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酒、焦げ跡、ダンボール

※[囀る鳥は羽ばたかない 二次創作]
本編開始直前

 矢代はラフな服装で影山家の居間に立ち、足元に鼾をかいて横たわる影山を見下ろしていた。時間は早朝5時。影山は無精髭を生やし、酒の匂いをプンプンさせて、敷布団に半ばくるまれ、半ば抱えてパンツ一丁で眠っている。

 布団から少し離れた所にズボンが落ちており、もう少し離れた所にタンクトップ、部屋の出入り口にTシャツ、廊下のトイレの前に羽織のシャツが落ちていた。要するにトイレを出た後、服を脱ぐそばから床に落として、布団を敷こうとしてそのまま意識を失った様子だ。

 「14も歳下のガキンチョと痴話喧嘩してヤケ酒飲み過ぎて眠るオッサンの図ってトコか」
矢代は独りごち、取り敢えずスマホを取り出して影山のあられもない姿を何枚か撮影した。

 長い付き合いだ。影山の歴代の女も知っているし、女と別れる度に呼び出されるのも毎度の事だ。失意で弱った影山と差し向かいで飲むイベントを矢代は内心多いに楽しんでいた。その度に密かに考える。今、影山に俺が付け入る隙があるだろうか、と。

 しかし口に出す前に何かがいつも矢代を押し留めた。そして影山もある一定以上は乱れなかった。呑み過ぎて吐くなどの醜態を晒した事は矢代が覚えている限り一度も無い。……なのに今回はこの有様だ。久我への嫉妬が胎の底にジワリとわき起こる。
(戻ってくんな久我。このまま別れちまえ)
半ば本気でそう思う。 

 事の始まりは影山からの電話だった。
朝の4時だ。これが部下なら怒鳴りつける所だが、影山となると、何かトラブルかもしれない、と半分寝ぼけたままスマホを耳に押し当てる。
「……おりがわ、り……かえ…こい……」
聞こえてきたのは聞いたこともない濁声だった。……今のは本当に影山か?
「おーいカゲ、どうしたー?」
「……かえってこぉい……」
帰ってこい?……もしかしてオレと久我を間違えてる?
「カゲー? おーいもしもしぃ」
「……」
 電話の向こうに鼾らしき音が聞こえはじめる。どうも泥酔しているらしい。
 へぇ、あの自制心の塊みたいな男がねぇ。久我と何かあったのかもしれない。これは面白くなるか?
 目も醒めてしまったし、今日は確か急ぎの案件も無いし、出社前にちょっと覗いてみるか。
と、久々に一人で車に乗り込んだ。

 影山家に着くと、呼び鈴を鳴らすかどうか迷い、試しに玄関の開き戸に手をかける。施錠されていなかった。そっと戸を開け、玄関に入ってみる。……室内から微かに鼾が聞こえる。久我の靴は無いようだった。まだ帰ってないか……もう帰って来ないか。

 静かに影山を探す。床に脱ぎ散らかされた服が目に入り、影山は直ぐに見つかった。酒臭い据えた匂いが鼻につき、矢代は微かに眉間に皺をよせる。
 幼い頃、義父が家にいる時はいつもこういう匂いがしていた。汚れた台所、荒れた室内……記憶から無理に意識を逸らすと、足早に部屋を横切り窓を開ける。

 ポケットからタバコを出して火をつけながら、影山を足でつついて軽く揺さぶってみる。
「カーゲー、起きろー」
影山は眉間に深い皺を寄せたが、目は開かない。矢代はタバコを咥えたまましゃがむと両手で強く揺さぶる。酒臭い匂いが一層強くなり顔をしかめる。
「影山ー、俺だ、起きろ。ちっ酒クセーな〜どんだけ呑んだんだよ」
影山が濁った目をうっすら開ける。

 ふいに両手を掴まれて引き倒され、影山が矢代の上にのしかかる。一瞬の事に驚愕した矢代が固まった隙に影山がいきなり口づけをしてきた。
「!!!!」
 驚愕、混乱、影山の匂い、感触、コンマ数秒で目まぐるしく考えが渦巻き、影山の粘ついた舌が口内に押し込まれると、一瞬で矢代の全身が泡立った。両手で力任せに影山の頭を引き剥がすと、左膝を相手の脇腹に思い切り蹴り入れる。影山が呻いてよろけた隙に強引に起き上がると、台所に駆け込んで水道の水で口を勢い良く濯いだ。
「……うっえ…ゲロくっせぇっ……」
 シンクでひとしきり咳き込んでから部屋に戻ると、流石に目を覚ました影山が布団の上に座り込み、思い切り不機嫌そうに矢代を見上げた。

「……なんでお前が居るんだ……」
「お前が呼んだんだろ」
矢代はスマホの履歴を見せる。影山は生あくびをしながら立ち上がると台所に向かった。
「どしたー? 久我チャンと別れた?」
「……ヒトん家の事情に首突っ込んでくんな。アイツも暫くすりゃ戻ってくる。その前に帰れ」
コップに水を注いで飲み干す。
「カゲの泣き顔拝めるかもーって思ったのに残念ー」
矢代は先程吹っ飛んだタバコの吸殻が畳に焦げ跡を付けているのに気づき、吸殻を拾い上げ、シンクに押し付けると三角コーナーに放り込む。吸殻に水が染みてゆく。
それを眺めながら、何気なさそうに矢代は聞いてみた。
「……さっき何でキスなんかした?」
同じく吸殻を見つめながら影山は答える
「悪い。間違えた」
「へぇ……」
……気の利いた言葉が頭に浮かばない。

玄関に向かう矢代の後ろ姿に影山が声をかける。
「わざわざすまん。ありがとう」
「しっかり歯磨けよーったく俺までゲロ吐きそうになったわー」

 矢代は車に乗り込むと、長いため息をついた。
……さすがにビビッた。
……つーか、長年の片思いの相手とのファーストキスはゲロ味でしたってか……これは笑うとこか?泣くとこか?
矢代は急に情けない気分になってきた。

 出勤の送迎の為に矢代のマンションに行き、車に派手な凹みが増えているのを見て、七原は矢代に何か言おうとしたが、言葉を飲み込んだ。
(朝っぱらからご機嫌斜めかよ……)
ルームミラー越しに表情を窺うと、今日は特に慎重に振る舞うよう、後で皆に言っとかないとな、と考える。

 矢代はいつも薄笑いを浮かべ、表情から感情を予測するのが難しいが、七原は長年の付き合いで、微妙な違いを察する能力が嫌でも身に付いていた。今では事務所の組員は、矢代に難しい案件を報告する時、事前に七原にお伺いを立てるようになっている。
(そーいや桐島から新人の件で連絡あったけど、どうすっか。……今日はやめといた方が良さそうか)
七原は心のメモに書き込んだ。
『新人の件は数日後に持ち越し』
新人の名前。なんつったっけ、何か珍しい苗字だったな……えーと確か……

「百目鬼」
桐島に呼ばれて男が振り返る。
「さっき七原さんから木曜あたりに頭に引き合わせるって連絡あったからよ、お前、それまでに荷物まとめとけ」
「はい」
桐島がその場を離れると、百目鬼はダンボールを取りに事務所の裏に歩き出す。
……向こうに行けば。……あの綺麗な人に会えるのか。
脳裏に、いつか見た立ち姿が蘇る。

 喜び、悲しみ、不安、期待……そんな人間らしい感情は、もう自分の中から永久に喪われたと思っていた。人間は、好むと好まざるとに関わらず、回復していくものなのかもしれない。

……それを自分は望んでいない。そんな資格は俺には無い。俺は死ぬ時までただ生きるだけだ。それがせめてもの、妹への償いだった。
 百目鬼はダンボールを自分の机に運び、僅かな荷物をそれに詰め始めた。

<fin>

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