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花は花に非ず

[※囀る鳥は羽ばたかない 二次創作]
本編5〜6巻&本編後 矢代 百目鬼

こいつを受け入れたら
俺は俺という人間を手放さなきゃならない
それがどういうことか
こいつには一生分からない


雨が本降りになってきたにも関わらず、百目鬼は運転席のドアを開けて車を降り、姿を消した。
 矢代は助手席で煙草を燻らせながら、左手で顔を覆った。こみ上げてくる想いを押し殺し、苦く微笑む。
(あいつがバカで良かった)

 ここから先は、誰も連れて行かない。平田との対決は、ヤクザ世界をそれなりに長い年月、渡ってきた矢代でさえギリギリの正念場で、首尾よく自供を取れるか否かに自分の今後がかかっていると言ってもよかった。尻に卵の殻が付いたままのヒヨッコを巻き込めるはずもない。

 助手席の車窓から、小さい子供を連れた母親の姿が見える。子供は水色のレインコートと長靴を身につけており、傘をさした母親に手を引かれて歩いている。……矢代の中にピアノの音が響いた。
 『A Flower Is Not A Flower』
 坂本龍一のピアノ曲だ。雨の日に母親と子供が連れ立って歩く姿を目にすると、身体の中にいつも、この曲が流れる。矢代の心にミントグリーンの影がさす。

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 幼い矢代はミントグリーンの傘をさして、母親に手を引かれて歩いている。自分の黄色い長靴にも、辺りの風景にも、薄い緑色がうっすら重なる。古いフィルムを通して観るようにざらついて細部はぼやけた、ミントグリーンの光がにじむ情景。

 商店街のスピーカーからピアノ曲が流れてくる。ピアノの穏やかな甘い響きが雨の匂いと混じり合う。自分の右手を握って歩いているのは若い頃の母親で、彼を見下ろして微笑む。
 透明な滴が歩く度に自分の長靴から飛び散るのが不思議だ。傘の金属を伝って流れた雨が手を濡らす。冷たい。空気は湿っていて、吐く息が白い。世界は不思議で、驚異に満ちている。この頃の彼は母親の愛情を疑うことを知らない。それを当たり前のように受け入れる、さながら空気のように。
 不思議さと楽しさと嬉しさで心がいっぱいで、何かをずっと母親に話しかけていたのに一言も思い出せない。

 笑っている母親の思い出はこれしかない。他の記憶にある母親の顔はいつも怒りで不機嫌そうに歪んでいる。
 ミントグリーンの世界。あれが母親から彼に向けられた最後の微笑みだったのだろうか。

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 出し抜けに矢代の追憶は途切れる。
車のドアを開けて乗り込んできた百目鬼は、濡れたビニール傘を後部座席に放り、コンビニの袋からペットボトルの水を取り出して矢代に差し出した。
「どうぞ 薬、飲みますよね」
矢代はそれを力任せに弾き飛ばした。
「どうぞじゃねえよ。なんなんだよバカなのか?いやバカか」
百目鬼は平静さを崩さない。
「雨が降ってきたので傘を……」
「買いに行くか?! この流れで」
百目鬼は真っ直ぐに矢代を見た。
「側を離れる気はないと言いました」
瞬間、矢代の心に強い怒りが湧き上がり、身体を運転席に向けると右足で百目鬼の顔を勢いよく蹴りつけた。
「お前のそういうとこがイラつくっつってんだろ。降りろ」
百目鬼は矢代の右足首を掴んだ。掴んだ手を離さず、上体を乗り出して助手席に近づく。
「あの時もあなたはそう言って俺にキスした。あれも全部、演技ですか?」
「そうだっつってんだろ、いい加減しつけー」
矢代の言葉は途切れる。百目鬼はさらに上体を乗り出して身体を助手席に寄せ、右手を矢代の顔に伸ばした。矢代の鼓動がドキンと鳴る。百目鬼の手はそこを素通りして助手席のシートベルトを掴んだ。それを引っ張り、矢代の身体をシートベルトで固定する。百目鬼は身体を運転席に戻すと言った。
「すみません」
矢代は一瞬の動揺を見透かされた気がして不機嫌に聞き返す。
「何がだよ」
「——— 俺からは もう何もしませんから安心して下さい」
「誰が不安がってるって?」
「多分、簡単にあなたを抑えつけられるので」
百目鬼の口調は穏やかだ。矢代は苛立ちを募らせた。
(……クソ可愛くねぇ……)
 昨晩、百目鬼と抱き合った時の力強さと熱が不意に蘇り、身体の奥深くがズクリと疼いた。

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 空港近くの、埃っぽくガランとした倉庫の中で。放置された古タイヤを枕に、地面に横になっていた矢代は、百目鬼に膝枕をせがんだ。矢代の身体は発熱し、額にはうっすら汗が浮かんでいる。 

 百目鬼の膝に頭を乗せた矢代は、懐から鎮静剤と注射器を取り出して、右手で注射をした。いつの間にか矢代の右手が回復している事に百目鬼は驚いた。それでも、かなり具合が悪そうだ。
「まぁまだ痛ぇんだけどな、あっちもこっちも。色んなことしたから」
「すみません、俺が……」
「俺が? エロいことしたから?」
「……」
 矢代の身体は限界が近いのかもしれない。昨夜の事を敢えて意識から締め出した。本来ならしっかり休ませなくてはならない貴重な時間だったのに、かえって負担をかけてしまった。矢代への心配、強引に行為に及んだことへの後ろめたさ、これから起こる事に対する懸念とが渾然となって百目鬼の胸を焼く。
「……今からでも影山先生のところに。それがダメならどこか遠くへ行」
矢代は遮るように
「なぁ」
と百目鬼に話しかけた。
「人を好きになるのってお前はどんな感じだ? どんな風に好きになるんだ?」
百目鬼は痛みを堪えるような顔になる。矢代は話を続ける。
「俺のこと聞いてるわけじゃねーから ほら、他にもいたんだろ、そういう相手」
「……あなたは他とは違います そう言って欲しいからワザとそんな聞き方するんですか?」
「違う」
「違うなら……っ、違うなら聞かないで欲しい……っ」
珍しく声を張り上げた後、百目鬼は苦しげに目を閉じて俯いた。矢代は下からその顔を見上げて、意地悪そうな笑みを浮かべる。
「ゾクゾクするよな、お前のその表情(かお)」
左手を伸ばして百目鬼の左頬に触れ、百目鬼は目を開ける。
「さっきみたいにスカしてんのより よっぽどいい」
百目鬼の頬に貼られた大きな絆創膏を乱暴に剥ぎ取った。傷から血が滲み、矢代は左指でその傷をなぞった。
「また血が出てきた。痛いか?」
「……っ」
「痛いんだな」
尚も傷に手を触れながら矢代は優しく微笑んだ。
「俺にとってはこんな感じだ」
百目鬼は僅かに目を見開いた。矢代は静かに言葉を続ける。
「お前はさ、妹の気持ち、知ってたろ?」
「……妹は、今はもうそんな気持ち ない筈です」
「そうか?」
「昔のことですから」
「……妹は、良かったな、お前がいて」
百目鬼はその言葉に驚き、目を潤ませた。
(あ……)
矢代は百目鬼の顔を見つめ、身体を起こした。百目鬼は涙を拭った。
「どうして そんな事を今……」
矢代は手で首の後ろをさすりながら
「バッカだなぁお前 慰めたとでも思ってんのか?」
「違うんですか」
「そんな優しくねぇって何度言わせんだ」
「なら 本心から言ってくれたんですか」
「そうだな 思ってるから言った」
矢代は立ち上がると、身体に付いた土埃を払い、歩き出す。百目鬼は声をかけた。
「頭、どこに」
「ションベン。覗き見すんなよ!今更逃げねぇから」

 しばらくしてから、倉庫脇の道具置き場に出ていた矢代が倉庫内に戻って来た。
「お待たせー。長いことしてなかったからキレ悪くってさ。永遠に出続けるかと思ったわー」
「大丈夫ですか」
「いやそんな真顔で聞かれても」
二人は出口に向かって歩き出す。
「さて、頼んでた荷物も届くみたいだしそろそろ行くか」
「頼んでた荷物?」
「そ、デカイやつがさ」

 出口を出る直前、矢代がふらつき、百目鬼は咄嗟に上体を支える。
「頭っ! まだ横に……」
「大丈夫だってこんくらい」
「ですが……」
矢代は百目鬼にもたれかかると素早く彼の背中に手を回し、ズボンに差し込んであった銃を抜き取った。百目鬼がそれに気付くと同時に矢代は百目鬼の左足を銃で撃った。弾は腿を掠め、肉を数センチ抉る。百目鬼は驚きと苦痛に顔を歪め膝をついた。矢代はすかさず銃口を百目鬼の頭に押し付け、言い放った。
「簡単に抑えつけられる人間に、銃口向けられる気分はどうだ?」
二人はその姿勢のまま数秒、凍りつく。矢代は冷たい表情で百目鬼を見下ろす。
「これでも傷つかないのか? ……お前を見てると無性に壊したくなる」
「……どうしてですか」
「お前が離れないからだろ」
百目鬼は銃口の向こうにある矢代の目を見た。彼の目には何の表情も浮かんでいなかった。額に押しつけられた銃口は微動だにしない。

 百目鬼は目を閉じ、ゆっくりと開けた。覚悟を決めた顔だった。
「あなたを守るために使うと決めた命です。あなたの好きにすればいい」

 矢代の表情は変わらない。
「そうか」

 矢代は引金を引いた。



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 雨が降り始めた。神谷はワイパーを動かし、停止線に停車する。信号の鮮やかな赤色が車窓に滲む。神谷は前を向いたまま、助手席に乗る百目鬼に声をかけた。
「古傷、痛みます?」
百目鬼は左腿をさする手を止め、神谷の方を見て言った。
「……気圧が下がると、痛む時があります」
信号が変わり、車は発進する。
「雨が降ると機嫌が悪くなる連中ばっかなのに、これから会合とか、タイミング悪いっすね」
 二人は組に戻る途中だ。この後、百目鬼は夜からの三和会の会合に、綱川のお供として同行する予定になっていた。神谷はチラッと百目鬼の方を見た。
「年度始めの会合で毎回、部屋住み明けの紹介があるんですよ。今年は紹介人数多いらしいっす」
百目鬼は車窓を眺めながら
「そうですか」
と答えた。
 夕方の雨にけぶる都会の景色。人々が行き交い、店の灯りが煌めきを増してゆく。カーラジオからピアノ曲が流れ始める。百目鬼は耳を澄ませた。
……矢代が好きな曲だ。
百目鬼は思い出す。あの時は夜で、やはり雨が降っていた。


 運転席からルームミラー越しに様子を伺うと、百目鬼は、矢代に声をかけようとした。
『この曲が好きなんですか?』
……しかし、その問いは発せられなかった。矢代の物思いを破りたくなかった。窓に向けられた彼の顔はいつになく穏やかで、流れる景色に何かを写し、それを追っているのが分かった。

A Flower Is Not A Flower

 坂本龍一が作曲した曲で、元々はケニー•ウェンという台湾の二胡(中国の伝統的な弦楽器)奏者の為に書かれた曲らしい。車内で流れていたのは、ピアノアレンジバージョンだった。
 ケニーは曲にタイトルをつけた。
 中国の詩『花は花に非ず』
……昼間に会う事の出来ない恋人同士が、夜に人目を忍んで逢引きする様子を謳った詩。

 後でそれを知って百目鬼は複雑な気分になった。曲を聞いて矢代は何を思い出していたんだろう。昔の大事な人の事か、それとも。

 ……今思えば、その時、既にどうしようもなく恋に落ちていた。
あの人に。
暗い車内から車窓を見つめ、じっと何かを見ている、どこか寂しげな横顔。

『この曲を聴いて、誰の事を思い出しているんですか?』
 いつか、あの人に尋ねる事が出来たら、答えてくれるだろうか。
聞こえないフリをして黙っているか。気のない様子で適当に返事をするのか。
……それとも笑って言うだろうか。
『へえ気になる? 一丁前にヤキモチかよ、十年早いっつの』



 一度だけ、あの人と抱き合った夜にも、雨が降っていた。

『いいから寝ろってこのまま』

『……目を閉じるのが……怖くて……』

『なんだそりゃ』

『聞いてもいいですか
どうして……さっき泣いてたのか……』

……雨があがり夜が明けると、彼は姿を消していた。

 百目鬼は目を閉じ、ピアノの調べと共に矢代の面影を追った。



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「花非花」(作/白居易)
 花非花,霧非霧。
 夜半來,天明去。
 來如春夢幾多時,
 去似朝雲無覓處。

「花は花に非ず」
花のようで花ではない
霧のようで霧ではない
夜半にやって来て夜明けと共に去ってゆく
共に過ごす時間は春の夢のように儚く過ぎ去る
朝の雲のように去るひとを留めることはできない



<fin>

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