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春空とタコ焼き【#ひと色展〜Horizonblue】
葉桜の向こうに漂う、沁みるような水色。
この時期になると思い出す。
彼は「ソラ」と名乗った。苗字か、名前か。正確な漢字も分からない。僕は何となく「空」という字をイメージしている。
十年前、とある食品会社に勤めていた頃だった。商品を社用車に積んで、営業に回ったり、時には取引先に届けたりするのだが、そんな時の密かな楽しみは、高速道路のSA(サービスエリア)で、おいしいものを食べることだった。
あるとき、営業の帰りにSAに寄った。このSAの名物はタコ焼きで、僕は車を停めるとすぐに、目当てのタコ焼き屋を探した。
店が並ぶ一角に「たこ焼き」と書かれた赤いのぼりが立っていて、ひとの列が見えた。僕はそそくさと列に並んだ。ソースと鰹節のいい匂いが漂っている。
出来たてのタコ焼きを受け取って、食べる場所を探している時、よそ見をしながら歩いて来た若い男が、僕に正面からぶつかった。
「あっ!」
落ちて地面に散らばったタコ焼きを見て、悲鳴のような声をあげたのは彼の方だった。彼は素早くタコ焼きを拾って皿に戻すと、立ち上がってこちらに頭を下げた。
「本当にすみません! ごめんなぁ無駄にしちゃって」彼は、僕と、手元のタコ焼きの両方に謝ると「そこのベンチで待ってて下さい!」とベンチを指し示し、走って行ってしまった。僕は呆然と立ち尽くし、つぶれたタコ焼きを見下ろして溜息をつくと、仕方なくベンチに腰を下ろした。
後ろに小さな桜の木があって、僅かに残った花を散らしている。本当に戻ってくるのかと、少々心配になりかけた頃、両手に一つずつタコ焼きを持った彼が、満面の笑みで歩いてきた。
「お待たせして申し訳ないです。あのこれ良かったら。あー腹へった」
彼は缶コーヒーを二本、ベンチに置いて、どすんと腰を下ろすと勢いよく食べ始めた。僕もお腹が空いていたので、さっそく頬張った。
空きっ腹で食べるタコ焼きは、とろけるように美味かった。
僕らは食べ終えると、コーヒーを飲みながら少し話をした。彼は高校を出てすぐに働き、長い休みを取って、実家に帰る途中だという。初めて自分でローンを組んで買ったバイクに乗って。
そして僕らは別れ、再び会うことはなかった。
あれからそれなりに時間が経ったけれども、あの短い邂逅を、僕はいまでも覚えているし、たぶんこれからも忘れることはない。
ときどき人生にはそういうことが起こる。知らない街角で初めて聴いた音楽が、おりに触れて蘇るようなことが。
あの時の話の内容も、彼の顔も既におぼろげだ。鮮明なのは地面を転がるタコ焼きと、沁みいる味わいと、柔らかな春の空。
──それでも。
花びらが舞う午後のベンチと、山の端にけぶる水色を思い出すとき、僕は、ほんの少しだけ幸せだ。
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※この作品は、イシノアサミさんの #ひと色展 に参加しています!