見つけたりする専門の機関があって」
「聞いたことあります」
といいつつ、私の脳裏に過ぎったのは「フラジャイル」という漫画のことだった。医療漫画の傑作で、主人公は病院所属の病理医。一読すれば、現代日本の医療問題を語れる人間になったかのように錯覚できる作品だ。
私は続けて聞いてみた。
「ええとじゃあ、私の場合もこれから生検があるんでしょうか」
「ですね、そう思います」
そこで胃潰瘍になったときのことを思い出した。あのとき、内視鏡で胃の中の腫瘍っぽいものの一部を取って生検したっけ。子宮筋腫のときは臓器自体を摘出するので生検はなかった……だろうか?いや、良性か悪性かチャレンジをした記憶がある。今回の患部は背骨付近だが、生検をするとして、どうやるんだろう?私は思わず口に出した。
「しんけいしょうしゅの生検ってどうやるんですかね。後ろから注射とか針とかで組織を取るんですかね。何かご存知ですか」
ミズミズ氏はあわてて「いや私もあまり詳しくは知らないんです、不勉強で申し訳ないんですが」
「もし、生検用に手術して、検査をしてから、次は本番の手術…みたいに、同じ手術が2回あったら嫌だなあ」
「うーん確かにそうですよねえ、私どもでは何ともお答えできないんですけど……ええと入院前に、紹介先の病院に診察に行くご予定はお有りですか」
「はい。今月の○日です」
「でしたら、そこでお医者さんに疑問に思っていることを徹底的に聞いたほうがいいですね」
「そうですね。そうします」
まあ餅は餅屋というし、保険は保険屋さんに、病気は医者に訊くべきなんだろう。生検があることと、だとすると悪性の可能性もあるという新たな不安要素が発生したけれど、真面目に心配し始めるとメンタルをマイナス方面に引っ張る力が際限なくデカくなりそうなので、あえて考えないようにする。判っているプラスの点に目を向けよう。保険で、ある程度は出費をカバーできるっぽいこと。保険に入っておいてヨカッタ。少なくとも金銭面での不安はかなり小さくなるのだから。
ミズミズ氏は、手術後に保険の手続きをする相談も受けてくれ、何なら書類を書く時も一緒に作ってくれるらしい。事務系の手続きが苦手なカラスはさらに気が楽になった。これで懸念は治療のことと、入院中に家事をどう回すかの2点に絞られた。外堀が順調に埋まってゆく感じ……目的地に待つのが楽しくないことなので、順調でも楽しい気分にはならないけれども。
数日後、紹介された医師による初診察の日がやってきた。
胃潰瘍のときにお世話になった病院で、診察券も持っている。受付で例の白い封筒を渡し、そのまま席に座って名前が呼ばれるのを待つ。名前が呼ばれると、それぞれの行き先を指示される仕組みだ。
病院が開いてから1時間しか経っていないのに、30個ほど並んだ椅子は8割程度埋まっている。私は座っている人たちをさりげなく眺めた。大人達は神妙な顔つきで、受付のスタッフが忙しく立ち働いている部屋の一角に顔を向けている。
私は電車や飛行機に乗っている時や、エレベーターに他人と乗り合わせた時に感じるのと似たような感覚に囚われた。同じ目的で行動するもの同士のうっすらとした連帯感と、見知らぬ他人が普段ならありえないほど自分の近くにいる、ぎこちなさ。いや、ここはあえて図々しく「同志」といってしまおう。
(ここに座っている人たちは全員、身体のどこかが悪いんだよなあ)
パッと見ただけではどこかが悪いようには見えない。
それでも、自分の健康を守るという共通の目的のために、いろんな場所からいろんな人が、いろんな思いを抱えてここに集い、患者として自分の名前が呼ばれるのをひたすら待っている。
忙しいスケジュールを何とかやりくりしてここに居る人。これから待つ検査のことを想像して憂鬱な気持ちの人。重い病気を抱えて必死で不安と闘っている人……私だって、ひょっとしてもしかして癌かもしれないんだけど、私より厳しい状況にある人達も大勢いることだろう。
俯きがちでじっと動かない客とは対照的に、受付の若い女性スタッフ達はキビキビ立ち働いていて、頼もしく思うのと同時に、まるで見えない線がそこにあるような気がした。あっちは健康な人間側、こっちは健康でない人間側みたいな。ああ同志達よ。
そのうちに名前を呼ばれて我に返り、受付番号の紙を受け取った。紙は黄色いクリアフォルダに入っている。私は全てを終えて病院を出るまで「カラス」ではなく「188番」と呼ばれることになった。紙には他に、今日のスケジュールがプリントされている。それによると、診察の前に血液検査と尿検査、血圧検査、画像検査(CT)があるらしい。それぞれを実行する部屋の階数と番号が書いてある。
各部屋には自分で移動しなくてはならない。エスカレーターで上の階に向かいながら、まるでベルトコンベアで運ばれる荷物みたいだなと思った。いやどっちかといえば血管を通って各器官へと行き来する赤血球かな?
それは「はたらく細胞」という漫画からの連想だ。
さて、採血と、血圧と、尿検査は同じフロアで行うらしい。
各フロアにはまた受付があって、そこで番号付きのクリアフォルダを渡して、指示されるまま、私は採尿コップを持ってトイレに入ったり、血を抜かれたりした。
私の身体から出た(抜かれた)液体の分析を機械がやっている間に、ここでも待たされている同志達を眺めた。このフロアも私と同じステータスにあると思われる患者達でごった返している。指示されるまま止まったり動いたりしている患者の間を縫うようにして、やるべき事を完璧に把握したスタッフが忙しそうに働いている。
さっき「はたらく細胞」のことを思い出したせいか、患者と病院スタッフを見ていると、まるで巨大な人体のなかみたいだなと思えた。内臓の各器官を構成する細胞が病院スタッフで、取り込んだ栄養素が患者達である。
細胞は個々に割り振られた役割に従って、栄養素に指示を出したり導いたりして、各器官へ適切に行き渡るようにしている。その理屈だと、患者が最後に到達する器官が医師の診察室ということになるのか。診察のために来たつもりでいるけど、診察に至るまでが大変で、仕方ないこととはいえ早くも疲れて帰りたくなっている188番である。
院内を行きつ戻りつしレントゲンまで終わってようやく、該当医師の診察室のドアが見える待合い室までやってきた。やっとこさ本日のメインイベントという感じ。
診察室のドアのところに、中にいるドクターの名前の札が差し込まれている。ミタゾノ脳神経外科の医師が言ってた例の、手術が上手な医師……。
名札にはこうあった。
「脊椎脊髄専門外来 イケオ」
思わず隣の部屋の名札を見た。
「外科・消化器外来 カリノナ」
やっぱり「専門」はついていない。
へえと思った。医師の矜持のようなものがその「専門」という文字から立ち昇っているような気がした。『私、失敗しないんで』と、米倉○子扮するドラマの医師の台詞が耳の中でこだました。NHKの「プロフェッショナルの現場」に出てくる医師みたいな感じのドクターかもしれない……権威に弱いというかミーハー(死語?)なカラスの信頼メーターの針は、その時点で“信じる”に大きく傾いた。
「188番のかた、4番の部屋にお入りください」
医師の声が待合室に響き渡る。私は席を立つと、脳内に期待と不安と緊張がうずまくのを自覚しつつ、扉の取っ手に手をかけてスライドさせた。
→入院はいまだ遠く…編に続く(予定)